第182話 傷口

 どうしてこうなった……


 僕は、バレンタインデーの前日、2月13日に、野球部の部室を掃除している。


 部室から部員は全員出払っていて、グラウンドから野球部の掛け声や、金属バットの音が聞こえてきた。

 野球部員の制服やTシャツが脱ぎ散らかされた汗臭い部屋を、僕は一人で掃除している。


 本当だったら、今頃、宝諸さん達、サッカー部や野球部の女子マネージャーと、寄宿舎の台所で和気藹々わきあいあいとチョコレートを作っていたはずだ。


 チョコレートとレモンの甘い香りに包まれて。



 まあ、これも自分で言い出したことなんだから、しょうがないけど。


 とりあえず、脱ぎ散らかされた衣類から、洗濯が必要な汚れ物をより分けてランドリーバッグに放り込んだ。

 これはあとで、寄宿舎に持っていって、そこで洗濯をする。


 はたきをかけて埃を落とし、床の泥を掃き出して、窓ガラスを磨いた。

 テーブルや棚の上を拭いておく。

 後は、汗臭さを消すためにファブリーズを目一杯かけた。


 それでも、消えないくらい、汗臭いけど……



 さて、次はサッカー部だ。


 サッカー部の部室でも、誰もいない部室を同じように掃除をしていたら、突然、一人の一年生部員が、部室に入ってきた。


「あの、何してるんですか?」

 その一年生は掃除してる僕を見て、不思議そうな顔で訊いた。


「待て、怪しい者じゃない。マネージャーの代わりに掃除してるだけだ」

 言っておきながら、思いっきり怪しいのはいなめないと、自分でも思う。

 無人の部室に勝手に入って、掃除してるんだし。


 でも、「君達のマネージャーは、今、チョコレート作ってるから、僕が替わったんだよ」とか、明日の楽しみをばらしたらかわいそうだから、それは黙っておかないといけなかった。


「篠岡先輩ですよね? 主夫部の」

 一年生が訊く。


「うん、そうだけど」

 僕のこと、知ってるのか。


 彼は人懐こそうな目で、僕の目を覗き込んできた。

 身長は180くらいあって、僕より背が高い。

 パーマがかかった前髪で眉が隠れていて、サッカーするとき邪魔じゃないかって、心配になった。

 短パンから見える足とか細いし、サッカー選手っていうより、モデルでもやってそうな感じだ。


「弩から、お噂は聞いてます。同じクラスなんで」

 その一年生が言う。


 弩から聞いた?


 弩は、僕のこと、どんなふうに言ってるんだろう。

 ってゆうか、弩は、こんなイケメンでサッカー部のクラスメートと、仲良く話してるのか。

 まあ、ぼっちだった弩がクラスメートと馴染んで、友達が増えるのはいいことなんだけど。


「君たちのマネージャーと、交流というか、お互いの持ち場を替わって改善点を見つけよう、みたいなことしてるんだよ。だから、今、ここの掃除してる。君達のマネージャーは、僕に替わって寄宿舎で家事をしてるよ」

 僕は咄嗟とっさに嘘をついた。

 苦しい言い訳だったかもしれない。


「へえ、そうなんですね」

 一年生の彼は、すんなり納得してくれた。


「それで、君は?」

 一人だけ部活を抜けて、サボりにでも来たんだろうか。


「あ、はい。ちょっと転んで、足を擦りむいちゃったんで、救急箱に絆創膏ばんそうこうでもないかと思って」

 確かに、その一年生の膝の外側が、擦れて血がにじんでいた。


「ちょっと見せて」

 彼に足を上げさせて、傷口を見る。

 血が滲んだ傷口には、砂や土がたくさんついていた。


「これに絆創膏貼ったって駄目だよ。ほら、手当てするから」

 僕は言った。


「えっ、いいんですか?」

 一年生はびっくりして目を丸くする。


「いいよ、ついでだし」

 本当は、女子マネージャーに優しく手当てしてもらいたかったんだろうけど、僕で我慢してもらうしかない。


 一年生を水道のところに連れて行って、靴と靴下を脱がせ、ホースで水をかけて擦ったところを丁寧に洗った。


「いててて、先輩、痛いです」

 彼が情けない声を出す。


「我慢しろって」

 傷に向けて、僕は、なぜか強めに水を当ててしまった。

 少し乱暴に、傷口の泥を落とす。



 だけど、僕はなんで、2月13日というこの日に、下級生男子の傷口を洗ってるんだろう。



 清潔なタオルで余分な水気を拭き取ったら、救急箱の中にあったキズパワーパッドを貼っておいた。


「消毒とか、しないんですか?」

 一年生が訊く。

「消毒すると、治りが遅くなるらしい。今は人間の自然治癒力に任せた湿潤しつじゅん療法っていうのが主流なんだってさ」

 そのほうが傷口が残らずに綺麗に治るらしいし。


「へえ、さすがですね」

 一年生は何度も頷いて、深く感心している。


「はい、これで終わり」

 僕が言うと、

「ありがとうございます」

 一年生は、礼儀正しく頭を下げた。

 イケメンでチャラそうだけど、案外、いい奴なのか。


「あの、篠岡先輩。先輩って主夫部なんですよね?」

 一年生が訊いてきた。

「ああ」


「主夫部って楽しいですか?」

 一年生は、そんなストレートな質問をする。


「うん、楽しいな。朝早くから洗濯したり、掃除したり、朝食用意したり、やることがいっぱいあって」


「それって、楽しいんですか?」


「楽しいよ。家事自体も、毎回発見があって楽しいし、頑張ってる女子達の力になって、彼女達を笑顔にできるのが最高に楽しい。毎日、ありがとうって言ってもらえて、成果をすぐに感じることができるし。女子が、それぞれ自分の分野で結果を出して喜んでるのを見ると、こっちも嬉しくなる。彼女達のために、もっともっと色々してあげたいって、思うんだ」

 僕は、一年生を前に熱くなって語ってしまった。


「へえ、そうなんですね」

 一年生はそう言って、爽やかな笑顔を見せる。


「申し遅れましたけど、僕、子森こもりつばさっていいます」

 一年生はそう名乗って、もう一度頭を下げた。


「それじゃあ、本当にありがとうございました」

 彼はそう言って部活に戻っていった。


 あとで、弩に彼のこと訊いてみよう。




 サッカー部部室の掃除を済ませたあと、洗濯物をランドリーバッグに詰め込んで、寄宿舎に戻る。

 ユニフォームやタオル、Tシャツなどで量が多くて、ランドリーバッグを八つも使った。

 野球部の分とサッカー部の分で、部室棟と寄宿舎の間を二往復する。




 寄宿舎に戻ると、そこはチョコレートの甘い香りと、レモンの酸っぱい香りで満ちていた。


「あ、先輩すみません」

 台所を覗いたら、僕に気がついた宝諸さんが駆け寄ってきた。

 君嶋さんと藤田さんも頭を下げる。

 エプロン姿の三人が調理担当で、御厨と一緒に、チョコレートを作っているみたいだ。


「あの、先輩、私達が作ったチョコ、ちょと味見してもらっていいですか?」

 宝諸さんが訊いた。

「あ、ごめん。今、手が汚れてるから」

 汚れた洗濯物を抱えてるし。


「それじゃあ、食べさせてあげます」

 宝諸さんがそう言って、摘まんだチョコレートを僕の口に入れてくれた。


「どうですか?」

 宝諸さんが、小首を傾げて訊く。


 すごく酸っぱいけど、これは今のこの、女子にチョコを食べさせてもらうっていう、シチュエーションがそうさせてるだけで、本当は丁度いいんだと思う。


「うん、美味しい」

 僕が言うと、三人は手を取り合って喜んだ。


 食堂に顔を出すと、そっちでは広瀬さんと沖さんとが、錦織と一緒に、チョコのパッケージを用意していた。

 包装紙で小袋を作ったり、リボンをカットしたり、三人で話をしながら、楽しそうだ。



 さて、僕も仕事を片付けてしまおう。

 僕はランドリーバッグを抱えて、僕の城であるランドリールームに向かう。


 さすがにこの量だと裏庭に干すのは無理だから、乾燥機も総動員して四台の洗濯機で洗濯物を片付けた。

 乾燥が終わった衣類から畳んで分類して、その間にまた洗濯機を回す。

 特に泥汚れが酷いユニフォームなんかは、お湯につけてもみ洗いした。



 あれ、でも、弩がいない。



 普段ならこうして僕が家事をしていると、「せんぱーい!」とか言って、じゃれついてくるのに。

 猫みたいに、仕事の邪魔をしてくるのに。


 そういえば、古品さん達、「Party Make」の三人がレッスンしている音も聞こえないし、縦走先輩も見当たらなかった。

 職員会議から逃げてきたヨハンナ先生が、廊下をふらふらしてることもない。



 ちょっと気になって、洗濯機を回している間に112号室を見に行ったけど、そこに弩はいなかった。

 ベッドの中や、コタツの中にもいない。

 念のため、タンスの引き出しも開けてみたけど、そこにあるのはパンツだけだ。


 萌花ちゃんの部屋、ヨハンナ先生の部屋、縦走先輩の部屋、一階には誰もいない。

 二階に上がって、古品さんの部屋や、新巻さんの部屋も確認したけど、そこにも誰もいなかった。


 みんな、どうしたんだろう。

 って考えていたら、ボルドーのワンピースの鬼胡桃会長が、廊下をこっちに歩いてきた。


「鬼胡桃会長、寄宿生のみんな、知りませんか?」

 僕が訊く。


「知らないわ。いないの?」

「はい、みんないません」


「そう、おかしいわね」

 部屋で母木先輩と受験勉強中だった鬼胡桃会長は、何も知らないみたいだ。


「あれじゃない? あなた達が運動部の女子マネージャーと仲良くチョコレートなんか作ってるから、焼き餅焼いてどっか行っちゃったんじゃないの?」

 鬼胡桃会長が悪戯っぽく言った。


「いえ、仲良くとか、僕達は全然そんな気ないですけど。ただ、彼女達を助けたかっただけで」

 格好つけてるみたいに聞こえるかもしれないけど、本心だ。


「あなた達って、家事はできるのに、女心はまるで分かってないのね」

 鬼胡桃会長は、そう言って大げさに肩を竦めた。


「まあいいわ。あなた達、今回それを身をもって勉強しなさい」

 鬼胡桃会長はそんなことを言う。


 なんだろう、それ。


 明日はバレンタインデーだっていうのに、僕達、どうなっちゃうんだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る