第181話 半跏思惟像

 嗚呼ああ、蒼天に翻るセーラー服の白が眩しい。



 やっと、僕の家事禁止が解けた。

 ヨハンナ先生と弩との約束で代わってもらっていた家事が解禁になって、僕は今日から朝練を再開している。


 早朝からランドリールームで洗濯機を回して、裏庭で洗濯物を干した。

 枝折の高校受験も終わって、あとは発表を待つだけだし、心置きなく洗濯できる。


 セーラー服やパンツが、気持ちよさそうに空を泳いでいた。

 やっぱり、これだけ数があると、壮観だ。



「篠岡、おはよう!」

 僕が洗濯物を干していると、トレーニングを終えた縦走先輩が、帰ってくる。

 寒い中でもランニングに短パンという軽装の縦走先輩は、はつらつとした顔をしていた。


「やっぱり、篠岡はこうして洗濯している姿が似合うな」

 縦走先輩が言う。

「ありがとうございます」

 そう言ってもらえると、なんか嬉しい。


「私がこのセーラー服に袖を通すのも、あと少しか」

 干してある制服を見ながら、先輩がしみじみと言った。

 そんなふうに言われると、三年生の先輩達がここを去ってしまうのを想像して、寂しくなる。


「よし、シャワー浴びてくるか。篠岡、一緒にシャワーどうだ?」

「いえ、僕はまだ仕事があるので」

「そうか、残念だ」

 先輩との、このやり取りが出来るのも、あと少しだ。




 さて、洗濯物を干し終わったら、次に大切な仕事、ヨハンナ先生を起こしに行くとしよう。


「先生、失礼します」

 僕はノックして、先生の部屋のドアを開けた。

 先生は、壁際のベッドの中で丸まっている。

 頭から羽布団を被って、完全防御態勢だ。


「先生、朝ですよ」

 返事がないけど、僕は容赦なくカーテンを開けた。

 窓から朝日が降り注ぐ。


「うわあああ」

 布団の中から先生のくぐもった声が聞こえた。

 先生は布団の中でもぞもぞしている。


 僕は、先生から布団を剥ぐ前に、布団の端をめくって、先生がパジャマを着ていることを確かめた(以前、起きない先生の布団を勢いよく引き剥がしたら、生まれたままの姿だったことがあって、それ以来、用心している)。


「さあ、起きましょう」

 布団を引き剥がす前にそう言うと、先生が布団から顔だけ出した。


「塞君、私、熱があるっぽい」

 ベッドに横になったまま、先生が甘えるように僕を見る。


 なるほど、今日は仮病のパターンか。


 僕は、先生のおでこに手を当てる。

「大丈夫です。熱なんてありませんよ。ほら起きましょう!」


「えっ、熱ないの? 駄目だ、私、熱なかったら死んでる。今日は学校行かない」

 先生が言った。


 子供の屁理屈か!


 僕は先生から布団を剥ぎ取る。



「あれっ? 先生、僕、寝る前に、次の日着る服を揃えておきなさいって、いつも言ってますよね」

 普段から、口を酸っぱくして言ってるのに、壁のハンガーに服が掛かってなかった。


「あ、あははは」

 先生が、笑ってごまかす。


「ほら、僕が用意しますから、その間に起きてください」

 僕は、先生のクローゼットを開けて、今日のスーツとシャツ、ストッキングを準備した。

 そうしているうちに、先生は観念して、もそもそとベッドから出てくる。


「着替えさせて」

 先生は僕に手を伸ばした。

「それは無理です」

 そこまで起こしたところで、僕は部屋を出る。

「ケチ」

 僕の背中に向けて先生が言った。


 開いたドアから僕とヨハンナ先生の格闘を見ていた新巻さんが、

「毎日、大変ね」

 と、同情してくれる。


 新巻さんはそう言うけど、これでやっと僕の日常が戻った気がした。





 その日の昼休み、主夫部部室にサッカー部と野球部のマネージャーを呼んで、試食会を開いた。

 マネージャーの五人と、主夫部の母木先輩を除いた四人で、部室に集まっている。



「美味しいです!」

 集まったマネージャーのみんなが、黄色い声を出した。


 御厨は、この前僕が試食したチョコレートをブラッシュアップしていて、蜂蜜のコクが深くなってるし、レモンの嫌な苦みもなくなっている。


「でも、私達、こんなふうに作れるんですか?」

 宝諸さんが訊いた。


「大丈夫、手順通りに作れば、簡単だよ」

 御厨は、手順を書いたプリントを用意している。

 チョコレートや中のレモンジャムの作り方まで、図説も入れて、事細かに書いてあった。


「すごーい!」

 って、女子マネージャーに囲まれて、御厨は照れて真っ赤になる。


「じゃあ、今度はこのチョコレートを入れるパッケージを見て」

 錦織が言った。

 錦織が選んだのは、パステルイエローの小袋に、サテンの青いリボンだ。


「いいですね。可愛いし」

 みんな、目を輝かせている。


「ピンクとか赤系統の色は、あえて避けたんだ。それだと、直接的に愛情を表現してるみたいに見えて、義理チョコらしくないと思ったし、照れちゃう部員がいるかもしれないしさ」

 さすが、錦織。

 パッケージの配色に、そこまで気を遣ってたのか。


「それじゃあ、これで進めていいかな?」

 僕は訊いた。


「はい、お願いします!」

 マネージャーのみんなが、満面の笑みで言った。


 僕達男子とマネージャーが盛り上がってるのを、弩が窓際のソファーで、半跏思惟像はんかしゆいぞうみたいなポーズで眺めている。



「よし、じゃあ、十三日の放課後、これで作業を進めよう。寄宿舎の台所と食堂を借りる許可は、管理人のヨハンナ先生に取ってあるから」

 その許可を得るために、僕がヨハンナ先生の頭皮マッサージを一週間、無償ですることになったのは、彼女達に気を遣わせるといけないから内緒だ。



「あのう、それなんですけど……」

 そこで、マネージャーのみんなが表情を曇らせる。


「私達、マネージャーとしての普段の仕事もあるので、洗濯とか部室の掃除とかあって、それが終わってからになっちゃうんですけど……」

 宝諸さんが、すまなそうに言った。


「何時ぐらいになったら、来られるの?」

 僕が訊く。


「全部終わるのは五時過ぎになると思います」


「それだと、遅くなりますね」

 御厨が言った。

 終わるのが五時過ぎだったら、実際に作り始めるのは六時くらいになるだろう。


「僕達主夫部で全部作っちゃってもいいんだけど、それだとマネージャーの手作りチョコって言えないもんな」

 錦織が言った。


 サッカー部や野球部の部員が欲しいのは、僕達が作ったチョコレートなんかじゃなくて、マネージャーが作った手作りチョコだろう。


「ご迷惑かけてすみません」

 宝諸さんは恐縮しきりだ。


「僕達は何度も寄宿舎に泊まり込んでるから、いいけど、みんなが遅くなるのは困るよね」

 御厨が言う。

 僕達ならともかく、マネージャーのみんなも徹夜ってわけにはいかないだろう。



「それなら、僕が代わろうか?」

 僕は提案してみた。


「えっ?」

 みんなが驚いて僕を見る。


「洗濯と部室の掃除、そっちの方を僕が代わるから、宝諸さん達は放課後のチョコ作りに専念すればいいよ」

 それなら、両方を遅くならずに済ませられる。


「そうだな。洗濯なら篠岡に任せれば問題ないな」

 錦織が言って、御厨も頷いた。


「そんな、駄目です。そこまでお世話になれません」

 宝諸さんが駄目ですと、首を振る。


「僕はちょうど、洗濯したくてうずうずしてたところだから、大丈夫」

 僕が言うと、わけが分からないマネージャーのみんなは、困った顔をした。


「でも、野球部とサッカー部の洗濯物ですから、量が多いですよ。大丈夫ですか?」

 宝諸さんが心配そうに訊く。


「舐めてもらったら困る。僕達だって、野球部員や、サッカー部員みたいに、毎日の部活で鍛えてるんだから、それくらいなんともない」

 気を遣わせたらいけないから、強めに言ってみた。


「いいんですか?」

 宝諸さんを始め、広瀬さん、君嶋さん、藤田さん、沖さんが、上目遣いに僕を見る。

 五人にそんなふうに見られると、壮観だ。


「任せておいて」

 僕は胸を張って答えた。



 ソファーで弩が笑っている。


(先輩、女子マネージャーといちゃいちゃチョコ作り出来なくて残念ですね)


 とか、言いたそうな顔をしてるから、


(うるさいぞ)


 って、念を返しておいた。



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