第180話 手を繋ごう
「それじゃあ、枝折ちゃん、頑張ってきて」
花園がそう言って、枝折をハグした。
「うん、頑張ってくる」
枝折はハグしたまま、ぽんぽんと花園の背中を叩いた。
家の玄関で、姉妹が少しのあいだ寄り添う。
自分の妹だからって部分を差し引いても、慈愛に満ちていて、美しい光景だ。
「じゃあ、行こうか」
枝折の高校受験当日、学校が試験会場になって休みの僕は、枝折を学校まで送っていく。
「お兄ちゃん、その手はなに?」
玄関で僕が枝折に手を差し伸べていたら、枝折が眉間に皺を作って言った。
制服にネイビーのダッフルコートで、僕の手編みの赤いマフラーを巻いている枝折。
「なにって、手を繋いで一緒に学校まで行こうってこと」
僕は言う。
「そういうの、いいから」
枝折は、けんもほろろだ。
「枝折ちゃんのこと、見送りたくても見送れない母さんと父さんの分まで、枝折ちゃんの世話焼いてあげたいしさ」
僕が言っても、枝折は見向きもしない。
「ほら、行くよ」
逆に枝折はそう言って、一人で先に玄関を出た。
「ああ、待って」
僕は慌てて枝折を追いかける。
昨日の天気予報では、朝方、雪が降るかもしれないってことだったけど、空は薄曇りで、なんとか持ちそうだ。
普段の通学路を、自分と同じ高校を受験する妹と歩くのは、なんだか変な気分だった。
枝折の成長を実感する。
実際、枝折の背も高くなっていて、並んで歩いていると、前は見えていたショートボブの真ん中の分け目が、見えなくなっていた。
そのうち、背丈を並ばれてしまうかもしれない。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「いや別に」
「もう、早く、行くよ」
これでは、どっちが送ってもらってるのか、分からない。
校門の周りは、同じように家族に送られて学校に来た生徒や、中学校単位で列を成して来る受験生で、ごった返していた。
「それじゃあ、頑張って」
僕はそう言って、枝折を送り出す。
「うん」
枝折は小さく頷いた。
「大丈夫、枝折ちゃんなら落ち着いて試験受ければ、絶対合格だから」
僕だって、受かったくらいだし。
「分かった。行ってくる」
枝折は、そう言って校門をくぐるかと思ったら、振り返って僕のところに戻って来た。そして、僕の胸におでこをくっつける。
「どうした? 枝折」
「ううん、なんでもない」
普段から冷静で、何に対しても動じない枝折も、不安でたまらなかったんだろう。
枝折は、そのまま、三十秒くらい、僕の胸におでこをくっつけていた。
「じゃあ、行ってくる」
そう言って、僕の胸からおでこを離す。
「寄宿舎で待ってるから、試験終わったら来るんだぞ」
「うん、分かった」
枝折は今度こそ、校門をくぐって試験会場に向かった。
その背中が見えなくなるまで、僕は頑張れって、枝折に念を送る。
枝折を見送ったその足で、僕は寄宿舎に向かった。
学校が休みになってるから、寄宿舎には寄宿生全員がいる。
鬼胡桃会長と受験勉強をする母木先輩も、錦織も御厨も来ていて、主夫部もみんな揃っていた。
ヨハンナ先生だけ、試験の監督で仕事中だ。
玄関でコートを脱いでいたら、弩がちょこちょこ走ってきた。
「枝折ちゃんを見送って来たんですか?」
弩が僕に訊いた。
「ああ」
「大丈夫、枝折ちゃんなら絶対合格しますよ」
弩がそう言ってくれる。
「そうだよな。春から枝折は弩の後輩になるから、よろしくな。弩先輩!」
「ふええ」
この、ふええとか言ってる弩が先輩になるっていうのも、相当感慨深い。
「先輩、チョコレートの試作品、味見してください」
台所に行ったら、御厨に頼まれた。
御厨は、黒い円盤状のチョコレートを皿に載せて持ってくる。
見た目は、アイスホッケーのパックを縮小したみたいだ。
「中に、レモンと蜂蜜多めで作ったジャムを入れてあります。食感を残すように、刻んだレモンピールも入れました」
御厨が言う。
食べてみると、パリッとした外のチョコレートの層と、中の生チョコっぽい層、そして、とろっとしたレモンジャムの層の、三層構造になっていた。
口に入れると、外のチョコレートと中の蜂蜜の甘さ、レモンの酸味が絶妙だ。
最後にレモンピールが口に残って、それを噛む感触も楽しい。
「これ、中のジャムに
「はい、少しだけ入れてあります」
舌にぴりっとした感覚は、それか。
「うん、さっぱりして美味しい」
「それじゃあ、この方向で、もっとブラッシュアップしますね」
御厨はそう言って試作に戻った。
今のままでも十分美味しいのに、もっと高みを目指す御厨の向上心には、脱帽する。
普段なら、僕もここから家事に取りかかるところだけど、今はそれが禁止されていて、何もできない。
なんだか、そわそわして落ち着かなかった。
枝折のことがあるから、家事に打ち込んで時間をやり過ごしたかったけど、それができないのだ。
よし、こういうときは、気持ちを落ち着かせるために、弩にちょっかい出してこよう(使命感)。
弩は裏庭で洗濯物を干していた。
未だに乾燥機を使わないのは、天日干し派の僕を
「おーい、弩」
「なんですか、先輩?」
「ぷにぷに」
洗濯物を干していて両手が塞がってるのをいいことに、後ろから手を伸ばして、弩のほっぺたをつまんだ。
力を入れたり、抜いたりして、
「は、はの、せ、せんはい。や、やめてくらはい」
つままれた状態で、弩が言った。
「やっぱ、弩のほっぺたは、ぷにぷにだな」
「はのはの、うれひいんれすれど、ほひごとがれきらいので」
「やっぱ、暇なときは弩にちょっかい出すに限るな」
そうやって5分くらい、しつこくほっぺたをいじくり回していたら、
「もう! お洗濯の邪魔しないでください!」
怒られた。
「ほら、先輩は、コタツでミカンでも食べててください!」
そう言って、弩は僕を自分の部屋に連れて行く。
僕はコタツに座らされて、菓子盆を渡された。
「ここで、大人しくしててくださいね」
弩はそう言い残して、部屋を出て行く。
ああ、つまらない。
仕方ないから、言われたとおりミカンでも食べようかと、菓子盆に手を伸ばした。
菓子盆の中には、ミカンと、そして当たり前のように、ホワイトロリータが十数本、入っていた。
まったく、弩はどこまでホワイトロリータ好きなんだ。
そんなことを考えながら菓子盆に入ってるホワイトロリータを見てたら、悪戯を思いついた。
僕は、弩の部屋を出て、近くのコンビニまで一っ走りする。
コンビニから帰ると、菓子盆に入っていたホワイトロリータの包み紙を全部剥いて、中身をコンビニで買ってきた同社のお菓子、「ルマンド・ホワイト」と入れ替えた。
見た目が同じだから、一見、区別がつかない。
洗濯を終えて、コタツに入って、ホワイトロリータだと思って包みを開け、口に運んだ時の弩の驚きが目に浮かぶ。
きっと、「ふええー」とか言って、ひっくり返るだろう。
ちょっと可愛そうな気もするけど、ルマンド・ホワイトも美味しいし、まあ、いいか。
って……
空しい。
悪戯をしておいて、急に空しくなった。
これだけのためにわざわざコンビニまで行ったりして、何やってるんだ。
僕は、コタツに入ったまま、床に敷いてある毛足が長いラグに寝っ転がった。
ここは本当に静かだ。
外界の音が殆ど聞こえないし、時間が止まったみたいだ。
微かに聞こえる古品さん達のレッスンの振動も心地よくて、眠りを誘った。
枝折が試験中だし、みんなが家事をしてるのに、僕だけこんなふうにだらだらしてていいのかって、思ったけど、目蓋が下りてきて眠気に
僕はそのまま眠ってしまう。
どれくらい経っただろうか、目を覚ますと、僕の体に毛布が掛けてあった。
「先輩、起きましたか?」
ドアを開けて、弩が部屋に戻ってくる。
「ああ、弩は、洗濯終わったのか?」
僕は起き上がった。
「はい、終わりました」
弩が言って、コタツに入る。
弩からは、仄かに柔軟剤の香りがした。
これは「ハミング Neo・ ベビーパウダーの香り」だ。
「毛布掛けてくれたの弩か?」
「はい、先輩が風邪をひくといけないので掛けておきました。もう、コタツで寝たら駄目ですよ」
弩が、お茶を入れながら言った。
僕の分も入れてくれる。
「うん、そうだな。ありがとう」
なんか、さっき、ほっぺたとか弄っちゃったけど、今日の弩は、凜々しく見えた。
「こうやって、毛布掛けてくれたり、お茶入れてくれたり、洗濯が出来るようになったり。弩も、日々進化してるな。将来、主夫である弩のパートナーが、風邪とかで倒れることがあっても、その時は弩が家事を回せるんじゃないか?」
「そそそ、そんなことないです。わわわ私なんてまだまだ……」
そうだった。
弩は褒められると弱いタイプだった。
「今回、弩とヨハンナ先生に休ませてもらって、僕は、あらためて家事をしたいんだって分かったよ。それに気付かせてもらったし、体力的にも回復したし、枝折の世話もしてあげられたし、本当に二人には感謝してる」
僕はそう言って頭を下げる。
「先輩、頭を上げてください! 私達こそ、普段から先輩に感謝しています。それに家事を代わって、先輩達の大変さが分かりました。だから、これからもよろしくお願いします」
弩も頭を下げた。
この部屋は、お互いを
「先輩、お茶飲んでください、冷めちゃいますよ」
弩が言った。
「ああ、頂く」
僕は、お茶を口に含む。
その前で、弩が、菓子盆の中のホワイトロリータに手を伸ばした。
あ、まずい。
それは……まずい。
カリッと、ホワイトロリータの包みに入った「ルマンド・ホワイト」を囓った瞬間、弩の顔色が変わった。
「先輩、なにしてくれてるんですか? こんな悪戯して、ただで済むと思ってます?」
弩さん、声色まで変わっている。
低い、ドスの利いた声だ。
逃げようとするところを、弩さんに背後から襲いかかられた。
そうだ、僕は弩さんが柔道の使い手だってこと、忘れてた。
弩さんに後ろから首に手を伸ばされて、
弩さんはタップしても許してくれなくて、意識が飛びかけた。
「な、中身は、ホワイトロリータの中身は取ってありますから」
その場所を教えて、僕は、なんとか弩さんに許される。
本当に、ホワイトロリータの恨みは恐ろしい。
「ただいま!」
三時半過ぎ、試験を終えた枝折が、寄宿舎に来た。
弩さんの髪を
「どうだった?」
「うん、実力は出せたよ」
枝折が言った。
「そうか」
無表情な枝折の顔を見て、弩さんをはじめ、そこに居合わせた寄宿舎の住人は心配してるけど、口の端が2ミリくらい上がってるから、枝折は相当自信があるんだと、僕は安心する。
「それじゃあ、また」
枝折は明日まだ面接があるから、僕は今日、これで帰らせてもらった。
枝折を送って、家に帰る(決して、弩さんが怖いから逃げ帰るわけではない)。
林の獣道を抜けた辺りで、枝折が僕に手を差し伸べてきた。
「んっ!」
枝折はそう言って、僕に手を伸ばしたまま、動かない。
「えっ?」
「繋いであげるよ、手」
枝折が言った。
「手を繋いで、一緒に帰ろう」
枝折がぶっきらぼうに言う。
僕は、枝折の手を取った。
枝折の冷たい手を、ぎゅっと握る。
「今日だけだからね」
枝折が言った。
「うん、ありがとう」
まだ明日面接があるけど、試験が無事に終わって枝折も安心したって感じが、手から伝わってくる。
僕達は、久しぶりに兄妹で手を繋いで帰った。
空から小雪が舞ってきたけど、全然寒くない。
家に帰って玄関を開けて、僕達が手を繋いでるのを見たら、花園が「ずるい!」っていいながら僕達に飛びついて来ると思う。
そうしたら、三人で手を繋ごう。
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