第178話 あと2ミリ
「篠岡君、ちょっと、国語科準備室まで来なさい」
四時間目の授業が終わって、これから昼食だというときに、ヨハンナ先生が僕を呼んだ。
「はい、分かりました」
僕は返事をする。
ヨハンナ先生は教室では僕のこと上の名前で呼ぶし、他人行儀だ。
クラスメートから、お前なにやらかしたんだ、って感じの視線が僕に注がれた。
同じクラスの新巻さんも僕を見ている。
「すぐに来なさいね」
ヨハンナ先生はそう言って、颯爽と教室を出て行った。
金色の髪を後ろでまとめて、紺のスーツをピシッと着たヨハンナ先生。
教室でスーツの時のヨハンナ先生は、こんなふうに凜々しくてカッコイイから困る。
でも、いきなり呼び出しってなんだろう?
もしかしたら、あれのことか。
主夫部顧問のヨハンナ先生に
先生はそれを怒ってるんだろうか。
そういえば、昨日の放課後、先生は何かよそよそしい感じだった。
僕を避けるように、コソコソしてた。
国語科準備室って、あまり使われることがなくて、今では倉庫代わりになっている部屋だ。
普段、誰も寄りつかない。
そこで、説教でもされるんだろうか。
「先生、篠岡、参りました」
僕は、先生から少し遅れて、国語科準備室に入った。
普通の教室の四分の一くらいの広さしかない準備室は、薄暗くて寒々としている。
両側の壁が本棚で、奥に窓がある部屋には、ヨハンナ先生しかいなかった。
部屋の真ん中にテーブルがあって、そのテーブルの横に、両手を後ろに組んだヨハンナ先生が立っている。
「そこに座りなさい」
僕は、先生にテーブルの前の椅子に座るよう促された。
こんな部屋で何されるんだろう。
やっぱり、説教されるのか。
「ほら! 塞君。先生の手作り弁当だよ!」
ヨハンナ先生が後ろ手に隠し持っていた包みを出した。
「へっ?」
先生は、まだ糊が利いた青いギンガムチェックの弁当包みを、僕に差し出す。
そうか。
僕が寄宿舎での家事の休暇をもらって、今日の僕の昼食は、ヨハンナ先生が作る当番だったんだ。
「あ、ありがとうございます」
僕は戸惑いながら包みを受け取った。
「ほら、座って座って」
先生が椅子を引いて、僕はテーブルに着いた。
包みを開けると、中から、飴色の
箸と、お絞りも入っていた。
漆器のお弁当箱とか、外観は凄く凝っている。
「蓋、開けてみて」
先生が言た。
ヨハンナ先生が作ったお弁当か。
嫌な予感しかしないけど……
僕が覚悟して蓋を開けると、そこには、目に鮮やかで、豪華なお弁当があった。
中にチーズが入ったハンバーグ。
半熟ゆで卵を豚肉で巻いた肉巻き卵。
大きなエビがゴロゴロしてるエビチリ。
ひじきの五目煮。
アボカドと蟹、ホタテを、わさびマヨネーズで和えたアボカドサラダ。
ブロッコリーにプチトマト。
ご飯には、昆布や松の実が入ったふりかけがかかっている。
「これ、本当に先生が作ったんですか?」
僕は訊いた。
「ええ、そうよ。確かに、御厨君の助けを借りたことは否定しないけど、実際に手を動かして作ったのは私だよ」
先生が言う。
見かけは100点に近い。
問題は味だ。
「いただきます」
僕は手を合わせた。
「はい、召し上がれ」
箸を取ると、先生が水筒からお茶を注いでくれる。
緊張しながら、まず、ハンバーグを一口。
「どう?」
先生が訊いた。
「お、美味しいです」
先生が隣の椅子に座って、テーブルに
まずいなんて言えない。
でも、実際、お弁当は美味しかった。
半熟卵はとろとろだし、エビチリの辛みも丁度いいし、ハンバーグは冷めていても柔らかい。
砂糖と塩を間違えたとか、そういうテンプレみたいな失敗を予想してたのに、普通に食べられるばかりか、僕が今まで食べたお弁当の中で、十本の指に入るくらいに美味しかった。
だけど、この食材、ちょっと豪華すぎる。
アボカドサラダの蟹肉は、カニ缶を使っていた(僕なら、カニかまを使う)。
ご飯にかかってるふりかけ、これ、
冷めたハンバーグが柔らかいのも、ブランド牛の挽肉を使ってるから、油の融点が低いんだと思われる。
「先生、このお弁当作るのに、いくらかかりました?」
僕が訊くと、
「あはははは」
ヨハンナ先生は笑って誤魔化した。
この食材、主夫感覚で計算すると、揃えるのに五千円以上、かかってるんじゃないだろうか。
食費を無視して最高の食材を集めた、休日のお父さんが作る料理って感じか。
でも、先生が僕のことを考えてこんなお弁当を作ってくれたと思うと、正直、嬉しい。
ずぼらな先生が御厨に料理習ってるところを想像して、感動した。
「本当に美味しいです」
僕は一口一口、噛みしめて食べる。
「まあ、私がちょっと女子力を発揮すれば、こんなものよ」
先生が言った。
普段からその100分の1でも発揮してくれれば、四十代の中年男性から脱却できるのに。
そんなふうに先生に見つめられながらお弁当を頂いていたら、
「あれぇ、塞君、エビチリのチリソースが、お口の端に付いてるよ」
ヨハンナ先生が言った。
「ほら、先生、とってあげようか?」
先生がそう言って、僕の口の端を、右手の小指で
なんか、くすぐったい。
「指だと、全部取り切れないな」
先生が言った。
「大丈夫ですよ、あとで、自分で拭きますから」
なんか、狭い部屋に二人っきりだし、先生がすぐ横に座ってるし、恥ずかしい。
「ううん、とってあげる。ちょっと待って」
先生がそう言って顔を近づけてきた。
先生、えっ、ヨハンナ先生?
えっ?
指じゃなかったら、なにで拭うんだろう。
先生はハンカチとか、ティッシュペーパーとか持っていない。
ただ、顔を近づけてくる。
唇……
だって、唇とかそれじゃあ、僕達キスして……
「じっとしてて」
先生の吐息が顔にかかる。
先生の唇が、僕の口の端に触れそうになった、その時だ。
ドンドンドン!
ドンドンドン!
国語科準備室のドアが、乱暴にノックされた。
「失礼します!」
ドアを開けて誰か入って来る。
ヨハンナ先生が、さっと、僕から離れた。
あと、2ミリくらいだった。
「あら、新巻さん、なあに?」
部屋に入って来たのは、新巻さんだった。
制服姿の新巻さんが、ドアの前に立っている。
「はい、ちょっと授業のことで分からないことがあったので、質問に来ました」
新巻さんが言った。
「質問、ああそう」
先生が、ちょと上ずった声で言う。
新巻さんは、テーブルで弁当を食べている僕を見た。
「ああ、篠岡君いたのね。篠岡君がここにいるなんて、知らなかったわ。あー私、全然、知らなかった。ああ、びっくりした。それはもう、驚いたわ。青天の
新巻さんが言う。
その言い方が、世界で一番平坦な場所と言われる、ウユニ塩原くらい、平坦だった。
「新巻さんたら、本当に、お昼休みまで、勉強熱心だこと」
先生の拳が握られている。
血管が浮き上がるくらい、強く握られていた。
「いえ、先生のご指導が素晴らしいものですから、こうやって、先生を慕って、昼休みも来てしまうんですよ」
新巻さんが言って、先生の前に立つ。
言葉だけなら教師と生徒の和やかな会話なのに、なんか、二人、火花が飛び散っていた。
二人の視線の間にこの半熟卵入れたら、固ゆでになりそうだ。
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
「塞君、私達は落ち着いているわ」
ヨハンナ先生が言う。
「そうよ、篠岡君。私達はとってもフレンドリーよ」
新巻さんが言った。
言葉とは裏腹に、二人はガンを飛ばし合っていた。
二人とも、口だけ笑ってるけど、一歩も引かない姿勢だ。
僕は、急いでお弁当の残りをかき込んで、「ごちそうさま!」を言って、慌てて国語科準備室を出る。
恐ろしい空間だった。
これが、噂に聞く修羅場ってやつか(僕とヨハンナ先生、新巻さんは付き合ってないから、修羅場ではないんだろうけど)。
教室に逃げ帰ったら、僕の席に女の子が来ていた。
「あっ、篠岡先輩!」
サッカー部マネージャーの
昼休みに僕を訪ねて来たらしい。
クラスメートが、ニヤニヤと冷やかしの目で見ている。
違う、これはそんなんじゃないんだ。
「これ、チョコレートを配る部員のリストです。サッカー部と野球部、両方まとめてきました」
宝諸さんがそう言って、僕にコピー用紙を渡す。
作るチョコレートがどれくらいの量になるのか、見当を付けるためにお願いしていたのだ。
宝諸さんから受け取ったリストを見て、僕は愕然とする。
「部員って、こんなにいるんだ……」
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