第168話 ご褒美

「ヨハンナ先生と弩さんのダイエットに、なんで、私と萌花ちゃんまで、巻き込まれるんですか?」

 新巻さんが冷静に言った。

 そう言って、人差し指で、ずれた眼鏡を上げる。

 ハーフアップにした新巻さんの髪の、今日のリボンは深緑色だ。


「いや、統子は大学受験で忙しいし、古品はレッスンで忙しい。そうなると新巻と萌花がメンバーに加わるしかないだろう」

 縦走先輩が言った。


「そもそも、駅伝に出る意味が分かりませんけど」

 萌花ちゃんも言う。

 萌花ちゃんは撮影中だったらしく、首から一台、肩に一台、一眼レフカメラをぶら下げている。



 寄宿舎の食堂には、縦走先輩と、新巻さん、萌花ちゃんに、ヨハンナ先生と弩がいて、僕がそれを見ていた。


 呼び出した四人を前に、縦走先輩が突然、市民駅伝大会に参加しないかと呼びかけた。

 先輩の計画を知っていた僕以外、全員が戸惑っている。



「縦走さん、ダイエットなら、もっと他の方法が、あるんじゃないかしら」

 ヨハンナ先生が言った。


「私も、駅伝とか、無理です」

 弩も言う。


 縦走先輩が決めた市民駅伝大会、参加メンバー五人のうち、四人までが駅伝参加自体に反対した。

 急に縦走先輩から呼び出された新巻さんと萌花ちゃんは、傍目はためにも迷惑そうだ。



「そうか、残念だな」

 縦走先輩が、そう言って目を瞑った。

 いくら破天荒な縦走先輩でも、みんなに反対されたら、駅伝大会に出ることはできないだろう。

 先輩が一人で全部走っちゃえば優勝するかもしれないけど、駅伝だし、大会の規定でメンバー五人で走ることが絶対だ。


 今回ばかりは、先輩も諦めるかと思った。が。



「本当に残念だ。この駅伝で優勝したら、ご褒美として、篠岡がなんでも一つ、言うことを聞いてくれると、約束したんだが……」

 縦走先輩が言う。


 えっ? 縦走先輩?


「ああ、実に残念だ。私が篠岡から、せっかく言質げんちをとったというのに」

 先輩が続けた。

 先輩は大げさに頭を抱える演技をする。


「いえ、僕はそんな約束してま」

 言いかけたところで、縦走先輩によって僕の口が塞がれた。

 もう一方の手で、軽くスリーパーホールドされて、声が出せない。

 先輩のたくましい腕が、完全に僕の首に入っていた。

 声が出せないどころか、息が苦しい。


 縦走先輩の手からは、先輩が使っているボディローションの、ココナツミルクの香りがした。

 口と鼻をふさがれてるから、その甘い香りで酔いそうになる。



 でも、ご褒美とか、僕はそんな話は聞いていない。

 縦走先輩とそんなこと約束した覚えは、まったくない。



「ホントに、先輩がなんでも言うことを聞いてくれるんですか?」

 弩が少し声を弾ませて訊いた。


「ああ、間違いない」

 僕の口を塞いだまま、縦走先輩が言う。


「縦走さん、それは本当なのね」

 ヨハンナ先生が訊く。


「ええ、ちゃんと約束をしたためた念書ねんしょもあります」

 縦走先輩が言った。


 縦走先輩にスリーパーホールドされながら、僕は、ああ、これから、後づけで無理矢理その念書を書かされるんだろうな、と、消えそうな意識の中で思う。



「どうだ女子達、駅伝に参加しようぞ! 市民駅伝大会で優勝したら、篠岡がなんでも一つ、言うことを聞いてくれるんだぞ!」

 縦走先輩が、ゆっくりと繰り返した。


 ポスターの前で、誰も駅伝には出たがらないって僕が忠告したら、縦走先輩、私に考えがあるって言ってたけど、考えってこのことだったのか。



「なんでも一つ、言うことを聞いてくれるかぁ。そうねえ、春休みに、一緒に海外旅行に付き合わせて、既成事実きせいじじつを作るっていうのは、どうかなぁ。それとも、夏休みまで待って、人里離れた山荘とかで、一ヶ月たっぷりと二人っきりで過ごすのもいいわねぇ。ああ、でも、いっそのこと、婚姻届けにハンコを押させるってのがいいか。ハンコさえもらえば、どうにでもなるもんね。一年待って、卒業と同時に役所に提出しちゃえばいいんだし。そうだ、そうしよう」

 ヨハンナ先生が腕組みして、顎に片手をやって考えている。


「先輩と一緒に映画見に行ってもらうとか、お買い物に付き合ってもらってディナーをごちそうになるとか、ディスティニーランドに一緒に行くとか……ああでも、ここは、大きく出て、キキキキ、キキス…キス、おでこにキスとかは、大胆すぎて……ふええぇ」

 弩が顔を真っ赤にして言った。



 あ、あの、先生、弩。

 声が出ていて、妄想が、思いっきりダダ漏れなんですけど。


 僕は、身の危険を感じる。

 この半生で、一番の危機だ。



「そうね、縦走さん。私、駅伝に参加するわ。別に、塞君が言うことを一つ聞いてくれるっていう、ご褒美に釣られたわけじゃないのよ。私は、駅伝に参加して、自分の限界に挑戦してみたくなったの。自分を試したいの」

 ヨハンナ先生が言った。


「わ、私も参加します。私も、篠岡先輩のご褒美のことなんか、どうでもいいです。ダイエットに丁度いいと思うので、出ます。私も限界に挑戦です、限界!」

 弩も鼻息荒く言う。


 突っ込みを入れようにも、縦走先輩に口を塞がれていて、言葉が出ない。



「そういうことなら、私も参加してもいいですけど」

 新巻さんが言った。


 えっ?


「だって、篠岡君が言うことを聞いてくれるって、なんか楽しそうだもの。それ自体、何かのネタになりそうだし、執筆の毎日で少しは体を動かさないとって、思ってたし」

 新巻さんが、悪戯っぽい顔をしている。


 ちょ、ちょっと、新巻さんまで。


「私も参加します!」

 萌花ちゃんも言った。


「カメラマンには体力が必要ですし、篠岡先輩にお願いを聞いてもらえるって、オプションがあるなら、それを使わない手はありません」

 も、萌花ちゃん。

 君のことは、信じてたんだぞ。



「よし、決まりだな。それじゃあ、女子達、早速、トレーニングだ! 優勝のためには、一分一秒も、おろそかには出来ないぞ!」

 縦走先輩が言う。


「はい!」

 ヨハンナ先生と弩、そして新巻さんと萌花ちゃんが、声を揃えた。


 なんなんだ、この連帯感。

 みんな、目がキラキラと輝いている。

 縦走先輩が、満足そうに頷いた。



 食堂には、錦織と御厨も呼ばれる。

 縦走先輩が、二人に駅伝大会のことを告げた。


「主夫部の諸君は、我々のサポートを頼む。君達サポートメンバーも、我々と同じ、チームの一員だ!」

 この瞬間、女子達の駅伝大会出場は、主夫部と寄宿生の合同事業に格上げされる。


「そういうことなら分かりました。僕は皆さんをアスリートみたいな体型にすべく、食事のメニューを考えます」

 御厨が言った。


「よし、僕は、寄宿生チームのユニフォーム作ります! 大会には、お揃いのユニフォームで出てください!」

 錦織まで張り切り始める。


「篠岡には、洗濯を頼むぞ。トレーニングで、洗濯物もたくさん出るだろう。篠岡、良かったな」

 縦走先輩が言った。


「………」


「おい、篠岡、どうした? 返事をしろ」


 いえ、先輩に口を塞がれてスリーパーホールドされてるから、返事が出来ないんですが。


「おい、篠岡、しっかりしろ」


 薄れゆく意識の中で僕は、縦走先輩の腕って逞しいなとか、そんなことを考えた。

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