第98話 マグロづくし

「会長、ホントに夏休みをここで過ごされるんですか?」

 僕が、鬼胡桃会長に訊く。

 騒ぎを聞きつけて、弩と萌花ちゃんも二階から下りてきた。

「そうよ。だって、実家に帰ってみたら、お盆休みで親戚の子供なんかがたくさん来ていて、うるさくて全然、勉強に集中できないんだもの」

 会長はそう言いながらリビングまで歩いていって、ソファーにどっかと座る。

「寄宿舎には誰もいないし、ここに来るしかないじゃない」

 会長はそう言った後で、咳払いをした。

 たぶん、(何か冷たい飲み物を持ってきなさい)という意味の咳払いだと思う。

 僕はすぐに麦茶を用意した。

 会長の咳払いだけで、その意を汲めるような体に、僕はなってしまっている。


「でもあの、ヨハンナ先生に弩もいて、萌花ちゃんも来たので、我が家はいっぱいいっぱいというか……」


「あら? 寄宿生の夫になって、私達の世話をする、家事をするって、豪語していたのは、どこの部活の人だったかしら?」

 それは、もちろん、主夫部の人だ。

 僕達だ。


「別に多くは求めないわ。雨露をしのげて、三食ご飯が食べられて、寝るところがあって、時々髪を洗ってもらって、疲れたときはマッサージをしてもらって、暇なときに話し相手になって、使い走りをやってくれるくらいの、最低限のケアでいいから」

 会長、それ、全然最低限のケアじゃありません。


「それにあなた、久しぶりに私のこのボルドーのワンピース、洗いたいでしょ?」

 会長がワンピースの裾を摘んで言う。

 ゴクリ。

 会長のワンピース、洗いたい。


「分かりました。会長、夏休みの間、ここにいてください」

 洗濯に釣られてしまう自分が憎い。

「そう、分かればいいの」

 会長はそう言って、出された麦茶を、一息で飲み干した。


「会長さん、部屋はどうするんですか?」

 弩が訊く。

「そうねぇ」

 会長はそう言って、リビングを見回した。

「このリビングでいいわよ。少し狭いけど」

 会長が言う。

 このリビングは、我が家で一番広い部屋なのに。

「あの、ここは今、僕の部屋になってるんですけど……」

 僕は恐る恐る訊く。

「そう、じゃあ、あなたは廊下に移りなさい」

 会長はあっさりと言った。

「ろ、廊下ですか?」

「えっ、庭にテント張って寝たいの? あなた、物好きね」

「廊下でいいです」

 なんか、どんどん僕の居場所がなくなってる気がする。


「それじゃあ、ちょっと汗を流してくるから、適当に着替え、お願いね」

 会長が言って、風呂場へ向かった。

 僕は鬼胡桃会長のスーツケースをリビングに運び込んで、中を確かめる。

 中から部屋着と下着を出して、バスタオルと一緒に、脱衣所に置いた。

 スーツケースの中の服が皺になるといけないから、こっちも出して吊しておく。


 こんなふうに自由にスーツケースを触らせてもらえるのは、僕が信用されている証拠だろうか。それとも、ただ単に、異性として見られていないからだろうか。

 たぶん、後者だ。


 会長のスーツケースの中を点検していたら、洋服や下着に交じって、水着が入れてあった。

 会長、集中して勉強ができないからこっちに来たと言いつつ、遊びの用意もちゃんとしてるじゃないか。

 会長のスーツケースには、他にトランプとか、UNOとかも入っていた。

 鬼胡桃会長は夜、僕達と一緒に大貧民とかUNOとかやろうと思ってるに違いない。

 なんて可愛いツンデレなんだ。



 弩と二人のはずが急に人数が増えて、夕飯の支度をどうしようか考えていたら、チャイムが鳴って、寿司屋の出前が来た。

 我が家の玄関に、大きな寿司桶が、三段重ねで届く。

「お代は頂いてますので」

 配達にきた角刈りのお兄さんは、そう言って帰った。


 寿司桶には手紙が付いている。

 差出人は鬼胡桃会長のお父さんからで、内容は、娘がお世話になります。お父さんや、お母さんによろしく、というものだった。


 頭にタオルを巻いて、鬼胡桃会長がシャワーから出てくる。

「まったく、お父さんったら」

 手紙と三段重ねの寿司桶を見て、会長が言った。

 手紙の最後に、お父さんやお母さんによろしくと書き添えるところは、さすが、選挙を意識した市議会議長だ。


 とにかく、今日の夕飯のメニューのことは考えずにすんだ。

 それに、美味しそうなお寿司が食べられる。


 ダイニングテーブルに寿司桶を並べて、箸と皿を揃えた。

 簡単に、お澄ましも作る。


 一段目、二段目の寿司桶は色んなネタが入った普通の寿司盛り。

 三段目の寿司桶はマグロづくしで、大トロ、中トロ、赤身に、ネギトロの軍艦、鉄火巻きが、ぎっしり詰まっている。

「すごいです!」

 萌花ちゃんが目をキラキラさせて言った。

 首から提げたカメラで、記念に一枚、写真を撮る。


 でも、この量。


 たぶん、普通に十人がお腹いっぱい食べられるくらいの量がある。

 マグロだけでお腹いっぱいにできそうだ。

 こんなの、花園と枝折にも食べさせてあげたかった。


「それじゃあ、頂きましょう」

 会長が言って、僕達はごちそうになる。

「あれ、一段目の寿司桶はさび抜きで、二段目がわさびありみたいですね」

 弩が言った。

 そういえば、さっきから鬼胡桃会長は一段目の寿司桶のわさびがない方ばかり、食べている。


「わ、私、わさびが食べられないから」

 鬼胡桃会長が言った。

 わさびが食べられない、お子様か!

「な、何よ! わさびが苦手な人だって、いるでしょ!」

 会長が頬を膨らませた。

 なんだか、どんどん鬼胡桃会長が可愛く見えてくる(でも、そんなこと言ったら、怒られるから、絶対に本人には言わないけど)。


 僕は、脂を味わうような大トロを何貫も食べた。

 大好物のサーモンもたくさんもらう。

 しゃりが見えない穴子も、軍艦からこぼれ落ちるイクラも、味わった。


 それだけ食べても、まだ全体の四分の一も食べられていない状態。

 最初はニコニコで話ながら食べていた僕達も、段々と口数が少なくなった。


「もう、食べきれません~」

 とうとう弩が音をあげる。

「お腹、ぽっこりしちゃいましたぁ」

 萌花ちゃん、ブラウスをまくって、おへそとお腹を見せるのはやめなさい。

「ちょっと、お父さん、張り切りすぎたようね」

 鬼胡桃会長も、さっきからあがりばかり飲んでいる。



 僕達が大量の寿司と格闘していると、玄関のほうで物音がした。

 ドスンと、何かが玄関のドアに倒れかかったような音だ。


「なんだろう」

 みんなで玄関を見に行く。

「先輩、私の後ろに隠れててくださいね」

 柔道の達人、弩が先頭に立った。


 玄関の灯りをつけて、鍵を外す。

 鬼胡桃会長がドアを開けた。


「先輩! 縦走先輩!」

 ドアの向こうで、縦走先輩が倒れている。

 ランニングにショートパンツの縦走先輩が、行き倒れたみたいに、ドアの前でうつぶせになっていた。

「うう……篠岡……」

 先輩が声を絞り出した。


 とりあえず、僕が先輩を負ぶってリビングに運び込んだ。

 脂肪がない、筋肉の塊のような縦走先輩の体は、弩と違って硬い。


 静かに、リビングのソファーに縦走先輩を寝かせる。

 明かりの下へ来ると、縦走先輩は夏休みが始まる前に比べて、日に焼けて、黒くなっているのが分かった。


 喉が渇いているだろうから、とりあえず麦茶を出す。

「ゆっくり、飲んでくださいね」

 僕が言うと、縦走先輩は、ゆっくり、時間をかけて麦茶を飲み干した。


「先輩、一体、どうしたんですか?」

 落ち着いたところで、僕が訊く。

 先輩は大学のトライアスロン部の合宿に参加していたはずだ。

 大学の練習が厳しくて、さすがの縦走先輩も逃げてきたんだろうか。


「ああ、大学のトライアスロン部の合宿に参加したんだが、やっている練習がうちの高校の部活よりも緩くて、運動部というより、同好会みたいな雰囲気だったから、丁重に断りを入れて、途中で帰ってきたんだ。このままでは体がなまりそうだったからな」

 縦走先輩が言う。

「ついでにトレーニングになるからと思って、荷物を宅配便に出して、自分は走って帰ってきた」


「まあ! 呆れた」

 鬼胡桃会長が言って、あんぐりと口を開けた。

 無理もない。先輩が合宿に行った大学からここまで、直線距離でも100㎞くらいはある。道路を走ったら、その1.5倍くらいの距離があると思う。

 それを、先輩はこの真夏の炎天下に、走ってきたというのか。

「寄宿舎には誰もいないし、ヨハンナ先生や弩がここに世話になってると聞いたから、来てみたんだが、迷惑だったか?」

 縦走先輩が僕に訊く。

「迷惑とか、そんなことどうでもいいです。それより、先輩、熱中症なんじゃないですか? すぐに救急車を呼んで……」

 僕が言うと、

「いや、そうじゃない。熱中症じゃないんだ」

 縦走先輩が僕の手を取って止めた。


「お腹が空いた。何か、食べさせてほしい」

 縦走先輩が言う。


「はっ?」

 僕と会長と、弩と萌花ちゃんが同時に言って、絶句した。

「水や食べ物は途中のコンビニなんかで補充したんだが、足りなかった。腹ぺこだ」

 縦走先輩は、お腹が空いて倒れたらしい。

 熱中症などではなく、お腹が空いて、我が家のドアの前で倒れたのだ。

 先輩の言葉に呆れ果てて、僕達は笑い出した。

 心配して損した。


 でも、お腹が空いてるなら、それは丁度いい。


 縦走先輩をダイニングテーブルに導く。

「なんだこれは? これ、食べていいのか?」

 三つの寿司桶を見て、縦走先輩が興奮気味に訊いた。

「どうぞ、好きなだけ」


 僕達が食べきれなかったお寿司が、どんどん縦走先輩の胃袋に収められていく。

 先輩は、面倒になったのか、二貫まとめて口の中に放り込んだ。

 大きな寿司桶を、お皿みたいに手に持って食べる。

 その食べっぷりは、見ていて清々しい程に。


 あれほどあった寿司が、あっという間になくなってしまった。

「合宿帰りで、まさか、こんなふうに寿司を腹一杯食べられるとは、思わなかったな」

 縦走先輩が満足そうに言う。

 僕も、炎天下を150㎞走ってきた人が、寿司を食べまくるなんて、思いませんでしたが。


「さて、満腹になったし、汗を流してくるとしよう」

 元気になった縦走先輩が立ち上がる。

「篠岡、悪いが君のパンツを貸してもらえないだろうか。宅配便より早く帰ってきたから、着替えがない」

 縦走先輩が言った。

「別にいいですけど。僕なんかのでよければ」

 前に寄宿舎に泊まって、縦走先輩のジャージとか借りた義理もあるし。

「会長のパンツを借りてもいいんだが、女子のパンツは性に合わないんだ」

 先輩が言う。

 僕がパンツを差し出すと、

「ありがとう」

 縦走先輩はそう言って、僕のボクサーパンツを人差し指に引っかけて、くるくる回しながら、鼻歌を歌って風呂場へ行った。


 なんかもう、先輩は150㎞走ってきた疲れとか、忘れてしまったみたいだ。



 その夜は結局、明け方まで縦走先輩のみやげ話を聞いたり、トランプをしていて、最後にはリビングでみんなで雑魚寝した。

 おかげで僕は、廊下で寝ないですんだ。


 朝起きたら、寝相の悪い女子達が僕に擦り寄っていて、僕はミノムシみたいになっている。

 クーラーをつけっぱなしにして寝てしまったらしく、部屋の中が冷え冷えになっていた。みんな、湯たんぽ代わりに、僕の周りに集まったらしい。

 左右で鬼胡桃会長と縦走先輩が僕の腕を取っていて、弩と萌花ちゃんが僕の足を抱えて寝ている。


 確かに僕は、温かいのかもしれないけど。


 起こすといけないから、僕はそのままで、みんなが目を覚ますのを待った。

 弩がムニャムニャと何か寝言をつぶやきながら、僕の足に頬ずりをする。

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