第90話 シシトウの味
「おかえり」
リビングに入ってきた僕をちらっと見て、ヨハンナ先生が言った。
「ただいま」
ソファーに寝転がっているヨハンナ先生に、僕は答える。
「夕飯、まだかな?」
スマートフォンに夢中な先生が、画面から目を離さずに訊く。
そうかそうか、先生はお腹が空いているんだな。
「今からすぐに用意します。もう少し待っててください」
僕は先生にそう断って居間から階段に抜け、二階に上がった。
階段の踊り場で、一階におりようとする花園とすれ違う。
「お兄ちゃん、おかえり」
Tシャツにショートパンツの花園が言った。
「うん、ただいま。すぐにご飯の支度するから、お風呂、入れておいて」
「分かった」
花園はそう言って階段をおりていく。
階段を上がり切って枝折の部屋の前を通るとき、ドアに「勉強中」の札が掛かっていたから、枝折は部屋にいるみたいだ。
僕は急いで自分の部屋へ。
ドアを開けると、弩が僕の部屋の机に向かっていて、パソコンを立ち上げていた。
「先輩、おかえりなさい」
ディスプレイから目を離さずに弩が言う。
弩は長い髪をポニーテールにしていて、いつも寄宿舎で着ている水色のワンピース姿だった。
「おう、ただいま」
僕はそう言って、鞄を置く。
「先輩、ちょっと調べものがあるので、パソコン借りてますね」
弩が言った。
「ああ、いいぞ」
そうか、弩は調べ物があるのか。
それなら、しょうがない。
さあさあ、僕は夕飯を作らないといけないから、着替えをして、と。
制服を脱いで、Tシャツと短パンに着替える。
弩と二人っきりの部屋で、僕は一瞬下着姿になったけど、弩がディスプレイを見たままだったからセーフだろう。
「ああ、それから先輩。先輩がこのパソコンの画像フォルダの奥の奥の奥の奥に隠してある『世界の昆虫』っていう名前のフォルダの中身は見てないので、安心してください」
弩がマウスを動かしながら言った。
「そうか、ありがとう」
弩は見てないのか、良かった。
危ない、危ない。あのフォルダを見られた大変だ。
『世界の昆虫』と名前を付けたフォルダには、僕が集めたお宝動画や画像が、たくさん入っている。絶対に人には見られなくないフォルダだ。
あそこを見られたら、僕の好みとか、性癖とかが解ってしまう。
弩に見られたら、変態扱いされかねない。
「じゃあ弩、すぐに夕飯用意するから」
「はい、お願いします」
僕は急いで一階におりる。
台所で冷蔵庫を開けると、中に缶ビールと缶酎ハイがたくさん入っていた。
たぶん、ヨハンナ先生が入れたんだろう。
弩のドデカミンとホワイトロリータも、冷やしてあった。
そうそう、この時期、ホワイトロリータは溶けちゃうから冷蔵庫の中だよな。
冷やすと余計に美味しいし。
やっぱり、冷蔵庫の中に入れておくべきだよ。
ホワイトロリータを脇に退け、冷蔵庫の中身を見て、僕は今日のメニューを何にしようか考える。
そうだ、時間も遅くなっちゃったし、先生と弩もいるから、みんなで食べられるように、すき焼きにしよう。
夏野菜のすき焼きだ。
シシトウとパプリカ、ナスとタマネギ、カボチャ、それにこの前の特売でまとめ買いした牛肉もある。
夏休みに入るし、すき焼きなら夏バテしないようにスタミナもつくし。
「花園ちゃん、手伝って」
風呂の準備をしてきた花園に言う。
「うん、お風呂、あと五分くらいでお湯溜まるよ」
花園はそう言って手を洗った。
シシトウのヘタ取りを、花園に頼む。
その間に僕はすき焼きのたれを作った。
カボチャの甘みが加わるから、砂糖は少なめで。
暑いし、さっぱりと食べたいから、付けだれには卵の代わりに、大根おろしを用意しよう。
僕と花園が夕食の準備をしていると、匂いにつられたのか、ヨハンナ先生がソファーから起き上がって、台所に来た。
「今日はすき焼きか、いいねぇ」
台所を眺めて、先生が言う。
「私、先にお風呂入っちゃっていいかな? 出てくる頃には、ご飯の支度できてるよね」
先生が訊いた。
そうだよな、今日は暑かったし汗かいたし、お風呂入りたいよな。
「はい、お先にどうぞ。後で混み合うから、先に入ってもらえると嬉しいです。花園ちゃん、先生にバスタオルがある場所、教えてあげて」
「はーい」
花園はそう返事をして、ヨハンナ先生の手を引いて風呂場に連れて行く。
そうだ、湯上がりでヨハンナ先生がビールを飲むから、枝豆も茹でよう。
豆腐もあったし、ネギを刻んで、生姜をすって、冷や奴も用意する。
タマネギとカボチャ、パプリカは適当な大きさに切った。
すき焼き用の鍋をダイニングテーブルの上にセットして、カセットコンロで温める。
暖まってきた鍋で牛脂を溶かした。
タマネギを入れてその上に牛肉を広げ、たれを注いで焼いていく。
その匂いだけでもう、よだれが出そうだ。
たれが焦げてきた頃を見計らって、残りの野菜を入れ、だし汁を注いで、少し煮込む。
「花園ちゃん、枝折ちゃんと弩を呼んできて」
テーブルに箸を並べていた花園に頼んだ。
「うん、分かった」
花園は元気よく階段を駆け上がっていく。
なんだか今日の花園は素直だ。
久しぶりに大勢で囲む食卓だから、嬉しいんだろう。
花園と入れ違いで、タオルを首に掛けてそれで両胸を隠したヨハンナ先生が、風呂から出てきた。
「はぁ、さっぱりした」
先生はリビングを横切って客間に消える。
相変わらず早風呂だ。
それにしても、先生ときたら、ここに年頃の男子高校生もいるっていうのに、あんな格好で堂々と家の中を歩くなんて、まったく。
客間でスリップを着て戻ってきたヨハンナ先生に、ビールと枝豆、冷や奴を出した。
「さすが篠岡君、気が利くね」
先生からお褒めの言葉を頂く。
そういしているうちに枝折と弩も二階からおりてきて、みんなでテーブルに着いた。枝折と花園が並んで座り、対面に僕と弩が並んで、全員を見渡すように上座にヨハンナ先生が座る。
「いただきます」
ヨハンナ先生が家長のように言って、僕達は「いただきます」を返した。
まるで家族の食卓みたいだ。
いい感じに煮えた肉や野菜を、僕がみんなに取り分ける。ここは、鍋奉行も僕がやらせてもらおう。
「お肉、お肉、お肉!」
と、花園が歌うように言った。
花園……普段お肉を食べさせてないみたいに聞こえるから、止めなさい。
「美味しいです。夏のすき焼きもいいですね」
弩が言った。
枝折もなんだか、嬉しそうだ。
顔は無表情なのだけれど、唇の端が二ミリくらい、上がっているから、この食事を相当楽しんでいるのが分かる。
ヨハンナ先生が冷蔵庫に二本目の缶ビールを取りに行った。
「やっぱ、料理が美味しいと、お酒が進むよね」
ってゆうか、料理とは関係なしに先生は普段、乾き物を肴にいくらでも飲むじゃないか。
しばらく食卓を見ていると、弩がシシトウを除けて食べようとしているのに気付いた。
「駄目だ弩、好き嫌いがあると、大きくなれないぞ」
僕はそう言って、シシトウ増し増しで弩の椀によそう。
弩は「ふええ」と言う。
僕がじっと見ていると、弩は怖々、シシトウを先の方から囓った。
「そんなにまずくないだろう?」
「はい、そんなにまずくないです」
食わず嫌いだったらしい。
なんだか、幼い枝折や花園に食育をしていた頃を思い出す。
「枝豆はもう少し塩を効かせてくれたほうがいいかな。この時期汗かくし、もう少し塩っけが欲しい」
二本目の缶ビールを空にして、ヨハンナ先生が言った。
「そうですね、今度から気をつけます……」
「って……」
「いや! なんでヨハンナ先生と弩が、我が家にいるんですか!」
僕はおもむろに立ち上がって、当然の質問をした。
「お兄ちゃん遅いよ」
花園が言った。
「篠岡君、長いよ」
ヨハンナ先生が言う。
「先輩、しつこいです」
弩が言った。
「まさか、お兄ちゃんがノリツッコミの『ノリ』の部分に、エピソード丸ごと一つ使うとは思わなかったよ」
枝折が呆れたように言う。
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