第50話 途切れない待機列
「弩、痛くないか?」
「はい、痛くないです」
「もう少し、ゆっくり動かしたほうがいい?」
「いえ、もっと激しくていいです、あっ」
「どうした?」
「目に水が入りました」
「ああ、ごめんごめん。だから弩、目を
「はい、すみません」
弩は目を瞑って、髪を洗う僕の手に、身を
あの日以来、寄宿生への洗髪は、僕達主夫部の日課になっていた。
洗髪が寄宿舎の住人にあまりに人気があるから、僕達は風呂場の脱衣所の隅に、シャンプー台を作った。
中古のリクライニングチェアと、たらいを組み合わせて改造した、見栄えはあまりよくないものだけど、ちゃんとお湯を流せるし、シャワーヘッドも付いているし、美容院のシャンプー台みたいに、服を着たまま、ゆったり上を向いた姿勢で髪を洗うことが出来る。
それにしても、洗髪がこれほど女子達の心を捉えるとは、予想外だ。
リクライニングシートに横になった弩の頭を、僕は反対側から抱えるようにして、洗っていく。
爪を立てないよう、細心の注意を払って、指の腹で撫でるように頭皮を洗った。
「痒いところはあるか?」
「はい、右の耳の上の辺りが、少し
「よし、分かった」
右耳の辺りを強めに
くすぐったいのを我慢していて、足の指がピンと伸びてるのが愛らしい。
こんなふうにして、放課後の午後の時間がゆっくりと流れていった。
音は、林の木々に止まる小鳥の声と、洗髪をする泡が弾ける音しか聞こえない。
僕は陶芸家がろくろの上の土と
「そういえば、あれから桃子ちゃんと玲奈ちゃんとはどうだ?」
「はい、仲良くしてます。一緒にお弁当を食べてますし、今度、玲奈ちゃんの家でお泊まり会があるんですけど、それに誘われました」
「そうか、良かったな」
「はい先輩達の、お弁当のおかげです」
弩が、嬉しそうに言った。
しかし、この髪を洗うという行為は、コミニュケーションのツールとして、どれほど有用なのだろう。
洗っているあいだ、こうして話を聞けるし、完全に身を委ねているせいか、相手の心のほうも無防備になってる気がした。
心を包んでいる
「桃子ちゃんと直樹君のほうはどうだ? あれから順調か?」
「はい、二人はとてもラブラブですよ。よく写真をみせてくれます。羨ましいです」
「そうか、良かった」
「はい、それも先輩達のおかげです。直樹君はあれから、デートのたびに二回に一回はお弁当を作ってくれるそうです」
「弩もあんな彼氏が欲しいか?」
「ええと、はい、欲しいです」
「弩は、誰か気になる人とかいるのか?」
「ふええ……」
「いるみたいだな」
「だって……あの…あの……」
「誰だ?」
「……ええと、あの……その……」
弩の声が
もしかしたら眠たいのかもしれない。
いいだろう、このまま弩を少し寝かせよう。
陽気がいい午後の時間だし、髪を洗いながら寝てくれるなんて、これほど
僕が一定のリズムで優しく頭皮をマッサージしていると、まもなく弩は寝息を立て始めて、本当に眠ってしまった。
口元が緩んでいて、体に力が入っていない。
完全にリラックスしてくれているみたいだ。
僕は起こさないよう、頭皮マッサージで、一定のリズムを与え続ける。
僕の両手の中にある、この弩の小さな頭が、色んなことを考えていて、時に悩み、苦しみ、怒り、喜び、悲しんでいるかと思うと、なんだか不思議だった。
この小さな頭の中にどれだけの宇宙が広がっているのかって考えて、身震いする。
この小さな頭で、今まで色々なことと闘ってきて、これからも色々な困難と闘うのだろう。
そんな弩を側にいて支えたいな、などという気持ちが湧いてきた。
そういうのが、夫婦になるってことかもしれないって、考えた。
まだ分からないけど。
そんな思いに
「んっ、んん!」
背後で、わざとらしい咳払いが聞こえた。
シャンプー台の後ろで、洗髪の順番を待つ待機列のヨハンナ先生だ。
列にはヨハンナ先生と、古品さんと、「ぱあてぃめいく」のほしみかとな~なが並んでいる。
最後尾には、腕組みで斜に構えた鬼胡桃会長もいた。
ってゆうか先生、職員会議とかはいいのか。
まあ、いいんだろうけど。
弩にはトリートメントもしてあげたかったけど、それはまた後にしよう。
僕は弩を起こして、急いで髪を
そして、ブラッシングとドライヤー担当の御厨に送る。
「次の方、どうぞ」
僕が言うと、ヨハンナ先生がニコニコ顔でシャンプー台についた。
それにしてもこの洗髪人気はなんなんだ。
シャンプー台は、もう一台くらい、作ったほうがいいかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます