第49話 プランB
土曜の午後、寄宿生とヨハンナ先生がいない寄宿舎では、主夫部部員による掃除が、殊の外、
特に、館内を汚す達人であるヨハンナ先生がいないおかげで、廊下は雑巾掛けしたままの状態でピカピカだし、食堂に食べ散らかしたお菓子の欠片は落ちていないし、階段の柵に脱いだキャミソールは引っかかっていない。
部員が掃除すればするほど、寄宿舎は綺麗になった。
寄宿生は全員出払っている。
朝からヨハンナ先生の車に乗って、みんなで出掛けていた。
ショッピングをしたり、美味しいものを食べたり、羽を伸ばしてくると言って、揃ってここを出ていったのだ。
ちょっと前には、みんなで楽しく過ごしている様子が、写真で送られてきた。
ネイルサロンでネイルをやってもらったという写真で、全員が綺麗になった爪をカメラに向けて自慢げに見せている。
女子達の爪は、ラインストーンがちりばめられたりして、まばゆいばかりだった。
そんな女子達を尻目に尻目に、僕達は淡々と掃除に精を出している。
でもいいのだ。
僕達にとって、こうして雑巾掛けで床をピカピカにすることが、ネイルサロンに行くのと同じくらい、心地いいんだから。
「錦織、そろそろ作戦の内容を教えてくれないか。本当にこれでいいのか?」
母木先輩が訊いた。
女子達が寄宿舎から出て行くように仕向けたのは錦織だ。
これも錦織が考えた作戦の一部だという。
「そうですね。それじゃあ、説明しましょうか」
錦織は雑巾掛けの手を休めて立ち上がった。
「僕は寄宿舎の女子にネイルサロンの無料お試しチケットが手に入ったと言って、外出するよう誘いました。彼女達はその誘いに乗って外出し、ネイルサロンに行ったようです。そのネイルサロンは、僕の知人がやっている店で、大切な人達が行くから丁寧にサービスしてくれと頼んであります。彼女達の爪には、特別豪華なネイルが施されるはずです」
「それが、髪を洗いたいという今回の件と、どう関係があるんだ?」
母木先輩が重ねて訊く。
「そこなんです、考えてみてください。彼女達は誘いに乗って、ネイルサロンに行きました。写真で見たように、今、みんなの爪には綺麗な装飾が施されています。繊細な細工がされています。さて、その指を使って、シャンプーするとどうなるでしょうか? 髪を洗ったらどうなるでしょう? せっかくしてもらったばかりのネイルが剥げてしまうでしょう。それ以前に、ラインストーンとかがいっぱい付いた爪では、シャンプーしにくいでしょう。なるべく指は使いたくないと思うんじゃありませんか?シャンプーするのに誰かに手伝ってもらおうと考えませんか? そこで僕達が切り出すのです。さりげなく提案します」
「髪を洗ってあげようか? と」
「錦織くん……」
意図せず、僕の口から気持ち悪い声が出てしまった。
奴は天才か。
「ネイルを使うなんて、思いつきませんでした。錦織先輩、尊敬します!」
御厨が目を輝かせている。
「いつも女子に囲まれていて、主要女性誌を全部読破している君は、僕達と着眼点が違う。すばらしい」
母木先輩が唸った。
寄宿生とヨハンナ先生、みんなの手にネイルを施して、洗髪しづらい環境を作る。
そこですかさず、僕達が髪を洗ってあげると提案する。
完璧な作戦じゃないか。
これなら変態呼ばわりされる心配はない。
ただの親切な男子高校生だ。
ちょっとお節介な高校生だ。
錦織の着眼点に僕は嫉妬さえ覚える。
「さあ、後は髪を洗う準備をして、みんなが帰って来るのを待ちましょう」
錦織が言って、僕達は力強く頷いた。
僕達は戦場の英雄を見るような目で、錦織を見る。
夕方になって、女子達が寄宿舎に帰って来た。
途端に寄宿舎が賑やかになる。
一日遊んで、みんな満足した顔をしていた。
ショッピングを楽しんだ成果の紙袋を、両手いっぱいに提げている。
僕達は、笑顔でみんなを出迎えた。
意識しないように気をつけているのに、どうしてもその髪に目がいってしまう。
これからこの髪を洗えるかと思うと、手がうずうずしてくるのだ。
「お帰り、ご飯にするか? それとも風呂か? どっちも準備できているが」
母木先輩が問うた。
「そうね、お風呂にしようかしら? 一日出かけて汗をかいたから、それを流してから食事にしましょう」
鬼胡桃会長が言った。
会長のネイルの施された手を見る。
ネイルの施された……
ネイルの……
ネイ……
あれ?
「おい、ネイルはどうしたんだ?」
母木先輩が会長に訊く。
「はぁ? ネイル? ああ、写真だけ撮って落としてきたけど」
鬼胡桃会長が答えた。
「なぜだ! どうして……」
錦織が頭を抱える。
「だって、してもらったネイルがこの私服に合わせてあって、ボルドーのワンピースに合わないんだもの。だから落としてきたわ」
会長はそう言って、まっさらな両手の爪を見せた。
会長以下、他の寄宿生の爪にも、ヨハンナ先生の爪にも、ネイルは乗っていない。
「私は部活があるからな。いつまでもネイルをしたままでいられないんだ。だから落とした。初めてネイルをしたけれど、良い経験をした」
縦走先輩が言った。
「私は明日、ライブのフライヤーの撮影があるの。グループの中で私だけキメキメのネイルしてたらおかしいでしょ? だから落としたの。せっかくカワイイのしてもらったのに、勿体なかったけど」
古品さんが言う。
「私もさすがにあのネイルをしたまま教壇には立てないからね。落としてきたよ。ただでさえ他の先生に目を付けられてるし」
ヨハンナ先生が言った。
「また篠岡先輩が誰かに襲われたときに、自由に手が使えないと背負い投げが打てないので落としてきました。残念ですけど」
弩が言う。
弩……
気を使わせてすまない。
それはさておき、作戦は出端から躓いた。
僕達の作戦にプランBはない。
プランAしかなかった。
作戦立案者の錦織が、泡を吹きそうなくらい、狼狽している。
「ちょっと待って、何か企んでいたの?」
腕組みの鬼胡桃会長が訊いた。
「おかしいとは思ったのよ。急にネイルの無料体験チケットがありますとか言って、私達を外に引っ張り出したから。何か企んでいたんでしょ? 正直にお言いなさい」
会長は鋭い。
こうなると僕達は蛇に睨まれたカエルだ。
会長だけではない、女子達全員が訝しむ視線を送っている。
弩もジト目で僕を見ていた。
「髪を洗わせて欲しかったんです」
女子達の視線に耐えられなくなって、御厨が零した。
最初に落ちた。
「はあ?」
会長が裏返った声を出す。
もうこうなったら仕方がない、僕は企みを全て白状した。
「髪を洗う練習をさせて欲しかったんです。女性の髪を洗う練習をしたくて、皆さんの髪を洗わせてもらおうと考えたんです。ネイルをした手だと、髪を洗いづらいから、手伝わせてもらえるんじゃないかと思って……」
「私達の髪を? 洗いたいですって?」
鬼胡桃会長に睨まれる。
眼底に突き刺さるような視線で、脳がチリチリとかゆい。
「いいわよ」
鬼胡桃会長が言った。
「えっ?」
「髪を洗いたいんでしょ? いいわよ。洗わせてあげるわ、って言ってるの」
会長がまどろっこしいと、半分切れながら言う。
「いいんですか!」
「だから、いいわよ。みんなも、いいわよねぇ」
鬼胡桃会長が同意を求めて、弩も、縦走先輩も、古品さんも、みんな当然のことのように頷いた。
「先生もいいですよね?」
会長がヨハンナ先生に訊くと、
「むしろ、今まで洗ってくれないことに不満を持っていたくらい」
と、先生は肩をすくめて言う。
腰が抜けて、床にへたり込みそうになった。
「さあ、早く済ませましょう。丁寧にお願いね。乱暴なのはいやよ」
ここ数日の僕達の
やはり、僕達はまだ女性の気持ちなど少しも解らない、ただのぼんくらだ。
まだ、主夫部などと名乗るのも、おこがましいのかもしれない。
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