第18話 朝練

「あとは温めるだけにしてあるから。電子レンジは使えるよね」

 玄関で靴を履きながら僕が聞くと、

「もちろん使えるし」

 と、妹の花園が答える。

「お弁当はまだ温かいから、もう少し冷ましてから蓋を閉めて包むんだよ」

「分かってるって」

 花園はまだパジャマのままだ。

 僕が追い立てて着替えさせないと、学校に遅刻しないか、ちょっと心配だ。

「それから、クッキングヒーター使ったら主電源を落として。家を出るときは戸締まりの確認をするんだよ。念のため二回確認して。もし、なにかあったらすぐに電話していいから」

「大丈夫。花園も枝折ちゃんも、もう子供じゃないんだから」

 玄関で登校する僕を見送る、枝折と花園の姉妹。


 いつもとは立場が逆だ。


「私たちは大丈夫だから。自分達で出来るから。お兄ちゃんは心置きなく、『朝練』がんばってきて」

 枝折が言って、花園がうんうんと頷く。


 こんな言葉が愚妹ぐまいから聞かれるとは。

 随分と大人になったものだ、と、感動してる場合じゃない。

 時間がない。


 僕はいつもより一時間半早く家を出る。

 家を出て、駅へ急いだ。


 空は僕達のこれからを祝福するように快晴だ。

 行く道のりは、普段の登校時間より早いから、まだ人も車もそれほど動いてなくて、清々しい。


 「朝練」、なんて良い響きだろう。


 なんか、青春やってるって気がする。

 今まで部活に入っていなかった僕にとっては新鮮な行為だ。


 まあ朝練といっても、主夫部の朝練は普通の部活とは違って、寄宿舎の寄宿生のお世話をしに行くわけなんだけど。




 寄宿舎に着くと、僕以外、三人の部員はすでに活動していた。

 館内にみんなが動いている気配があって、昨日より活気がある。


「遅くなってすみません」

 僕は荷物を置いて、急いでエプロンを付ける(そのうち、部員用の揃いのエプロンを作ると錦織は張り切っている)。

「いや、構わないよ」

 廊下の雑巾掛けをしていた母木先輩が手を休めた。

 先輩はエプロンではなく割烹着を着ている。

 先輩にはエプロンより割烹着のほうが動きやすいらしい。


「君は家の事もあるんだから、そっちをやってから来てくれれば十分だ。君の家の事も朝練の一部と考えていい」

 キラキラした笑顔で言ってくれる母木先輩。

 先輩はすぐに掃除に戻って、長い廊下を雑巾で一気に駆け抜けていった。

 見ると、階段の手すりに溜まっていた埃は、もうなくなっている。

 このペースだと、二、三日中には、この大きな建物が綺麗になってしまうかもしれない。


 台所からは、味噌の香りがした。

 中を覗くと、御厨が朝食の用意をしている。

 古いこの建物の台所は土間になっていた。

 薪を使うかまどがあるけど、さすがに最近は使われてないみたいで、横にガス台も設置してある。

 とりあえず炊飯器や電子レンジなどの調理家電や、調理道具は揃っていた。

 けれど、全体的に昔の人の体型に合わせて作ってあって、タイル張りのシンクや、調理台など、僕達の中で一番背が小さい御厨にも低いようで、使いにくそうだ。


 そんな中、台所を預かる御厨は、嬉々として料理をしていた。

 持ち込んだマイ包丁で、オクラを刻んでいる。

「先輩、僕はこの寄宿舎の皆さんを、三ヶ月以内にぽっちゃりにしてみせますよ。みんな痩せすぎです。たくさん食べさせます」

 御厨が言った。

 恐ろしい計画を聞いてしまって、僕は少しだけ不安になる。


「錦織は?」

 僕が訊いた。

「錦織先輩は、風呂場の掃除をしてます」

 御厨が答える。


 僕は風呂を見に行った。


 この館の風呂場は、市松模様のタイル張りで、そこに五人は同時に入れる大きさの浴槽があった。

 高い位置に窓が付いていて、そこから朝日が差し込んでいる。

 壁には、しおれた向日葵みたいな形の真鍮のシャワーヘッドが四つ付いていた。


 洗い場で、錦織がデッキブラシを使ってタイルを磨いている。

 錦織はタイルを磨きながら、なにか感慨にふけっていた。

「いや、百三十年に渡って乙女達が入ってきた風呂だと思うとさ。歴史ってすごいなと思って」

 どんな感慨だよ。


 風呂場の隣にランドリールームがあるというから見に行こうとすると、

「おはよっ!」

 廊下で真っ白い歯を見せる縦走先輩と行き合った。

「朝のジョギングしてきたの」

 すでに十キロを走ってきたという縦走先輩。

 先輩はランニングにショートパンツ、その下にスパッツという格好をしている。

 うなじの辺りには、玉のような汗が浮かんでいた。

「これからシャワーなんだけど、一緒に浴びる?」

 先輩はそう言って僕をからかった。

 上手く答えたかったのに、突然のことで適当な言葉が浮かばない。

 縦走先輩は、「嘘、嘘」と、笑いながら風呂場に入っていった。

 この辺の受け答えも、僕のこれからの課題だ。



 かつて五十人からが暮らしていたとあって、ランドリールームは広かった。

 古い二層式の洗濯機が三台と乾燥機が一台。

 アイロン台に、洗濯カゴが多数、重ねてある。

 洗濯機はすでに先輩が回してくれてあった。

 あとは干すだけになっている。


 僕も早速、朝練に取りかかった。


 洗濯物を干す場所を探して裏庭に行くと、物干し台は雑草に覆われている。

 物干し竿は苔むして太くなって、抹茶味のバウムクーヘンみたいになっていた。

 でも、それ以前に木々が作る日陰で、ここに洗濯物を干しても乾きそうにない。

 前任の管理人さんは、乾燥機で済ませてたんだろうか。

 僕も乾燥機は使うけれど、出来るだけ天日干ししたい派だ。


 考えたあげく、二階のエントランスホール上のバルコニーを思いついた。

 あそこなら日当たりが良さそうだし、風通しもいい。


 僕は洗濯カゴを持って二階へ上がる。


 階段を上がって、バルコニーに出るドアを開けようとしたところで、廊下の先から人が歩いてきた。


 相手の頭はぼさぼさ、目をしょぼしょぼさせていて、まだ完全に起きていないみたいだ。


 鬼胡桃会長?


 そう理解するのに少し時間がかかった。

 なぜなら、会長はすっぴんだったのだ。

 顔の印象が普段見るのと全然違う。

 少し、たれ目気味の、やさしい目元。

 目尻が上がったきつい感じの会長なのは、メイクの効果だったらしい。

 すっぴんでは、会長がまとっているオーラも、鳴りをひそめている。


「おはようございます! 良い天気ですね」

 朝だし、めいっぱい明るい感じで挨拶した。


 苺の柄のネグリジェの鬼胡桃会長。

 会長は、胸に熊のぬいぐるみを大事そうに抱いている。

 茶色の、少し、くたびれたテディベア。


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 たぶん鬼胡桃会長だと思われる少女は、そう叫んで廊下を走って行った。


 全速力で。


 会長は一番端の部屋に走り込んで、ばたんとドアを閉めた。

 その勢いで、建物全体が軋んだ。


 なにかとてつもなく嫌な予感がしたけど、僕はそのまま洗濯物を干す。

 時間が経って洗濯物をしわしわにしたくなかった。



 バルコニーにはいずれ物干し台を持ってくるか、作るしかないけど、今日のところは家から持ってきた洗濯紐を使う。

 バルコニー両側の柱に紐を渡した。


 朝日を浴びて風に揺られるセーラー服が気持ちよさそうだ。

 僕はセーラー服をパンパン叩いて皺を伸ばす。

 乾いたらアイロンをかけてパリパリに仕上げよう。


 やっぱり、洗濯物は乾燥機よりも、こうして天日で干すに限る。



 たぶん弩のものと思われる縞々のパンツを干して、全ての洗濯物を干し終わる頃、

「みなさん! 食事の用意が出来ました。食堂に来てください!」

 階下から御厨が館内に呼びかける声が聞こえた。

 僕は空を見渡して、雨を降らせる雲がないのを確認すると、急いで階段を降りる。



 食堂に入るところで、背後から強い殺気を感じた。

 振り返ろうとして、背中に何かが突きつけられていて、振り返ることができない。

「さっき、何か見た?」

 押し殺した鬼胡桃会長の声だった。

 会長は僕の背後にぴったりと付いて、何かを突きつけている。

「いえ、何も見てません」

 僕は答える。

「本当に何も見てないの?」

「本当に何も見てません」

「いいわ。もし見ていたら、我が家に伝わるこの短刀が、あなたの背中に突き刺さっているところだったわ」

 聞いただけで背中がヒリヒリした。


「この短刀はね、祖母がお嫁に行くとき曾祖母から渡された刀なの。相手の男がぱっとしない甲斐性無しだったら、刺し殺して帰って来いって、渡されたらしいの。幸い祖父は祖母のお眼鏡に適う、立派な男性だったわ」

 会長が言う。

「本当に何も見ていません」

「そう、いいわ。たとえ何か見ていたとしても、それを吹聴ふいちょうしたりしないように」

 会長がそう言って背中に突きつけていたモノを下ろした。

 振り向くと鬼胡桃会長はもう、完璧なメイクで決めている。


 朝練も命懸けだ。



 食堂には十二人掛けの長テーブルが四台並んでいた。

 そのうち、サンルームに近い一台のテーブルに、朝食の膳が七つ整えてあった。

 当然のように全員を見渡せる上座は鬼胡桃会長の席だ。

 片側に縦走先輩、弩。

 対面に母木先輩、僕、錦織、御厨の順番で着く。


 御厨が揃えた今朝のメニューは、


 めざし

 卵焼きと大根おろし

 豆腐とわかめの味噌汁

 納豆

 味付けのり

 オクラのサラダ


「まだみんなの好みも分からないし、定番メニューにしておきました。好きなものとか、食べたいものとかあったら、遠慮せずにどんどんリクエストしてください」

 御厨が言う。

 どんどんリクエストしてください、の言葉の裏には、御厨の野望が詰まってるんだろうけど、それは黙っておこう。


「みんなで『いただきます』を言って食べようか」

 母木先輩が言った。

 初めてみんなでする食事で、緊張する。


「ちょっと待って。『いただきます』だと、なにか私達があなた達、主夫部から施しを受けているみたいじゃない。私達はあなた達の部活動に付き合ってあげてるのよ。朝練に付き合ってあげてるの」

 鬼胡桃会長が言った。

 会長は余程、母木先輩に対抗したいのか。


「そうね、『いただきます』の代わりに私達寄宿生は、『食べてあげるわ』にしましょう。『食べてあげるわ』の号令で食べ始めましょう」


「食べてあげるわ」鬼胡桃会長。

「食べてあげるわ」縦走先輩。

「食べてあげるわ」弩。


 三人が同時に言った。

 弩は主夫部の部員でもあるけれど、まあいいか。


「おかわり!」

 食べ始めて三分で縦走先輩が椀を出した。

 椀を受け取る御厨がすごく嬉しそうだ。

 大勢で食べる朝食は、やっぱりおいしい。

 花園と枝折と、三人の朝食もいいんだけど、こうして賑やかなのもいい。



「ところで、この寄宿舎には四人の寄宿生が入ってるんですよね?」

 箸でめざしの頭を取りながら、錦織が訊いた。


「鬼胡桃会長と、縦走先輩、弩、あとの一人は誰ですか?」

 錦織が訊く。

 それは、僕も気になっていた。


 その質問に、鬼胡桃会長と縦走先輩の箸が止まる。

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