第2章
第13話 主夫部の午後
コポコポと、ポットから紅茶が注がれる音がする。
シンプルなボーンチャイナのティーカップが、鮮やかなオレンジ色で満たされた。
十分に蒸らしたダージリンの香りが、ゆっくりと室内に広がっていく。
「今日のケーキは、洋梨のシブーストです」
御厨が言って、家で1ホール作ってきたそれを、僕達に切り分けてくれた。
キャラメリゼされた表面の飴色が美しい。
ナイフが入ったところから、洋梨の果肉が弾けて、濃密な香りがした。
「タルトはもっと、サクサクのほうがいいですか?」
御厨が訊く。僕はタルトが適度にしっとりして、中のクレームシブーストと溶け合う今の状態のほうが好きだ。
口の中に入れるとたちまち消えてなくなってしまうその感覚が、たまらなく愛しい。
生徒会からも学校からも正式に認められた主夫部の部室で、僕達部員は、午後のお茶の時間を楽しんでいる。
妨害を乗り越えて、主夫部は正式に発足した。
部室は、文化部部室棟の一番端の部屋が与えられている。
あまり日当たりが良い部屋ではないし、すぐ裏が焼却炉で、ゴミを燃やしている間は窓が開けられないけど、綺麗さ、清潔さではどの部室にも負けてないと思う。
なにしろ母木先輩の指揮の下、僕達で埃が積もっていた部屋を、一週間かけて掃除したのだ。
みんなで張った壁紙が、眩しいくらいに白い部屋。
広さは普通の教室の半分ほど。
フローリングの床が適度な光沢を持っていて、古さが風合いになっている。
机やチェストなどの家具は、わざと
カーテンやテーブルクロスは、錦織が選んだモスグリーンで統一してある。
味気ない蛍光灯だった照明は、近くの古道具屋で見つけてきたキャンドルシャンデリアに変えた。
全体的に、フレンチカントリーといった感じに仕上がっている。
この部室をカフェにしたら、コーヒー一杯七百五十円くらいで出せると思う。
学校内で、ここだけ時間の流れが違った。
時間が小川のようにゆっくり流れる。
ここにいると僕の高校生活にも、おしゃれな恋愛ラブコメディーが始まりそうな気がした。
それはそうと……
「ヨハンナ先生!」
僕が呼びかけると、先生はびくっとして、丸めていた背中を伸ばす。
「なんであれほど主夫部の顧問になるの嫌がってた先生が、一番この部室に入り浸ってるんですか!」
部室の窓際に据えた二人掛けソファーに沈み込んで、ケーキ用のフォークに付いたクリームを舐めているヨハンナ先生。
顧問就任は名義貸しだとか言ってたくせに、先生は毎日この部室に来ている。
そして、授業以外、ほとんどの時間をこの部屋で過ごしていた。
「だってぇ、職員室に居づらいんだもん」
先生は言う。
主夫部の顧問にはなるな、という上司からの言いつけを押し切って顧問になったのだ。
だから、職員室に居づらいのは理解できる。
けど、先生はこの部室で授業の準備とか、仕事のほぼ全てをやっていた。
テストの採点もしてるし、テスト問題も作っている。
今や窓際のソファーは先生の定位置になってしまっていて、僕達は、ほとんどそこに座ったことがない。
「それにここは何も言わなくても、お茶も、お菓子も出るし。ふかふかのソファーもクッションもあるし。散らかしてもいつの間にか綺麗になってるし」
ヨハンナ先生がうっとりした顔で言う。
錦織がコーディネートした丸襟のブラウスに、若草色のカーディガンを羽織ったヨハンナ先生。先生は前みたいに、毎日、同じ型のスーツでいるのはやめている。
錦織の着回し通りに、毎日違う服装で学校に来るようになった。
「いつの間にか綺麗になってるわけじゃないです! 僕達が掃除してるんです!」
僕が言うと、先生は聞こえないふりをする。
整理された部屋を
先生には何もないところからゴミを生み出せる超能力があるんじゃないかとさえ思う。
「あーもう、この部室から出たくないよ。授業とかやりたくないよ。職員会議とか行きたくないよ」
先生は足をばたばたさせながら言った。
これが世に言う反面教師ってやつか。
まずい、このままでは先生がどんどんダメ人間になってしまう。
僕達はとんでもない人を顧問に引き込んでしまったのかもしれない。
混沌の権化みたいな人を、顧問にしてしまった。
でも、見方を変えると、先生は主夫部にとって良い研究対象なのか。
人は完全に満たされた環境にいると、こうも堕落してしまう。
僕達が主夫となったとき、パートナーのために何でもし過ぎると、相手がこのようにぐうたらになってしまうのかもしれない。
こうなったら、先生を観察の対象にしよう。
良きサンプルとして、主夫部でじっくりと観察していこうと思う。
「この中の誰か、お婿さんになってよ。割と本気で」
ヨハンナ先生が言った。
僕達四人は互いを見合って、それを譲り合う。
順風満帆に見える主夫部にも心配事はあった。
あれ以来、主夫部唯一の女子部員になったはずの、ゆみゆみこと、
新設部活動の受付最終日、一緒に階段を駆け上がって生徒会室に飛び込んだあの日から、一度もだ。
「学校にも来てないみたいです」
同じ一年生の御厨が言った。
御厨はクラスは違うけど、心配になって弩のクラスまで確認に行ったらしい。
ところが、弩の欠席の理由を知るクラスメートはいなかった。
というか、弩に友人と呼べるクラスメートがいなかった。
まだ、入学したばかりだし、当然かもしれないけれど、同じ中学だった友達とか、知り合いとか、一人くらい居ていいはずなのにだ。
同級生を取材をした御厨によると、弩は休み時間は机に伏せて寝ているし、放課後はすぐに帰ってしまうから、正直、どんなキャラクターかも分からないらしい。
「家に行ってみようか?」
錦織が言った。
「そうだな、大切な僕達の仲間だ。様子を見に行くべきだ」
母木先輩が言う。
それには僕も賛成だ。
彼女がいなければこの主夫部はなかったんだし。
彼女が何かトラブルにでも巻き込まれていたら大変だし。
「ってことで先生、職員室で弩まゆみさんの住所、調べて来てください」
僕はソファーのヨハンナ先生に頼んだ。
先の御厨の調査でも、弩の住所や連絡先を知っている生徒はいなかった。
学校も個人情報の取り扱いには慎重になっているから、クラスの名簿などにも住所は載っていない。
「ええー」
先生は駄々っ子のような声を出して、口を尖らせた。
「それくらい、この部の為に働いてください」
僕が言うと、先生はソファーにしがみついて全身で拒否の態度を示す。
「先生、調べてきてくれたら、明日のおやつは先生のリクエストに従います」
御厨が言った。
「分かった。行ってくる」
先生はあっさりとソファーから腰を上げる。
そして、軽やかにスキップしそうな勢いで部室を出て行った。
なるほど、人はこうやって動かすのか。
ヨハンナ先生から学ぶことは多い。
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