混沌の揺りかご 弐
どこからか、か細いフルートの音が響いている。何故だか聞き覚えのある旋律のように思う。
俺はクトゥグァの炎に焼かれながら、何も無い空間をただ墜ちて行く。
いや、何も無い訳ではないらしい。ふわふわと海月のようなものや、蟹の幼生のようなものが産まれては泳ぎ去るのが見える。
以前、これと似た感覚を味わったことがある。牢のなか、無名の霧に包まれた時だ。
ならば、ここには何も無いのではなく、混沌が満ちているということだろう。
傍らを、ザーダ=ホーグラーの腕の一つが、轟音を立て燃え盛りながら遠ざかって行く。
墜ちて行くそれは、無限に広がるこの空間に比べれば、ほんの小さな焚き付けでしかない。
クトゥグァがどれだけ憎悪を燃やそうと、全てを焼き尽くし、無へ還すことなどできそうもない。
調子に乗って悪戯の過ぎた、這い寄る混沌を脅すのが関の山だろう。
ベルカは首尾よくやり遂げただろうか。
俺の自慢の義兄だ。きっと俺の落ちた混沌の玉座への門を閉じ、グロースの軌道も逸らしたに違いない。
妖星には星の母も残されている。きっとそれで王国に凱旋を果たすことだろう。
灯芯である俺の身体は、あとわずかで燃え尽きる。
実のところ肉体はとうに滅び、霊体の欠片だけが残響の様に思考めいた物を巡らせているだけなのかもしれないが。
不意に場違いな拍手の音が鳴り響いた。意識を向けると、そこに脚を組んだジゼルが浮かんでいた。
「お疲れさま! ここで意志を持ったまま存在できるのは、本来わたしだけなんだけどね!」
楽しそうにも、悔しそうにも見える微妙な表情を浮かべている。お前は充分楽しんだだろう。いまさら何の用だ?
「だって、アインはせっかく用意した勝利者ボーナス、結局何も受け取ってくれなかったんだもの! 遊戯の進行役としては、心残りも当然だよ!」
ジゼルは頬を膨らませ唇を尖らせる。ぷうっと息を吐き出すまま、大きな溜息を一つ吐いて見せた。
「アインという存在はじきに焼け落ちる。外法に手を付け、混沌に還ることも許されていない。だけど、今ここに満ち溢れる混沌は、意志に従い何にでも形を変える――」
指を立て、悪戯っぽく片目をつむる。
「間に合えば、身体を作り直せるかもってこと!」
言いたいことだけ言い終えると、黒衣の少女は舞い踊りながら、混沌の中を流されて行った。
世界はアザトースの見る夢のようなものだと説く者もいる。
夢の中の存在が夢見るものに干渉するなど、戯言めいた話だ。
だが、どのみち燃え尽きるのを待つだけの身だ。最後の戯れに付き合うのも悪くはない。
俺は焼け落ちた自分の身体を思い出してみる。
灰の髪。
鉄色の瞳。
無駄に泣いたり笑ったりすることの無いよう、常に噛み締めた口元。
燃え尽きたばかりの左手はすぐに思い描ける。
気付くと俺は、炎に包まれ燃え尽きる寸前の俺自身の頭部を眺めていた。
……これは、本当にジゼルの言う通りなのか……?
残された頭部が燃え尽きる前にと、急いで上半身を形作る。
傷痕は己が戦い続けた証だ。覚えているだけ同じ場所に刻む。右腕は――
そこまで作ってようやく過ちに気付いた。そもそも順番を間違えている。
俺の本質は鎧。雛神様を守る鋼の殻だ。こんな大事なことを忘れるなんて。
雛神様は迷宮で母神様を越えた。
もう殻は必要ない。他のどんな神々にも劣るものか。
迷宮の玉座に座るに相応しい、成長した雛神様の姿を思い描く。
身体は清らかな白。赤く輝く瞳。脚は優美で力強く。
初めて目にした母神様より大きく神々しい姿を前に、俺の中に畏敬の念が溢れる。
これでいい。これが俺の望んだ本来の結末だ。
消し炭になりかけた身体に残る意識の欠片のなか、満足しているはずの俺に棘の様に微かな違和感が残る。
夢の中で目にした少女の姿。
仮想迷宮でも同じ姿で出会った。
俺の夢の中とは言え、なぜ雛神様はあの姿を取った?
目の前にあるような、神威に満ちた姿が理想ではなかったのか?
白い肌。
白い髪。
紅い勝気そうな瞳。
矮小な存在でしかない人の姿。
何故だか怒ったような顔で俺を見ている。
何故だ?
なぜだ?
なぜ
答えを見つけ出す前に、わずかな熾火は残された俺の意識を焼き尽くした。
§
「まったくもって、人間ってやつは度し難いね! どうしてこう愚かなんだろう! 王道を喜ぶくせに、すぐにプロットをはみ出してしたり顔。まったく! 醜くて矮小で! 浅ましく強欲で! 傲慢で愚かな!!」
黒衣の少女は踵を踏み鳴らし、不機嫌な顔で吐き捨てる。
「だからこそ尊く美しく、何よりも愛おしい存在なんだけどね! カワイイ子にはついちょっかい出しちゃう、みたいな!」
くるりとスカートを翻し一転、頬を染め表情をゆるめた。
「今回の遊戯はどうだった? 楽しめた? あなたが許すなら、追加でボーナスあげても良いんだけど?」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべ、あなたを見る。
「あなたはどうしたい? あなたがそれを望むなら――」
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