雪原

死が歩む雪原

「若い頃はいろいろはっちゃけてたからねえ。 ルリム・シャイコースの呪いを受けてんのよ」


 白蛆。かつて大陸を一つ氷漬けにし、国を滅ぼした神の一柱の名だ。この女、一体どこで何をやらかしてきたのか。


「おかげで寒いところじゃないと身体がもたないのよ。八方手を尽くして、少しはマシになったんだけど」


 氷室の維持に手間と時間を取られ、研究がままならない。ムニョス博士は浴槽に身を沈めたまま、俺にぼやいてみせた。


「そこできみに取って来て欲しいわけよ。 アフーム・ザーのランプを」



 北の山に向かう道中の雪原で、俺は雪に埋もれ身動きが取れずにいる。

 防寒具を着込んではいるが、体温が低下しすぎたせいで身体が自由に動かない。風を避ける物の何もない平原で、猛烈な地吹雪に見舞われ、体力を消耗しすぎた。


『ちょっとアイン、こんな所で倒れるんじゃないわよ!』


 雛神様の操作する体内物質は、本来補助程度のもの。身体の熱を取り戻し、手足を動かすにもエネルギーが必要だが、圧倒的に足りない。幸い風は治まりつつある。吹雪の切れ間の今のうちに、少しでも先へ進むべきだ。目的の村は、そう遠くないはずなのだが。


『アイン、寝るんじゃないわよ! 動きなさい! うーごーけー!!』


 身体に積もる雪を払うこともできぬまま、俺は遠くに猛禽の鳴き声を聞いた気がした。



 俺は熾火のはぜる音で意識を取り戻した。指先は痛痒いが感覚はある。どうやら凍傷は免れたらしい。毛皮を掛けられ、粗末な小屋の中に寝かされている。視線を動かすと、止まり木から見下ろす隼と目が合った。


「気がついた! 姉ちゃんよんでくるね」


 炉に薪をくべていた銀髪の少年は、そう言い残し退室すると、ほどなくよく似た顔立ちの少女を連れて戻った。

 白い肌に長い銀の髪。リボンと帯には青地に白い紋様が染め抜かれている。少女は弟に下がっているよう促すと、身を起こした俺の傍らに腰を下ろした。


「隼の部族のウィチタ。今はイタクァの巫女をしています。あれは弟のトゥルク」


 俺も鋼殻の騎士だと名乗り、助けられた礼を述べた。隼の部族は、俺が目指していた集落に住む民の名だ。どうにか目的地に辿り着くことができたようだ。


「礼ならハサウィに言ってください。彼が見付けなければ、良くて指の数本、最悪命を失う所でした」


 止まり木の隼は俺の目礼にそっぽを向いて応えた。聞けば俺の揃えた装備程度で雪原を渡るのは狂気の沙汰だし、地吹雪の中、身を隠しもしないで歩き続けるのは自殺行為でしかないという。準備も下調べも、まるでなっていなかったという訳だ。敗北は必然といういう他ない。だが、北の街からわずか四日ばかり離れただけで、ここまで寒さが厳しくなるものなのか。


「北の山を越えれば、溶けることのない氷原が広がっています。かつてイイーキルスが氷に閉ざした地。それに、ここは歩む死の縄張りですから」


 ウィチタは居住まいを正し俺に問い掛けた。


「貴方の目的は何です? その懐の血判状が来訪の理由ですか?」


 歩む死。風に乗りて歩むものイタクァの巫女。この女も、魔女の釜に関わる者なのか。傍らの骨剣に手を伸ばす俺に、ウィチタは薄く笑った。


「殺す気ならとうにそうしています。私も血判を捺した身ですが、残念ながら時間切れです。争いを勝ち抜き願いを叶えるには、少し遅すぎました」


 氷湖を思わせる蒼い瞳に愁いが浮かぶ。


「私の望みはこの地をイタクァの支配から解き放つこと。巫女である私には本来なしえない願い。神と渡り合う力でも授けるという黒い男の言葉に、一縷の望みを掛けたのですが……」


 元々この山沿いから海辺にかけての地域には、様々な動物を祖霊と信じ敬う部族がおり、古くからのしきたりを守り生活を続けていたのだという。部族間で時には争い、時には手を取り合って暮らしていた。


「ある部族との争いの際、隼の部族はイタクァの加護を求めたのです。それは思った以上の成果を上げ、勝ち目のなかったはずの相手を完全に打ち倒すことができました」


 やがて祖霊を祀ることを忘れた隼の部族は、狐も熊も海豹も。他の部族を次々打ち倒し、雪原一帯を制するまでになったのだと。


「危惧を唱える者はいましたが、決まって歩む死に連れ去られました。最後まで従わなかった狼の部族が根絶やしにされた時、ようやく気付いたのです。この地を支配するのは私たちではなく、風に乗りて歩むもの・イタクァだということに」


 雪原を闊歩する歩む死の求める生贄は、隼の部族が他の部族を従えるようになった後も留まることはなかった。儀式で捧げられるものだけでは飽き足らず、狩りに出た際行き合っただけの者も、気まぐれに連れ去ってしまう。ほとんどの者はそのまま二度と帰ることはなく、帰った者も氷漬けの死体の姿か、人の食べ物を受け付けない身体に変えられていた。


「外へ助けを求めることはできません。雪原を去ろうとして、集落ごと攫われ消えた例さえあります。隼の部族も残りわずか。次の儀式では、トゥルクを捧げるようお告げがありました」


 自らの血判状を差し出し、ウィチタは頭を下げた。


「この地から歩む死を遠ざけるのに力をお貸し下さい。さすればこの命、貴方に捧げましょう」


 俺は首を振り、否やを返した。今の目的はアフーム・ザーのランプだ。魔女の釜の約定に縛られようと、無抵抗の者を斬るつもりはない。それに、俺には命を救われた借りがある。


「アフーム・ザーのランプ……?」


 怪訝な顔を見せたウィチタだったが、すぐに思い至るものがあったらしい。集落の外、岩山の洞窟に、消えない灰色の炎が祀られているという。かつて北の山を越えた先で、アフーム・ザーに対面した部族の祈祷師が、その身体の一部を賜り持ち帰った物だという。


「生きるものにとっては放つ光さえ有害で、取り扱いを間違えれば、ここも北の氷原と同じになるとの言い伝えがあります。どうしてもというのなら、止めはしませんが……」


 歩む死の脅威に手一杯で、封じられている災いに敢えて手を触れる者は無かったのだろう。ランプを報酬として受け取ることを確認した俺は、ウィチタにイタクァ退散の助力を約束した。

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