魔女の釜の底で 弐

 カイトが懐から取り出した羊皮紙は二枚。その一枚の文言の下には、捺された血判が見える。


「もう来てたんだよ、俺のところにも黒い男が。兄貴が宿しているのは神の雛。亜神と引き換えにするには、悪くないんじゃないかってな」


『ただの雛なら珍しくもないが、鋼殻の騎士と共に鍛え上げられた一柱。充分他に代えのない代物だ。神壊学府には話が通るように口添えしてやろう』


 黒い男はそう囁いたそうだ。


「闇討ちめいたのは性に合わねえが、ここでならお互い恨みっこなしの五分だ」

『この……馬鹿』


 この契約には間違いなく呪いめいた効果がある。例え今剣を引いても、どちらかが最後の一人になるまで縛られ続けることになる。俺は骨剣に絡み付く黒い石の神の血と臓物を払うと、一礼し剣を構えた。


 カイトの得物はカトラス。船上での使用を考えたもので、やや短い。その分速く手数が多い。おまけに足癖も悪い。鎧を着込まず、俺の剣を貰えば一撃で勝負は決するだろう。だが、それを恐れること無く踏み込んでくる。


 黒い石の神との戦いで、カイトにも疲労が蓄積していたのだろう。踏み込んだ後の体さばきが崩れた。既に振り下ろされた俺の骨剣をかわしようがないと悟り、剣を持たない左手で受け流しを試みる。無駄だ。手甲があるならまだしも、体重の乗った一撃は、左手を切断し、肩にまで食い込む――はずだった。


「くあっ! 痛ぇ! あっぶねえ!!」


 カイトの左腕の皮膚は、そこだけ本来の褐色から黒くざらついた物に変わっている。骨剣は受け流され、表皮を削るに留まる。


「それでも無傷では済まねえか。さすがだな、兄貴」


 血の滴る左手をだらりと垂らしたカイトは剣を捨て、懐から碧い石の護符を取り出した。


「俺の得意な河岸に付き合ってもらうぜ!!」



 カイトが護符を地面に叩き付けた瞬間、周囲の景色は一変した。

 不意に浮遊感に襲われ、俺は上下の感覚を失った。肺に流れ込むのは空気ではなく塩水。気付けば俺は海中に投げ出されていた。


『なによこれ!? 溺れる!!』


 雛神様の焦りと混乱に引き摺られ、正常な判断ができない。それでもなんとか上下を把握し、水面へ浮上しようとするものの、足を掴まれ再び深みへと引き摺り込まれた。


『てこ入れとやらは役に立つじゃねえか! 兄貴は泳ぎのほうはイマイチみたいだな!』


 牙を剥き出しにしたカイトが嗤う。夢中で振るう骨剣はまるで速さが足りず、易々とかわされた。

 自由は取り戻したが、鎧の重さのせいで浮かび上がることはできない。脱いでいる余裕もない。軽やかに泳ぎ寄るカイトは、すれ違いざま鋭い鉤爪を振るい、嘲るように泳ぎ去る。


 逃げ場はない。息も続かず、体勢を立て直す術もない。霞む視界の中、再び迫りくるカイトは、その姿を大きく変じていた。二回りは大きくなった身体は黒い硬質の皮で覆われ、脚は一本に繋がり尾鰭を形成している。左右に大きく張り出した目を持つ鮫の姿になったカイトは、鋭い牙の並んだ顎で食らい付いてきた。


 左腕を噛まれ手甲を砕かれる。鼻面に叩き込もうとした骨剣は、鉤爪を持つ手で掴まれ封じられた。鮫の姿をした深きものは、俺を銜えたまま急速に潜行を開始した。


 身体に掛かる水圧も本物。薄れかけた意識を、激痛で呼び戻された。カイトだったものは、残る右腕で俺の鎧を剥がし、鉤爪を胸元にねじ込んできた。


『――――!!』


 雛神様の苦痛と恐怖が伝わる。腕を千切ってでも拘束を解こうともがく俺の目に、この場にあるはずのない物が飛び込んできた。刹那の後、それの意味するものを理解した俺はもがく動作に紛れ、それ目掛けて骨剣を投げ付けた。


 沈むことなく浮かびもせずに、ただその場に存在し痙攣を続けていたゴル=ゴロスの後ろ脚。

 骨剣が刺さった反射で、大きく跳ね上がったそれは、鮫の姿の深きものの腹を強く蹴り上げた。


『グッ!!?』


 思わぬ一撃に深きものは顎を開く。

 俺は解放された左腕でナイフを抜き、深きものの喉に突き立てた。

 両手の鉤爪を食い込ませ、俺の左手を止めようともがき続けた深きものは、やがて力なくその腕を放した。



『海の中じゃ……ない?』


 景色は元の山中に戻っていた。海中に送られた訳じゃない。碧い石に込められた魔術で、幻を見せられていただけだ。溺れもするし、沈みもする、見せられた者にとっては、本物と何ら変わらない海原を生み出す効果があったようだが、死に損ないとはいえ、神であるゴル=ゴロスにまではその力は及ばなかったようだ。


 カイトは喉にナイフを刺したまま倒れている。抉られた胸元を押さえながら歩み寄ると、血泡を零しながら俺に語り掛けてきた。


「やっぱり強えな……兄貴。いまさら……こんなこと……言えた義理じゃあねえが……媛さんの件……最後まで頼めるか?」


 当たり前だ。俺はその為にここに来、血判を捺したのだから。


 そう口にすると、カイトは口元に笑みを浮かべた。


『仕方ないわね。あの黒い奴や、小うるさい小娘の思惑通りに動くのもしゃくだけど、依頼はちゃんと受けたからね。後は安心して任せなさい』

「……兄貴なら……いつか神殺しの力で……あの娘っ子の……こと……も……救って…………」


 白み始めた空を映すカイトの瞳に、もう光はない。

 魔女の集う山での一夜を生き抜いた俺は、旅の友を失った。

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