第一章 vs.ペロロンチーノ

一、甘い香りと鳥人

 ヴァンパイア・ブライドの頭ががくんと下がり、崩れ落ちるように倒れかかってきたとき、シャルティア・ブラッドフォールンはその頭をわしづかみにした。無造作に。


 握り潰すのを取り止めたのは、浴場にいたすべてのシモベが糸の切れた人形のごとく倒れ伏していると気付いたからだ。


 シャルティアは柳眉をひそめ、つかんだ頭をぽんと放り出す。軽い所作にもかかわらず、ヴァンパイア・ブライドはもんどりうって浴場の端にまで転がった。


「やれやれ……敵襲でありんすかねえ」


 立ち上がれば、薔薇の浮かぶ薄桃色の湯が揺れる。シャルティアは風呂から身を引き上げ、しなやかな足運びで進み、通りすがりざまタオル掛けからバスタオルを取り、歩みを止めぬままにふわりと広げ、身を包む。


 脱衣場は閑散としている。シャルティアは籠に手をかけ、ひょいと持ち上げる。鏡の前に座り、籠から桜花聖域の守護者より預かった世界級ワールドアイテムのみを取り出し、台に置いた。それからおもむろに、ドライヤーを持ち上げ、わずかに顔をしかめてから、髪を乾かしはじめる。


 本当ならば、特別にあつらえた柔らかな布で丁寧に水気を拭き取り、髪に美容液を染み込ませて頭皮をマッサージし、さらに美容のために顔はもちろんのこと、全身にあれこれと施すべき事柄があるのに。


(髪が傷んだらどうしてくれるのかしら)


 口元に浮かぶ残忍な笑みが、答えを教えてくれる。


 ドライヤーの電源を切り、手早く装備を身に纏う。むろん胸パッドも抜かりはない。髪に櫛を入れ、丁寧に梳かし、お団子に結い上げ、ヘッドドレスでふわりと包む。鏡の前にくるりと回ってみせ、にっこりと微笑む。台の上の世界級ワールドアイテムをつかみ、すぐそれと悟られぬように隠し持つ。


「さあて、お客さんはどこでありんしょうかぇ」


 弾む足取りで、麗しい少女は歩く。


 彼女にとって、これは異常事態ではない。

 むしろ正しい在り方だ。


 第一、第二、第三階層守護者シャルティア・ブラッドフォールン――侵入者があり、それを撃退すべく赴くということこそ、彼女にとっての自然。


 何故、シモベたちはみな急に『睡眠』状態に陥ったのか?

 何故、敵はすぐさま襲ってこないのか? 何を企んでいるのか?

 待ち伏せ? 罠? それとも?


 ……そんなぐだぐだしい思考など、知ったことか。


 敵がいる。ならば倒す。

 己の持てる力を尽くし、守護者最強の面目を果たす。


 迷いも恐れもなく、堂々と脱衣場を出たシャルティアは――

 その廊下の先で、壁にもたれかかり目を閉じていた者を前にして、完全に動きを止める。


 それはバードマンだ。猛禽類もうきんるいの頭部と翼をもつ二足歩行の化け物は、鋭いくちばしをもつ顔を仮面で覆い、大柄な体躯を金色の鎧に包んでいる。腕を組み、のんびりとくつろいでいる。シャルティアの居室に常にどこからともなく響いている悲鳴と嬌声を味わうように。


「……あ」


 小さい声がシャルティアの口から漏れる。ほとんど無防備といっていいほど、頼りなげな表情になっていた。


 バードマンは気怠げに目を開ける。壁から身を離し、組んでいた腕をほどく。右手を軽く掲げ、「やあ」とのんびりした挨拶を寄越す。


 シャルティアの口元がほころぶ。頬にさっと赤みが差し、目にはいっぱいに涙がたまっていく。雲の上を歩くがごとき足取りで前に進み、いとおしい創造主の名をほとんど口にしかけて、はっとしたように彼女は一歩を退いた。


「……違う」


 押し出した声は、いまにも駆け出しそうな己を抑えんと、重苦しくぞっとする響きを帯びる。

 歓喜にきらめく瞳に、不吉の影がよぎる。


 たしかにあの御方にそっくりだ。あの御方としか思えないほど。

 でも、支配者のオーラがない。


「ん? どうしたんだい、シャルティア」


 優しい声は柔らかに鼓膜を叩く。

 とろけんばかりの笑みが自然と浮かび、それを意志の力で押し込める。


 臨戦態勢を取らなくちゃ。

 早くこのふざけた敵の正体を暴くのよ。


 どれだけ言い聞かせても、身体は動かなかった。

 彼女はただ目を見開き、唇をわななかせ、時が止まることだけを祈っていた。


 この者の正体が暴かれるときを恐れた。

 目にする限りの姿、耳にする限りの声を、永久に保存しておけるのならばどんなことでもしようと思えた。


 甘い香りが漂う。

 創造主がシャルティアのために、この居室を充たした香りが。


 バードマンは顎に手を当て、考え込む。

 それからぱん、と両手を叩く。

 はっとしてシャルティアは後方に跳び退る。

 攻撃が来るかと警戒して。


「ああ、なるほど。そういやこれ、外すの忘れてたな」


 ぽりぽりと後ろ頭をかき、照れ隠しのように笑ったバードマンは、指にはめていたリングを外し、ぽんと放り投げる。

 宙に吸い込まれるように指輪は消えたが、シャルティアの目はその軌跡を追ってはいなかったし、それが探知阻害の指輪であるということさえ気付かなかった。


 溢れかえる圧倒的な気配――支配者のオーラ。

 欠け落ちていたパズルのピースがかちりとはまり、疑うべくもなくいとおしい創造主がそこに在る。


 苦しいまでの警戒も緊張も、不安も悲哀も、

 解き放たれて涙とともに流れていった。


 嗚咽交じりの叫びにその御方の名を呼びながら、駆け出す。

 バードマンは少し屈んで両腕を広げた。

 迷いなく飛び込んだ彼女を、創造主はしっかり抱き留め、ぐっと持ち上げる。

 赤ん坊を高い高いする要領で、彼は彼女を見上げて、満足げに頷く。


「うんうん、かわいい! 声もいい感じだよなあ。ユグドラシルのときには合成音声でもいいからほしいって思ったことがあったけど、いやあ早まらなくてよかった。やっぱりこれ、この肉声だよ! すげえかわいい! あ、でもエロゲに出演しちゃだめだぞ?」

「えろげ、とは何でありんしょう?」

「あはは、かわいい女の子はそういう汚れた知識を持たない方がいい」


 言いながら、彼はひょいっと軽く投げ上げ、シャルティアを反転させてふわりと受け止める。

 今度は背中側のアングルを確認しているらしい。

 高く掲げていたシャルティアを、己の胸のあたりまで下ろし、じっと何事か真剣に観察している。


 シャルティアはどきどきしながら、同時に不安も覚える。

 お気に召さないことがあったらどうしよう? ヴァンパイア・ブライドに背中を流させたばかりだけど、もしきちんと完璧にできてなかったら? ほんのすこしでも、見苦しい箇所があったら?


 不安が苛立ちと殺意に代わり、ぞっとする表情を浮かべていることに本人も無自覚で、バードマンはさらに気付く様子がない。


 彼は吸血鬼の首筋から肩、背中にかけてのラインを確認するのに余念がないのだ。


 本当は裸の胸がきちんと貧乳しているかも確かめたくてならないのだが、さすがに出会っていきなり「胸を出せ!」と命じるのはなんとなく気後れして、「まあまずはちょっと控えめにバックからで」というわけである。

 ぶくぶく茶釜がいれば問答無用でアウトを言い渡すであろうことは想像にかたくない。


「……よし」


 彼がそう言うのを聞いて、シャルティアの不穏な顔つきがとろりととろける。


 彼はくいっとシャルティアの身体を反転させる。もはやお人形遊びの域だ。しかし彼は彼女を人形扱いするつもりは毛頭なかった――いまとなっては。


 彼は喉元まで込み上げた台詞を――「ただいま、シャルティア」という、ただそれだけの単純な、けれども心から伝えたいと思った言葉を、飲み下す。


 代わりに、優しい声で言う。


「会えてうれしいよ、シャルティア」


 シャルティアは泣き笑いの顔で、言葉にならない言葉をもてあまして、ただ何度もこくこくと頷いた。


 言いたいことはいくらでもあって、聞いてほしいこともたくさんあって、ありすぎて、どれひとつまともに形にならなくて。


 だけど、ひとつだけ。

 きっと伝えなければと思ったことを、言う。


「おかえりなさいませ、でありんす。ペロロンチーノ様」


 温もりの宿る言葉が、彼の胸を刺し貫く。


 違うんだ、シャルティア。

 俺はお前のペロロンチーノじゃない。


 だけど。

 いまは、まだ。

 ……あと少しだけ。


 もう少しだけ、お前の創造主のふりをしていても、いいかな。


 彼は――ペロロンチーノの姿と、記憶と、想いを持ったまがい物は、ぎゅっとシャルティアを抱き締める。


 壊さぬように、けれどもたしかに互いを感じられるように、

 このときの触れ合いを、この瞬間の奇跡を、心に刻み込む。


 シャンプーの香りと、シャルティアの体臭が甘く混じり合う。

 繊細な、極上の糸を思わせる髪が、頬にこそばゆい。

 肌はどこまでも滑らかで、身体つきは小さく華奢だ。

 信じ切ったように身を任せてくるその重みさえもがいとおしい。


 ああ、そうか。

 そうだったよな――


「あのさ、シャルティア」

「はい! なんでありんしょう?」

「すごいな、胸パッド」

「……ぁ」

「ちなみにほんとのとこ、胸のサイズどのくらい?」

「い……いやああああぁぁああああぁぁぁあ!」










 第六階層守護者アウラ・ベラ・フィオーラの強さは、群の強さだ。彼女自身の戦闘力は一部の領域守護者にも劣るが、配下の軍勢を率いる将として類い稀な才覚をもつ。


 ゆえにこそ、この事態は彼女にとって致命的だった。


「フェン! フェンったら! ああもう、クアドラシルも! 起きなさいよ、ほら!」


 どれだけ揺さぶっても、アイテムやらなんやら使ってみても、『睡眠』のバッドステータスが消えない。


 広大なジャングルの、そこかしこにシモベたちが眠っている。

 地面に横たわっていればいい方で、木の枝に引っかかっているものや、草むらに埋まっているものもいる。


 全員ただ眠っているだけなのはすでに確認した。

 この光景が見た目通りに死屍累々たるものではないことに安堵した直後から、アウラの不快は募っていった。


 敵襲だとしたら、明らかにアウラの弱点を突こうという腹だ。

 シモベたちを封じられれば、アウラはお荷物になる。


 所持したワールドアイテムをマーレに預けようかとも思ったが、もしもアウラが精神支配を受けたなら、マーレに対して有効な人質兼刺客として利用されかねない。


 マーレがどこまで冷酷になれるかが、戦いの鍵を握る。


 なにしろあちこちに味方が転がっている。

 ひとつところに集めるには数が多すぎるし、集めた場所を狙われることも想像される。

 味方を散在させたまま、マーレの広範囲攻撃を存分に振るうならば結果は火を見るより明らかだ。


 しかしそうしたことを考えると、ネックになるのはマーレの『設定』だ。


 ぶくぶく茶釜がかく在れと望んだとおりに振る舞うならば、無慈悲に冷酷冷静に仲間を切り捨てていくのはかなり難しい。


 マーレは十分にためらわなければならないし、困惑しおどおどし、姉に助けを求めねばならない。その上でアウラが苦渋の決断を下し、弟は泣きながら実行する――そのシナリオが一番確実ではあった。


 むろん手間は増えるし、敵につけ込まれる隙も生まれる。

 しかしそのリスクを冒してもなお、マーレの『設定』を守ってやりたいという気持ちがアウラにはある。


 創造主の想いに寄り添うことこそが、シモベとして最大の喜び。

 創造主の意図に逆らうくらいならば、死と破滅を受け入れる方がましだ。


 ……草を踏み分けて走ってくる音がした。

 アウラはぴんと耳を澄ませる。さっと木々の陰に身を潜める。


 やって来たのは弟のマーレだ。

 だがアウラはまだ隠れている。念のために。


 マーレは気にした様子もなく、フェンの傍らで立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回しながら、頼りなげな声で、


「お姉ちゃん、この階層はどこもだめみたいだよ。シモベはみんな寝ちゃってる……。ど、どうしよう」


 アウラは立ち上がり、弟の方に歩み寄る。

 彼はぱっと振り向いて、ホッとしたような顔をする。

 いまにも泣き出しそうで、不安げなところもあるけれど、ひとまず気安め程度に少しはホッとした、というような。


「そっか。じゃあ第六階層のシモベは全滅ってことだね。あたしとマーレを除いてさ」

「うん……」

「アインズ様に連絡つかないし、リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンも起動しない。そういうことだよね?」

「うん……」

「ああああもう! 男の子なんだからしゃきっとしなさいっ! ほら、行くよ」

「ど、どこに?」

「闘技場。あたしがおとりになるから、あんたは観客席にひそんでるよーに。いい?」

「え? え?」

「敵が来たら、まずあたしが話をする。出来るだけ情報を引き出す。相手が攻撃してきたら、話が途中だろうがなんだろうが関係ない。あたしごと魔法で攻撃しなさい。ワールドアイテムだけは、あんたの手に渡るようにするからさ」

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