170話 意外な接点

 突然、陽だまり亭へ駆け込んできたセロンとウェンディは、俺たちに謝罪の言葉を述べると、その後肩で息をしながら呼吸を整えるために一瞬黙る。けれど、そんな一瞬すらももどかしそうに、乱暴に唾を飲み込んでいる。

 こいつら、どんだけ急いでここまで来たんだ。


「お話を、伺いました……っ!」


 鬼気迫る口調のセロン。

 ドーナツの話では、なさそうだ。


「本当に、申し訳ありませんでした!」

「申し訳、ありませんでした」


 もう一度、勢いよく頭を下げるセロン。

 それに合わせて、頭を下げるウェンディ。


 その場にいる者すべてが言葉をなくし、息を飲んで二人に注視している。


「僕たちの結婚式のせいで、英雄様や領主様、四十二区のみなさんに多大なる迷惑をおかけしてしまったようで……っ! 申し訳、ありませんっ」


 ようやく合点がいった。


 セロンはどこかで聞きつけてきたようだ。

 今回、水門を閉じられ、『BU』が俺たちに目をつけた理由が、「セロンとウェンディの結婚式で行った打ち上げ花火」に端を発するということを。

 だが、それは結局こじつけでしかなく、遅かれ早かれ、ヤツらは俺たちに難癖をつけてきていたことだろう。


「気にすんなよ。花火のせいだとは言われたが、あんなもん、ただのこじつけだから」

「そうだよ、二人とも。そもそも、花火で雨が降らなくなるなんてこと、あるわけはないんだから。そうだよね、ヤシロ?」

「あぁ」


 以前聞いた、この街の貴族たちの階級によれば、外周区の貴族は五等級、『BU』の連中は四等級。格下の四十二区が打ち上げ花火や、ケーキや結婚式と、目立ったことをしたのが気に入らないのだ。

 自分たちは格上であるという自尊心が揺らぐなんてことを許容出来ないだけなのだ。


 打ち上げ花火はやり玉に挙げられただけに過ぎない。


 そんな俺なりの推論を言って聞かせてやる。

 エステラもルシアも、特に反論はしてこなかった。こいつらも、同じような考えだということだろう。


「だからまぁ、気にすんな」

「ですが……」


 気にしない。それが出来ないタイプの人間は多い。

 セロンやウェンディは、まさにそんなタイプの人間だ。


「あの、セロンさん。ウェンディさん。お座りになりませんか?」

「……いえ。今は……」

「お気持ちだけ、ありがたく頂戴します。店長さん」


 椅子を勧めるジネットだったが、セロンとウェンディはそれを固辞する。

 そうなれば、ジネットもあまり強引に勧めたりはしない。


 静かに椅子を引き、空いた食器を持って厨房へと歩いていった。

 セロンたちを気遣っての行動かもしれない。

 話しにくい話を大勢で聞くのは可哀想、だとでも思ったのかもしれない。


 ジネットがいなくなり、今ここにいるのは俺とエステラ。ルシアとギルベルタ。そしてセロンとウェンディだけだ。


 エステラが客席にぐるりと一周視線を巡らせて、そこにいた他の客に「気にしないように」と無言のまま訴えかける。

 それを察し、客たちは体の向きを元に戻して、各々に会話を始める。

 もっとも、意識が完全にこちらに向いてしまって会話に集中なんか出来ないんだろうけどな。


「あの、英雄様……っ」


 食堂内に適度な騒音が戻った後、苦しそうな表情でウェンディが口を開く。

 強い決意を込めた瞳で、俺をジッと見つめて。


「以前、セロンの腕を気に入り、セロンをお見初めくださった貴族様のことを覚えていらっしゃいますか?」


 セロンの表情がほんのわずかに歪む。

 ウェンディは一切そちらを見ずに、俺だけを見つめている。


 それは、ウェンディとセロンの交際が公になる以前のこと。

 セロンの父ボジェクが、レンガ工房の存続のためにセロンとの結婚を進めようとしていた貴族がいた。

 セロンの腕に惚れ込んだ貴族が、「ウチの婿に来い」と声をかけてきたと。


 セロンにとっては、穿り返されたくない過去の一つだろう。

 特に、ウェンディには。


 だが、それをウェンディは持ち出した。

 セロンにとっては居心地の悪い話だろうが、それでも、今持ち出したのには理由があるはずだ。


 そう。今持ち出すということは――


「その貴族が、『BU』に加盟している区に住んでいるのか?」


 ――この状況を打破するための一手になる。そう思っているということだろう。


「はい」


 ウェンディは明確に首肯し、そこで初めてセロンと視線を交わす。

 微かに微笑み、自分は気にしていないと、セロンに伝えるように。


 そこからは、セロンが言葉を継いだ。


「光栄にも僕の腕を認めてくださったその貴族様は、二十九区にお住まいなのです」

「二十九区に?」


 四十二区と隣り合う区。

 とはいえ、かなりの高低差があるから交流などは皆無。――だと、思っていたのだが。

 どうも、二十九区は四十二区のことをよく知っているようだ。


 もしかしたら、隣接する最貧国には負けたくないと、執拗なまでに監視されているのかもしれないな。

 明らかな格下のことをいちいち調べて、負けていないことに安堵する。そういう人間は少なからず存在する。


「その方に連絡を取り、面会していただく許可を取り付けました」

「え? 許可って……いつの間に?」


 エステラが腰を浮かせ、セロンへ問う。

 四十二区が置かれた面倒くさい状況を打破する糸口に、思わず体が動いたのだろう。


「昨日、直接お会いしに行きました。……ウェンディと、一緒に」


 かつて、自分を婿にと言っていた貴族に、その縁談を断った身で会いに行くのは相当気が引けただろうに。しかもウェンディを連れて。

 向こうもよく会ってくれたもんだな。


 あぁ確か、結婚の報告をしたところ「お幸せにね」と素直に祝福してくれたんだっけなぁ。そんな心の広い貴族もいるんだなぁ。

 貴族なんて、他人を見下し、嘲笑し、悪しざまに罵ることしか出来ない狭量なヤツばかりだと思っていたのだが。


「お話をしたところ、こちらの都合のいい日にいつでも会ってくださると、そう約束してくださいました」

「まさか、そんなに快く承諾してくださるとは思っていませんでしたので……英雄様や領主様になんのご相談もなく勝手な行動を取ってしまい、申し訳ありませんでした」


 セロンの言葉をウェンディが継ぎ、二人揃って頭を下げる。


 こいつら、物事をなんでもかんでも重く考え過ぎなんだよなぁ。

 アポ取ってきてくれたならもっと誇ってもいいのに。俺たちにとってプラスになると思って行動してくれたわけだし。


「折角セロンとウェンディが話をつけてくれたんだ。会いに行こうじゃないか、ヤシロ」

「そうだな。……ただ、会いに行くとまた豆を押しつけられるんだろうけどな」

「そうなれば、また陽だまり亭で料理すればいいじゃないか」


 ハニーローストピーナッツをカリッと齧り、エステラがウィンクを飛ばしてくる。

 食道楽め。

 まぁ、関税はエステラが出してくれるし……丸儲けだと思えば幾分心も軽くなるか。


「よし。私も同席してやろう。二十九区の貴族に会うのであれば、その方が有利になることもあるだろう」


 疑似触角をぴよんぴよん揺らして、口の端にピーナッツバターをつけたルシアが言う。

 ……威厳、欠片もねぇぞ。


 しかし、ルシアの言う通り、『格上の貴族』に会うのであれば、エステラ一人よりもルシアを連れて行った方がいいだろう。貴族が二人もいれば、『格上』相手にも多少は張り合えるかもしれない。


「……え? まさか……、ル、ルシア様ですか!?」

「これはっ、き、気付きませんで! ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした!」


 俺たちに話をするということで頭がいっぱいだったのだろう。

 俺たちの奥に座るルシアに、今更気が付いたセロンとウェンディが立ったまま頭を床にぶつけるんじゃないかという勢いで頭を下げる。


「よい。そうかしこまるな。私とウェンたんの仲ではないか」

「二人とも、『他所の領主様』にはしっかり礼を尽くすように」

「えぇい、割って入ってくるなカタクチイワシッ!」


 お前とウェンディの間に『仲』なんてもんがあると、いろいろ問題が起きそうなんでな。ぶち壊させてもらう。


「え……ルシア様って……」

「まさか、三十五区の……!?」

「えっ!? ルシア様がいるの!?」


 セロンたちの言葉を聞いて、食堂内がにわかに騒がしくなる。

 ……っていうか、本気で気付いてなかったんだな、こいつら。

 触角つけてるだけなのに。ギルベルタもついているのに。……のんきな領民どもだよ、まったく。


「うわぁ! 領主様の前で、俺たちはなんて自由な振る舞いを!?」

「領主様の前なのに、こんな小汚い格好しちまって……恥ずかしい!」

「領主様がいるのに、騒がしくしていたなんて……恐れ多い!」

「あ~……、うん。君たち。ボクも一応領主なんだけどね」


「領主の前で」と騒ぐ領民に、さすがのエステラもちょっと物申したくなったらしい。

 黙っとけよ。お前が望んで選んだ道なんだから。

 お前は領主じゃなくて、街のナインちゃんとしての知名度の方が高いんだから。


「よっ! 四十二区のミスぺったん娘!」

「顔にピーナツバターを塗りたくるよ!?」


 なんだよ、その脅し?

 そのあとぺろぺろ舐めとってくれるなら大歓迎だが?


「よい。皆の者よ、普段通りに振る舞ってくれ。その方が私も嬉しい」

「だってよ」

「な~んだ、普段通りでいいのか」

「恐縮して損したなぁ」

「マグダた~ん! オイラにドーナツのおかわりをお願いするッス~!」

「ここの領民はちょっと素直過ぎるんじゃないか、カタクチイワシッ!」

「いや、俺に怒るなよ……」


 それも、お前が望んだことだろうが。

 普段通り接してほしいけれど、どこかでちょっと敬われていたいとか、面倒くさい連中だよ、まったく。

 残念ながら、四十二区の連中にそんな微妙な匙加減とか、無理だからな?

 フレンドリーなら、とことんフレンドリーになる連中なのだ。領主の教育の賜物だな。


「心の広い、領主様やー!」

「さすが、大物の風格やー!」

「はうっ! ハム摩呂たんの弟たんたちに褒められたっ!? これは、結婚秒読みか!?」

「おい、ハム摩呂。いたら、すぐ逃げろー!」


 絶対ルシアにはくれてやるものか。

 青少年の健全な育成のためにも!


「はむまろ?」

「ぬはぁぁあ! ハム摩呂たん、キタァーーーー!」


 くっそ! ハム摩呂いたのか!?

 そしてギルベルタ! お前んとこの領主の変質性がおびただしく溢れ出してるぞ! 止めろ止めろ!


「心の広い、領主様やー!」

「ごふっ! …………し、死ぬ…………愛おし過ぎて……死ぬ」

「では介錯する、私は」

「まてまて! ここでやるな、他所でやれ!」

「他所でもやっちゃダメなんだよ、ヤシロ!?」


 エステラの見当違いなツッコミが入る。

 食堂さえ汚れなければ、問題などないだろうに。


「さすが、隠れぺったん娘やー!」

「褒められたぁー!」

「褒めてねぇだろ、どう考えても」


 そしてハム摩呂……隠れてねぇから、ルシアのぺったん娘。


「あ、あの……英雄様……」


 話の腰を見事に粉砕されたセロンが、ルシアの『素』に戸惑い……いや、ドン引きしている。


「あぁ、すまん。話を戻してくれ」

「は、はい」


 ルシアの素性がバレたが、陽だまり亭内はいつも通りの和やかな雰囲気のままだった。

 ならばよしとする。

 ……ルシアの『素』の『性癖』という意味での『素性』がバレた点は…………ま、俺の知ったこっちゃないな。


「それでですね、先方様は、いつでもいいとおっしゃっていますので、英雄様たちの都合のいい日に出向いていただければと。ご足労おかけすることになって申し訳ないのですが」

「いや、アポイントを取ってくれただけで助かったよ」

「そう……ですか」


 幾分か、セロンとウェンディの表情が和らぐ。

 こじつけだとしても、自分たちの結婚式に端を発したトラブルだということで、解決に向けて微力ながらも力になりたい――そんなことを考えていたのだろう。


「会いに行くよ。この後、すぐにでも。大丈夫だよな、エステラ?」

「もちろんだよ」


 幾分、力の戻った瞳でエステラが拳を握る。

 こいつも、糸口を見出しているのだろう、その貴族とやらに。


「二十九区に住む貴族なら、『BU』のことに詳しいかもしれない。ボクたちがまだ知らないことを教えてもらえるチャンスだね」


 余るほど大量に生産される豆のことや、あの奇妙過ぎる多数決の採り方。

『BU』という組織は謎が多過ぎる。それについて話を聞けるかもしれない。

 わざわざ会ってくれるということは、少なからず敵対心はないと見ていいだろう。友好的かどうかは、まだ分からんけどな。


「ルシアも、問題ないか?」

「すまん。この後ハム摩呂たんとの逢瀬があるので、すぐには無理だ」

「いいから来いよ」


 出禁にするぞ、コノヤロウ。

 あと、ハム摩呂は絶対貸し出さねぇから。


「それで、セロンさん」


 と、セロンの後ろからナタリアが現れる。

 ナタリアは『今日の午後頃にやって来るであろう』ルシアたちの出迎えのための準備をしていたらしいのだが……残念。ルシアたち、早朝からここにいるんだ。


「ならさっさと呼びにこいや、テメェそれでも私の主かよ」みたいな鋭い視線を一瞬だけエステラに向け、ナタリアはセロンに向き直る。

 ……エステラ。お前、「あ、そういえばナタリアに言うの忘れてた」みたいな顔してんぞ。言いに行ってやれよ。夢中でドーナツ食ってないでさぁ。


「その貴族という方に関して、質問があるのですが……その前にドーナツをいただきたいですね、私『も』!」

「マグダー! 大至急ナタリアにドーナツを持ってきてあげて!」


 エステラが本気フォローに入った。

 相当怒ってるらしいなナタリアは。

 そりゃ、準備してたことが全部無駄になったばかりか、その準備をしている間にエステラだけ美味いもん食ってたんだもんな。……今日はせいぜいご機嫌をとっておけよ、エステラ。


「お代は、エステラ様個人のお小遣いから出していただきますので!」

「えっ!? 経費で落ちないの!?」

「落ちません!」


 経費とかあんの……それとも、これも俺に分かりやすいように『強制翻訳魔法』が翻訳してくれてるのか?


「……へい、お待ち」


 寿司屋の大将もかくやという言葉と共に、ふっくらと美味そうなドーナツを運んでくるマグダ。

 一致してねぇぞ、言葉と商品が。


 運ばれてきたドーナッツを一口齧り、ナタリアの口角がキュッと持ち上がる。


「美味しいですね。好きな味です」


 素直な感想を述べる。

 ナタリアは、何気にこういう女の子受けする食べ物が好きだったりするのだ。

 味もさることながら、そういうオシャレなスイーツを食べているという雰囲気を気に入っているように感じる。


「ピーナッツバターを塗ると、さらに美味しくなるよ」


 ナタリアを放置していたことを反省してか、エステラがナタリアの前にピーナッツバターを差し出す。

 主従が逆転してんぞ、お前ら。


「エステラ様……」

「あぁ、いいよ。礼なんて。一応反省してるから、お詫びの印に、ね?」

「ドーナツはプレーンで食べてこそ、その味を堪能出来るのです。このほのかに甘いドーナツにあからさまに甘いものを塗って食べるなど邪道です。ドーナツの神髄を理解していないと言わざるを得ない愚行ですよ」


 何を我が物顔で語ってんだよ、ドーナツ初心者。お前、今初めて食ったところだろう。まだ一口じゃねぇか。


「とはいえ、試さずに拒否するのもまた愚かなこと……使用させていただきましょう」


 バターナイフを器用に使い、ドーナツにたっぷりとピーナッツバターを塗りつけるナタリア。

 生地に練り込んだりコーティングしたりというのは、何度か試行錯誤をしなければいけないため、今日はプレーンなドーナツに各自で塗ってもらうスタイルを採用している。

 ゆくゆくは、表面にチョコやピーナッツバター、ハチミツなんかをコーティングして提供するつもりだがな。


「どうだい、ナタリア?」


 黙々とドーナツを咀嚼するナタリア。

 エステラの問いに、すぐには答えず、視線を向けてしばし無言で見つめる。

 そして、ゆっくりと飲み込み、口の中に残った後味を十分に堪能した後で、ようやく口を開く。


「ピーナッツバターこそが、ドーナツの本懐」


 言ってることが丸っきり変わってんじゃねぇか!

 まぁ、美味いってことだと解釈しておこう。


 ドーナツ一つをあっという間に平らげ、指についた油分をぺろりと舐めとるナタリア。

 ……くっ、そんな仕草が妙に色っぽいとか…………ナタリアのくせにっ!


「ナタリア。指を舐めるのははしたないよ」

「そうですか? ……では、ヤシロ様。『あ~ん』」

「はしたなさがグレードアップしたよ!?」


 エステラが自分のハンカチでナタリアの指を強引に拭く。

 だから、主従が逆転してるって、お前ら。


「それで、その、貴族という方なのですが」


 ドーナツを食べて満足したのか、ナタリアが改めてセロンへと向き直る。

 律儀に待っててくれたセロンに感謝しろよ、お前ら。俺なら途中で帰ってるからな。


「お名前を伺ってもよろしいですか?」

「はい」


 一度、ウェンディと視線を交わし、そしてセロンはゆっくりとその名を口にする。


「その方のお名前は、マーゥル・エーリン様です」


 マーゥル・エーリン?

 …………はて、どこかで聞いたことがあるような、ないような……

 いや、エステラたち以外に貴族の知り合いなんかいないはずだし…………気のせいか?


「エーリン様。で、間違いありませんね?」

「は、はい」


 ナタリアの鋭い声に、セロンは一瞬言葉を詰まらせる。


「エーリン……って、もしかして」


 俺の隣で、エステラが声を漏らす。

 こいつも聞き覚えがあるのか、そのエーリンってのに。


「はい。おそらく間違いありません」

「それはまた……なんというか…………凄いね」


 凄い?

 そんな大物貴族なのだろうか。

 ……いや、どうもそういう意味ではなさそうだ。エステラのあの表情は……


「『BU』絡みの人間なのか?」


 エステラの表情から察するに、『凄い』偶然だと、言いたいのだろう。

 俺たちが、今会うべき人物。それがきっと、マーゥル・エーリンという貴族なのだ。


「そうだね。『BU』絡みというより、もっと直接的に関係のある人だよ」

「ゲラーシー・エーリン様のお姉様のお名前が、確かマーゥル様であったと記憶しています」

「ほぅ……ゲラーシーの」

「そう記憶している、私も。間違いない思う」


 エステラの言葉を補足するように発せられたナタリアの言葉。

 それに反応を示したのはルシアとギルベルタだった。


 分かってないのは俺だけだ。

 といっても、大方の予想はつくけどな。こいつらの顔を見れば……だが、確証が欲しい。はっきりと言葉にしてもらおうじゃないか。


「ゲラーシーってのは、どこのどいつだ?」


 おそらく、面識のある相手であろうそいつのことを、少しの悪意を込めて尋ねる。

 そんな俺の考えを察したのか、エステラが軽く肩を揺すった。


「ふふ……お察しの通りの人物だよ。でも、そうだね。あえて言葉にするのも悪くないだろう」


 などと、不必要に長ったらしい前置きをした後、エステラははっきりと言った。


「ゲラーシー・エーリンは、二十九区の領主の名だよ」


 ホント。凄い偶然だ。

 敵の大将の身内に会えるなんてな。


「それじゃ、折角セロンたちが作ってくれた機会だ。会いに行くか」

「そうだね。この機会を活用させてもらおう」


 俺とエステラは揃って立ち上がる。

 さて、出かける準備を始めるか。


「僕たちも、ご一緒させていただけますか?」


 セロンとウェンディが神妙な面持ちで申し出る。

 こいつらを連れて行った方が話はスムーズに進むかもしれない。


「大歓迎だぞ、ウェンたん!」


 ……セロンだけにしよっかなぁ…………

 はしゃぐルシアを見て、一気に気分が重くなる。


 と、そこへ。


「出かけられるのでしたら、これを持って行ってください」


 ジネットが戻ってきて、小さな包みを渡してきた。


「馬車の中で召し上がってください。セロンさんとウェンディさんも」


 それの袋にはドーナツが入っていた。俺たちは昼を食べちまったが、きっとセロンたちは駆けずり回っていて食っていないだろう。そんな気遣いからの手土産なのだろう。

 ドーナツも、二人が食べる分とプラスアルファくらいの、適度な量だった。


「悪いな」

「とんでもないです」


 にっこりと微笑むジネット。

 そそっと身を寄せ、俺にだけ聞こえるような声で呟く。


「早く、帰ってきてくださいね」


 そうして、体を離すと今度は全員に向かって朗らかな声で言った。


「みなさん、お気を付けて」


 俺にだけ「早く帰れ」とか……なんだよそれ。ちょっとドキドキしちゃうだろうが。新婚のサラリーマンじゃあるまいし……ったく。


「行くのやめよっかなぁ」

「いや、行くよ!? ほら、早く!」


 エステラに腕を引っ張られて外へと連行される。

 ちらりとジネットを窺うと、俺たちのやりとりを見てくすくすと笑っていた。

 そんな笑顔にホッとする。



 こうして、思いがけず強力なコネを手にした俺たちは再び二十九区へと向かうことになった。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る