追想編15 ジネット

 扉にかけられた札を『Close』にして、本日の営業は終了です。


「お疲れ様です」


 そっとドアを撫でてみます。

 外気に触れていたドアは少し冷たく、けれどしっかりとした安心感を与えてくれます。



 わたしたちの場所。陽だまり亭。



 お祖父さんの代からずっとここに建ち、ヤシロさんが来てからリフォームがされ、今では前の道が大きな街道に変わりました。

 小さな変化も大きな変化もたくさんあって……でも、今も昔も変わらずここにある。


 陽だまり亭は、いつだってここで、この場所で、ずっと待っています。訪れる人を。そして……帰ってくる人を。



 今日は、いつもより少しお客さんが多く、後片付けもたくさんで、終了時刻がいつもより大幅に遅れてしまいました。

 ロレッタさんには先に帰っていただき、ついさっきまで片付けの手伝いをしてくださっていたマグダさんも自室へと戻られて……きっともうお休みになられた頃でしょう。


 一度、背後を振り返ります。

 大通りへ向かう道は明るく、以前とは比べ物にならないくらい見通しが良くなりました。

 一人で外にいても、もう怖くはありません。


 それもこれも、みんな……


「…………」


 少しだけ、胸がチクッと痛みます。

 けれど、これは言葉にしてはいけない痛み。


 誰よりも優しいあの人に、心配などかけたくありませんから。


「やっぱり……もう少しだけ」


 呟いて、わたしは『Close』にした札をひっくり返し、再度『Open』にします。

 今日は特別に、もう少しだけ営業しましょう。

 もう少しだけ。


 食堂へと入り、ドアを閉めます。

 さて、どうしましょうか。


 片付けはあらかた終わってしまいましたし、仕込みは明日の朝やることです。

 お料理を作ろうにも、食べてくれる人がいませんし……


 あぁ、そうです。


「クズ野菜の下準備なら、今からでも出来るかもしれませんね」


 今ではめっきり注文されることがなくなりましたが、クズ野菜の炒め物は今でも陽だまり亭のメニューにその名を連ねています。

 クズ野菜をカットしておくくらいなら、今やっても問題ないでしょう。


 ウェンディさんの結婚前に、みなさんで行った料理教室。

 あの時、クズ野菜の炒め物を久しぶりに作って、なんだか楽しいなって思ったんです。

 結構手間のかかる料理なのですが、どうやらわたしは、その手間が好きなようです。


 また、誰かが注文してくれたりはしないでしょうか。


 そんな、期待とも希望とも取れない思いを胸に、厨房へと入り、アッスントさんに破格のお値段で譲っていただいたクズ野菜を広げます。

 さて、何からかかりましょうか?

 手強いニンジンさんのヘタですか?

 それとも、最初は手を慣らすために葉野菜を刻みましょうか……


 ふふ。やっぱり、お料理は楽しいです。


 それからわたしは、しばしの間無心でお料理を楽しみました。



 どれくらい時間が経ったでしょうか。

 不意に、ドアの開く音が聞こえました。

 以前は、風でドアが揺れたり、音を鳴らしたり、軋みを上げたりしていたのですが、リフォーム後はそのようなことはなく、ドアを鳴らすのはお客様くらいになっていました。


 そういえば、先ほど店の前の札を「Open」にしたんでした。

 ということは、お客様でしょうか。


 わたしは慌てて手を拭い、フロアへと駆けていきました。


「……あっ」


 そこに立っていたのは、ヤシロさんでした。


「よぅ。まだやってるのか?」


 そう尋ねてくる様は……なんだか、初めて会った日によく似ていて……

 胸が、熱くなってきました。


「はい。まだ営業中です。お食事になさいますか?」

「そうだな……」


 と、ここでヤシロさんがにやりと口角を持ち上げました。

 あの顔は、イタズラ好きな子供のような顔。

 楽しい冗談を始めようという顔です。


「こんな時間に、悪いな」


 わたしの記憶にあるセリフとまったく同じ。

 あの日の言葉を、ヤシロさんが口にします。

 なので、わたしも……


「いいえ。材料も凄く余っていますし、全然大丈夫です」


 あの日と同じ言葉を返します。

 するとヤシロさんが嬉しそうな顔をするので、わたしもつられて、笑顔になりました。


「それでは、さっそく準備をいたしますね。お好きなお席でお待ちください」


 そう言って、わたしは厨房に入ります。

 厨房に入って、もう見られていないなと思った途端、歩く足は軽く弾み始めます。

 スキップをして作業台の前まで行きます。



 嬉しい……



 ヤシロさんの顔を見て、最初に感じたのは、そんな感情でした。

 今日一日、お仕事をしている間もずっと、本当は不安で……もし、出て行ったきりわたしのことも陽だまり亭のことも忘れてしまって、もう二度と帰ってこないのではないか……そんなことを、ほんの少しだけ考えていたりしましたから。

 けれど、それは杞憂に終わり……ヤシロさんは、ちゃんと帰ってきてくださいました。


 それが、なんとも言えず……嬉しいんです。


 お料理も、食べてくれる人がいると思うと凄く楽しいです。

 どんなに手間のかかるものだって、どんなに難しいものだって、食べてくれる人がいると思えば途端に楽しくなります。


 今にも歌い出しそうな気分になり、わたしはクズ野菜に熱を加えていきます。

 あ、でも。歌は歌いません。以前ヤシロさんに「独特なメロディだな」と、笑われたことがありますので。……あれは、とても恥ずかしかったので、歌はもう……


 硬く、火の通りにくいものから順に熱していきます。

 美味しいと言ってくださるでしょうか。不安でもあり、また、楽しみでもあり…………あっ。


 大切なことを忘れていました。

 フライパンを火から下ろし、わたしは慌ててフロアへと駆け戻ります。


 フロアに出ると、ヤシロさんはいつもの席に座っていました。

 こちらを向いて、にやにやと、ほんのちょっとだけ意地悪な笑みを浮かべています。

 ……これは、絶対にからかわれますね。


「あの、ヤシロさん」

「ん? なんだ?」

「その…………」


 どうせなら。

 先ほどの冗談の続きを……


「ご注文は、お決まりですか?」

「いや、お前……もう何か作り始めてるよな?」

「はい、うっかり。それで、もうすぐ完成というところで『あ、注文聞いてないや!』ということに気が付きまして」


 あの時と同じセリフを思い出し、汗をかきながら言います。

 あぁ、でも、ヤシロさんの笑顔を窺うに、わざとではなく、本当に聞き忘れたのだということはお見通しのようです。

「じゃあ、その完成間近のものでいい。それにしてくれ」

「はい。あの……」


 ヤシロさんは、失敗を怒りません。

 どんな言葉を口にしようとも、決して本心から他人を責めるようなことを言いません。


「優しいですね。やっぱり」


 初めて会ったあの日に感じた思いは、間違っていませんでした。


 厨房へ戻り、もう一度フロアへと視線を向けると、ヤシロさんが「早く行け」とばかりに手を振りました。


 一つ、変わりましたね。

 最初、ヤシロさんはあのテーブルで、こちらに背を向けるように座っていたんですが、今はこちらを向いて座るようになりました。

 わたしが厨房へ出入りする際、よく視線が合います。

 それが、わたしは堪らなく嬉しいんです。


「……みゅぅ」


 そんなことを思うと、少し恥ずかしくなりました。

 それではまるで、わたしはいつだってヤシロさんを見つめているということになって……それはさすがにちょっと、恥ずかしいような……気がします。


 クズ野菜の炒め物を作り、盛り付けて、ご飯は少し大盛りで、ヤシロさんのもとへと運びます。


「お待たせしました」

「お前は食わないのか?」


 向かいの席を指さしながら、ヤシロさんが言います。

 あの指は、座ってもいいという許可でしょうか。わたしが、人が食べている姿を見るのが好きなことを知って、そうしてくれているのでしょう。

 ではお言葉に甘えます。


「失礼しますね」

「ん……悪いな」

「悪い?」

「……一人で食うのは、ちょっと、その……寂しくてな」


 寂しいと言って、少し照れた素振りを見せるヤシロさん。

 どうやら、わたしは勘違いしたようですね。

 わたしのために言ってくださったことではなかったようです。

 少し、自意識が過剰だったみたいでお恥ずかしいです。


 あ、でも。

 ヤシロさんなら、『そういうことにして』わたしたちのために何かをしてくださることが多々ありましたので……一概には判断出来かねますね。


「それで、メシは?」

「いえ、わたしは」


 食べてはいませんが、お腹が空いていません。

 お料理を作っていると食べた気になってしまいます。

 それに……ほんの少しだけ、ですが…………胸が苦しくて。


 ダメですね。

 ヤシロさんの顔を見ても、まだ胸がきゅっと詰まっています。


 ちゃんと笑顔を作らなければ、またヤシロさんに迷惑をかけてしまいます。


 ちゃんと笑って…………と、目の前にお箸が差し出されました。


「……へ?」

「少しくらい食っとけ」


 そう言って、ヤシロさんがご自分の野菜炒めをわたしに差し出してくれます。

 一口分――葉野菜と根菜がバランスよく混在した、美味しそうな一口分を。


 これは、ご厚意に甘えておくべきでしょう。

 ……少し、照れてしまいますけれど。


「あ、……あ~ん」


 そう言って口を開けると、ヤシロさんのお箸が口の中へと野菜炒めを運んでくれました。

 とても美味しいです。

 でも……やっぱり、ちょっと恥ずかしいです。


 だって、わたしが口を付けたあのお箸はこの後ヤシロさんの口に…………これは、絶対に口外出来ませんけれど。

 そんなことを口にしたら『そういうことばかり考えている』と、思われてしまって……それは、とても恥ずかしいです、から。


 そんなことを考えていたからか、それとも、ヤシロさんがあまりに美味しそうに食べてくださるからか……わたしの顔はぽーっと熱を帯び、赤く染まってしまったのでした。


 ……少し、熱いですね。


「あの、ヤシロさん……お食事が済んだらで、構わないのですが」

「ん?」

「少し、お散歩に付き合っていただけませんか?」


 夜の散歩。

 それは以前、お祭りの後にもしたことがあり、美しい光の道をヤシロさんと二人で歩くのは本当に楽しくて……終わってしまうのを惜しいと感じたほどでした。

 あの時が初めてかもしれませんね。陽だまり亭に、あと少しだけ……戻りたくないなと、感じたのは。


「散歩か。いいな」


 お箸を揃えて置き、ヤシロさんは頷いてくれました。


「行くか、久しぶりに」

「はい」


 お行儀の悪いことかもしれませんが……洗い物は後回しにして、わたしとヤシロさんは夜のお散歩に出かけることにしました。





 夜の風は少し冷たくて、微かに肩をすくめてしまいます。


「寒いか?」

「いえ。……あ、やっぱり、寒いですね」


 ここで「平気」だと言えば、きっとヤシロさんはずっとそのことを気にかけてくださいます。

 負担にはならないように、素直に上着を持ってきましょう。


「少し待っていてくださいね」


 そう言って足早に上着を取りに向かいます。


 マグダさんを起こさないように、そっと階段を上り自室へと入る。

 壁にかけた上着を手に取ると……壁際の棚が目に入りました。

 この棚には、わたしの宝物が並べてあります。


 ヤシロさんにいただいた、『2.5頭身ふぃぎゅあ』という、可愛らしいお人形さん。

 教会の子供たちが描いてくれた、わたしの似顔絵。

 教会を出る時にシスターからいただいた、精霊教会の紋章入りのペンダント。

 お祖父さんが使っていた古い、ボロボロになった包丁。


「あ……っ」


 そして、初めてもらった『誕生日プレゼント』――ソレイユの髪飾り。

 傷を付けるのが怖くて、今まで一度もつけて出かけたことがないんですが……


「今なら……」


 ヤシロさんも一緒ですし。人混みに揉まれて落としてしまうこともないでしょうし……



 それに、今日は特別な日でも、ありますし。



 慎重な手つきで、わたしは髪飾りを自分の髪へと留めます。

 鏡を見て、髪飾りが一番綺麗に見える角度で…………これくらいでしょうか?


「この髪飾りを見たら……ヤシロさんは、わたしを忘れないでいてくださいますでしょうか」


 ヤシロさんに無理はさせたくありません。

 もし、忘れてしまうのであれば……その瞬間まで、せめて普段通りでそばにいたい。


 けど、出来ることなら……


「……精霊神様。どうか…………」


 とても、利己的なお願いではあるのですが……


「……これからもずっと…………」


 ヤシロさんと、一緒にいられますように…………



 それから、数分だけお祈りをして、急いでヤシロさんのもとへと戻りました。


「お待たせして申し訳ありませんでした」


 随分と待たせてしまったことを詫び、頭を下げます。

 すると、ヤシロさんが「あれ?」という表情を見せました。


 あ、髪飾りに気が付いてくれたのでしょうか……


「なぁ、……ちょっと、いいか?」

「へ? あ、はい」


 真剣な表情をして、ヤシロさんがわたしの顔を覗き込んできます。


 か、顔が近くて……緊張します。

 それに、こんなにキリッとした表情は…………その……素敵で…………あの……っ。


「うん。やっぱ違うな」


 言うなり、ヤシロさんはわたしの頭に触れました。

 髪飾りを外し、わたしの前髪を手で梳き、後頭部をぺたぺたと撫でて……


 そうされている間にも、わたしの心拍数はどんどんと上昇していくのですが……ヤシロさんがとても真剣な表情をなさっているので口を挟めません……


「うん。これでよし」


 体を引いて、わたしを見つめ、満足げに頷くヤシロさん。

 しばらくわたしを見つめた後で、こんなことをおっしゃいました。


「さっきのじゃ、お前の顔が隠れちまってたからな。こっちの方がいい」


 ソレイユの髪飾りを少し後方へずらし、わたしの顔がよく見えるようにと、整えてくださったようです。


「そ、そうですか? わたしは、ソレイユの髪飾りがとても綺麗ですので、そちらを見ていただいた方がいいのではと……」

「何言ってんだよ。髪飾りはあくまで引き立て役だ。メインに持ってくるもんじゃない」


 そうは言っても、こんなに綺麗な髪飾りですので、その……浅ましいですけれど、自慢とか、したいですし……


「それに、髪飾りよりお前の方が綺麗だしな」

「へ……っ?」

「あっ!」


 慌てた様子で、ヤシロさんが背中を向けました。


 ドッドッドッドッドッドッドッドッ…………と、わたしの胸を、心臓が打ちます。打ちつけます。

 い、今のは、その……失言、なのでしょうか?

 言い間違え?

 気の迷い…………本、音?


 ドドドドドドドド…………いまだかつてないほど、わたしの全身に血液が流れていきます。激流です。大雨の後の川のように轟々と音を鳴らしているようです。


 ……鼻血が出たら、みっともないでしょうか? 気を付けます。


「ア、アクセサリーは、じょ、女性を綺麗に見せるための物だからな! アクセサリーをつければ綺麗に見えるのは当然だ!」

「そ、そうですよねっ。はい! 分かります!」


 心臓が痛くて、おかしな声が出てしまいます。

 それに思考がまとまらなくて、思いつきのまま……いえ、思ってもいないことまでもが勝手に口から零れていきます。


「わ、わたしでも、素晴らしいアクセサリーをつければ、多少は綺麗になれるんですね。初めて知りました!」


 空気が変わったと感じたのは、そんなことを発言した直後でした。


 ヤシロさんがこちらを向き、とても落ち着いた……少しばかり不機嫌そうな目でわたしを見ます。


「アクセサリーが女性を綺麗にするってのは本当だけどな」

「……はい」


 怒られているような息苦しさと、考えなしに発言した後悔が胸を締めつけます。

 もしかしたらわたしは、ヤシロさんに不愉快な思いを……


「お前が綺麗だってのも本当だ」

「…………」


 ………………

 ………………

 ………………


「………………へ?」

「さ、さぁ、散歩に行こうか!」

「あ……は、はい!」


 先に歩き出してしまったヤシロさんを追いかけ、隣に並び、歩調を合わせて……少しだけ後ろから付いていきます。


 ドッドッドッドッドッドッドッドッド……

 ドッドッドッドッドッドッドッドッド……


 ヤシロさん…………わたし、倒れそうです。

 こ、こういうのは……わたし、あまり経験がなくて、どう反応していいのか、困ってしまいます。


 素直な気持ちを言えば、ただただ、嬉しいです。

 ヤシロさんに綺麗だなんて言葉を言ってもらえるなんて……一生に一度でも、そんな言葉を、この耳で聞くことが出来るなんて。

 とても、嬉しいです。


 でも…………とっても、恥ずかしいです。


 そっと、ヤシロさんの後頭部を見上げると、……ほのかに、耳の先が赤く染まっていました。

 くす……っ。

 ヤシロさん…………かわいいです。



 わたしたちは、静かな街道を、光に照らされながら、ゆっくりと歩きました。

 風の音が清らかで、夜の香りは澄んでいて。

 お散歩するにはとても気持ちのいい気候です。


「ヤシロさん」

「……ん?」

「…………わたし、今、楽しいです」

「そうか」

「はい。そうです」

「うん……」


 そんな、何気ない会話を交わして、同じ歩幅で歩く。

 わたしはどん臭く、足も遅いので、いつもヤシロさんが合わせてくれています。

 申し訳ないとは思うのですが、その反面……なんだか大切にされていると感じられて、嬉しいんです。

 浅ましいでしょうか。このようなことで、満たされた気持ちになることは。


「どうする? 門の方へ行くか?」


 街道を歩きながら、ヤシロさんが問いかけてきました。

 このまま街道を歩くのも楽しいとは思うのですが……


「あの……湿地帯の方へ、行っても構いませんか?」


 いつもは行かない小道を指さして、わたしはおねだりをしました。

 どうしても、今、ヤシロさんと二人で湿地帯を見たかったんです。


「暗いから、気を付けろよ」

「はい」


 街道を逸れてしばらく進むと、畦道になりました。

 昔は、どこもこのくらいの凹凸があり、砂利を踏みしめて歩くのが当たり前だったのに、今では『足元を気を付けろ』と言ってもらうような道になったんですね。


 ヤシロさんが来てから、本当に何もかもが変わりました。

 それも、いい方にです。


 わたしは、心底ヤシロさんを誇りに思います。

 そして、そんな偉業を数々成し遂げてもなお、謙虚であり続けるヤシロさんを尊敬します。


 わたしの生涯において、最も尊敬出来ると思っていたシスターとお祖父さん。

 もしかしたら、ヤシロさんはその二人をも超えるかもしれません。もう、超えているのかもしれません。


 今、わたしがこうして生きていられるのは、シスターとお祖父さんのおかげです。

 でも……


 これから先の未来を、わたしが生きていくには……ヤシロさんが必要なんです。

 いてくれないと、困るんです。


 ヤシロさんは、わたしにとって、特別な方――ですから。


 少し斜め後ろから、広い背中を見つめ私は呟きます。


「……ヤシロさん」


 出来ることなら……


「ずっと、わたしの一番そばにいてください……」


 風に紛れて消えたその声は、きっとヤシロさんには届いていないでしょう。

 それでいいんです。

 今のはただの、自己満足ですから。



 それから、川を超えてさらに進み、道がさらにでこぼこになってきたところで、わたしたちは立ち止まりました。


「相変わらず辛気臭い場所だな」


 湿地帯に入る手前。

 生い茂る原生林を眺めて、ヤシロさんはそんな言葉を口にしました。


 確かに、じめじめとしていて辛気臭い。

 夜中に見ると恐怖すら覚えるそんな場所です。


 けれど……


「ここが、わたしのはじまりの地なんです」


 わたしは、幼い頃に湿地帯へと捨てられていたそうです。

 おそらく三十区の崖の上から投げ捨てられたのだろうと、シスターはおっしゃっていました。


 そこへ捨てれば、いらない子はいなくなる……


「……ぇ」


 不意に、ヤシロさんに手を掴まれました。

 力強く、多少強引に、右手をギュッとされました。


 ……あぁ。きっと、わたしの顔に憂いがあらわれたのでしょうね。


 また、お気を遣わせてしまいました。


「……大丈夫です。わたし、今……とっても幸せですから」


 出自を語れば、確かにわたしは不幸な身の上なのかもしれません。

 ですが……「そのおかげで」というのは変ですけれど……今のわたしは素敵な人たちに囲まれて、とても幸せに暮らしています。

 精霊神様に、シスターやお祖父さん、これまでわたしに関わってくださった皆様に……エステラさんたちお友達に……そして、ヤシロさんに……

 いくら感謝しても足りないくらいに、本当に多くの幸せをいただいて……


「わたしは、幸せ者です」


 わたしの手を握るヤシロさんの手を、強く握り返します。

 このまま、二度と手放したりはしないように。

 この手の中から、するりと逃げていってしまわないように。


「知っていますか? この湿地帯には、精霊神様の慈悲の魔法がかけられているんですよ?」

「え、そうなのか?」

「はい」


 険しい表情が晴れ、いつもの明るいヤシロさんの表情が戻ってきました。


「ここと三十区との間の崖は最長で37メートルあるそうです」

「そんなにあんのかよ……」

「そこから赤ちゃんを落とせば、普通は助からないと、シスターはおっしゃっていました」

「まぁ……いくら下が沼だからって……無理だろうな」

「ですが、ここに捨てられた赤ちゃんは、とても健康な状態で誰かに見つけてもらえるんです」


 崖から落ちても、怪我一つしない。

 それだけでなく、湿地帯に赤ちゃんが投げ捨てられた日は、シスターが『何かを感じる』とおっしゃっていました。そして、そう言って出かけて行かれた日は、必ず教会に新しい弟妹が誕生しました。

 きっと、精霊神様が心優しいシスターにお報せになっているのでしょう。


「そうか……だから俺も……」


 顔を撫でて、何かをぶつぶつと呟くヤシロさん。


 そんな横顔に、わたしは話しかけます。

 おしゃべりを楽しむように。


「ここ一年は来る機会がぐっと減りましたけど……以前はよくここに来て、この景色を眺めていたんです」


 つらいことがあった時や、堪らなく寂しくなった時……私はよくここで一人、この景色を見つめていました。

 わたしのはじまりの地。

 そう思うと、心が穏やかになっていくような、そんな気がしたんです。


 そんな、特別な景色なんです、ここは。



 その景色を、今はヤシロさんと二人で見つめている。



 わたしの中の思い出は、ヤシロさんと過ごす時間が増えるほどに、どんどん楽しい色合いに塗り替えられていきます。

 幸せな、温かい、優しい……そんな記憶で埋め尽くされていきます。


 一緒に見られてよかった。


「ありがとうございます。満足しました」


 お礼を述べて頭を下げる。

 面倒くさいお願いをしてしまったかもしれません。

 暗い道を歩かせて。


 けれど、ヤシロさんはそれを咎めることも責めることもなく……


「それじゃあ、そろそろ帰るか。さすがにちょっと冷えてきた」


 そんな言葉で許してくださるんです。


「はい。そうですね。帰りましょう」


 いまだ、手は繋いだまま。

 ヤシロさんの温もりを感じます。



 空いた方の手でご自身の腕をさすり、ヤシロさんは寒そうなジェスチャーをします。

 どこか楽しげに。


 あ……

 うん。

 そうですね。

 寒いのでしたら……


「でしたら、絶対に手を離さないでくださいね」

「へ?」

「お祭りの後にやったように、二人の手を繋いで、温め合いながら、帰りましょう」


 繋いだ手はとても温かいですから。


「ん…………あぁ、そう、だな」


 こういう時、ヤシロさんは照れくさそうに笑います。

 その表情を見ると、思わず抱きしめたくなります。いつも、その衝動を抑えるのが大変なんです。


 しっかりと手を繋ぎ、来た道を引き返していきます。


 行きよりも、帰り道は早く感じてしまうものです。

 きっと、このお散歩もすぐに終わってしまうのでしょう。


 家に帰れば、今日という日が終わって、明日からまた変わらない毎日が続く…………



 変わらない毎日が、続く、はずです。



 また胸が苦しくなって、喉の奥がきゅっと締めつけられる。

 おしゃべりをしたいのに、言葉が出てきません……もうすぐお散歩は終わってしまうのに。



 しばらく無言で歩いていると、ヤシロさんが静かに話を始めました。

 それはこの街へ来た時のことで……


「俺も、あそこの崖を落ちてな……死ぬかと思ったんだが、なんとか生きてた」


 そんなことがあったんですか……

 精霊神様に感謝しなくてはいけませんね。

 もし精霊神様がいなければ……ヤシロさんがどうなっていたか分かりませんから。


「湿地帯を抜けて、走って走って……ここら辺本当に真っ暗だったからな……全速力で走ったよ」


 闇が怖いヤシロさんらしいエピソードに、少し悪いのですが……くすりと笑ってしまいました。


「そして、空腹でもう走れねぇ! ……ってなった時に、食堂を見つけた…………そう」


 一瞬、ヤシロさんの眉間にしわが寄り、そして、どこか晴れやかな表情に変わりました。


「……そう。陽だまり亭を」


 もしかしたら、陽だまり亭の記憶も失いかけていたのかもしれません。

 危なかったです、思い出してもらえてよかったです。


 そして、それは……ヤシロさんが陽だまり亭をそこまで大切に思ってくださっているという証拠でもあって……ちょっと、嬉しいです。


 その後は、他愛もない、ほんの少しだけ懐かしいお話をしながら私とヤシロさんは街道を歩きました。

 手を繋いで。


 本当に、楽しいひと時でした。


「見えてきたな」


 ヤシロさんが言うように。前方に陽だまり亭が見えてきました。

 お散歩はもうおしまい。

 また今度。


 ……その『今度』の時に、ヤシロさんがわたしを覚えていれば、ですけれど。


「あ……」


 ふと、わたしの脳裏にとあるアイディアが浮かび、そして、それをどうしても実行したいという欲求が湧き上がってきました。

 小さなイタズラ。

 お遊び。


 本当に、くだらないことかもしれませんが、それをわたしは、どうしてもやってみたい。


 小さなたくらみを胸に秘め、わたしはヤシロさんと並んで陽だまり亭へ帰ってきました。

 そして、ヤシロさんがドアを開いてくれた瞬間に駆け出し、先に店内へ入りました。


 急に駆け出したわたしに驚いて、入り口で立ち尽くすヤシロさん。

 そんなヤシロさんに向かって、わたしは深々と、可愛らしく、礼儀正しく、お辞儀をしました。



「ようこそ、陽だまり亭へ」



 先ほど、ヤシロさんが帰ってこられた時には出来なかったので、どうしても、今、やりたくなってしまったんです。


 うふふ……くだらないおふざけですよね。


「……なんだよ。ビックリしたな」

「うふふ。すみません。どうしてもやってみたかったんです」


 くすくすと笑い合い、ふと時計を見る。


 もう、お休みの時間ですね。



 ……結局、名前は、呼んでもらえませんでした。



「ヤシロさん」



 もしかしたら、明日目覚めた時、あなたはわたしを覚えていないかもしれない。

 それでも、わたしは……



「また明日も、一緒にご飯を食べましょうね」



 あなたと一緒にいたいです。

 この、陽だまり亭に。



「……おやすみなさい」



 涙は流しません。

 ヤシロさんが、悪いわけではないですから。

 一番つらいのは、ヤシロさん、なんですから。


 ぺこりと頭を下げて、厨房へ向かいます。

 カウンターの段差を超えて、厨房の入り口をくぐる…………


「悪い、一つ言い忘れた」


 ……え。


 振り返ると、カウンターの前でヤシロさんが笑っていました。

 そして、申し訳なさそうな顔をしてから、笑みを浮かべました。



「ただいま、ジネット」



 名前を呼ばれた瞬間、わたしは何も考えられずに、駆け出し、カウンターに腰をぶつけ、ボトルをたくさん落下させ、それらのすべてを無視して……


 ヤシロさんの胸に飛び込みました。


 伸ばせるだけ腕を伸ばし、ヤシロさんを捕まえると、今度は縮められるだけ腕を縮めてヤシロさんを抱きしめました。



「…………おかえり、なさい。ヤシロさん」



 おかえりなさいと、言葉にした瞬間の安心感といったら……人間の幸せはこの一言に集約されているのではないかと思えるほどです。


 大切な人がきちんと自分のところへ帰ってきてくれたという証明。



「…………おかえりなさい……ヤシロさん…………おかえり……なさ……」

「ただいま、ジネット。遅くなって、悪かったな」

「いえ……大丈夫です」


 わたしは、いつだってここにいますから。

 いつだって、どんな時だって、この陽だまり亭で、あなたの帰りを待っていますから。


「ヤシロさん……」


 カツンと、硬質な物が床に落下した音がして、ヤシロさんが「……あぁ、やっと終わったな」と呟いて……よく分からないけれど、わたしはそれでとても安心出来て…………



「やしろさぁぁん…………」



 泣き出してしまいました。

 子供のように。

 ヤシロさんに縋りついて。


「心配かけたな」

「…………はい。心配、しました」


 怖かったです。

 ヤシロさんに忘れられることが。


 寂しかったです。

 ヤシロさんがいなかった時間のすべてが。


 苦しかったです。

 ずっとずっと、苦しかったです。


「悪かったな」

「いえ…………いいえ」


 悪くなんてないです。


「心配なら、いくらでも、します…………その代わり……」


 きっと、涙や鼻水でみっともない顔になっているのでしょうが、どうしても、ヤシロさんの顔を見たくて、笑われませんようにとだけ祈って、顔を上げました。


 そして、出来る限りの想いを込めて精一杯の笑顔をヤシロさんへ向けました。


「必ず、帰ってきてください。ここへ。この陽だまり亭へ…………」



 わたしは、ずっと……ここであなたを待っていますから。



「……あぁ」


 短い声は、肯定とも躊躇いとも取れましたが……少なくとも否定ではなさそうでしたので……安心、しました。


 ひとしきり泣いて、落ち着くまでヤシロさんに甘えて……泣き止んだ直後に恥ずかしさが込み上げてきました。

 これは…………照れます。


 ど、どうしましょうか?


「…………ジネット」

「は、はい!?」


 厨房の入り口に立ち、こちらに背中を向けたまま、ヤシロさんは小さな声で言いました。


「さっき言ってたお前の願い……なるべく叶えられるようにするから……」

「へ……」

「じゃ、おやすみ」


 それだけ言うと、ヤシロさんは足早に厨房へと入ってしまわれました。

 遠ざかっていく足音。



 さっき言ったわたしの願いとは、一体…………はっ。

 心当たりがあるとすれば……、ヤシロさんに聞こえないように呟いた……



「ずっと、わたしの一番そばにいてください……」



 けれど、まさか……あんな小さな声が聞こえているとは思えませんし…………

 でももし、それのことだとするのなら…………


 あぁ……どうしましょう、顔がチョコレートのように溶けてしまいそうです。



 そうと決まったわけではないのに……そうであったならどれだけ嬉しいかと思うだけで…………


「詳細は、いいです」


 ヤシロさんが言った言葉が何を指すのか、それは分からなくてもいいです。

 それでもきっと、ヤシロさんなら……



「ヤシロさん。また明日からも、頑張りましょうね」



 ヤシロさんの部屋に向かって頭を下げ、わたしも眠ることにしました。


 今日はきっと、素敵な夢が見られるはずです。




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