148話 変わらない日常 変われない現状
「今日も平和だなぁ」
「そうですねぇ」
早朝。
いつものように大きな荷車を引いて教会へと向かう。
朝っぱらからやたら元気のいいロレッタと、今日もいつも通り落ち着いたマグダ。
変わらない道を歩きつつ呟いた俺のそんな言葉に、ジネットが相槌を打つ。
平和だ。
何もない。
四季というものがない……いや、滅茶苦茶にやって来たりはするのだが……一年を通して比較的変動のない気候のため、朝夕の景色はさほど代わり映えがしない。
『同じ時間帯なのに最近は明るくなるのが早いなぁ……』とか、そういう、時間の流れを感じさせる事象はほとんどないのだ。
だからこそ思う。
平和だと。
木こりギルドの支部で行われたパーティーからもう六日が経っていた。
この六日間、ただただ時間は流れ、何事もなく、平穏無事で……俺は少し焦っていた。
何も起こらない。
起こらないのだ……何も。
何かが……そう、厄介なトラブルでも起こってくれれば、俺がここにいる理由が…………
「ヤシロさん」
ジネットに名を呼ばれ我に返る。
「行き過ぎちゃいますよ」
気が付けば、もう教会に着いていた。
ボーっとしているうちに通り過ぎてしまうところだった。
「あ、悪い」
「ふふ。まだ眠たいですか?」
柔らかい笑顔が、俺を見つめている。
「まぁ、そうだな……」
もしかしたら、俺は寝ぼけているのかもしれないな。
どうかしてるとしか思えない。
何か厄介なトラブルでも起こればいいな、なんて……考えちまってるんだからな。
「お兄ちゃん! あたしと一緒にお芋の皮剥きをするです! どっちが速いか競争です!」
「ん~……、やめとくわぁ」
「ふっふっふっ、負けるのが怖いですね!?」
「いや、お前普通だし。俺、超上手いし。なんか……競争しても圧勝で虚しいし……」
「そ、そんなことないです! そこまで言うなら、正々堂々、五つ分のハンデをつけて勝負です! もちろん、あたしがプラス五つ分もらえるです!」
ハンデをもらって何が正々堂々か……
「まぁいいか。んじゃ、厨房に食材運べ」
「わ~い! 運ぶです!」
諸手を挙げて、ロレッタが厨房へと入っていく。
……いや、食材食材!
「ったく、あいつは……」
「楽しそうですね、ロレッタさん」
「そうだな」
最近また、ロレッタは教会への寄付へ同行するようになっていた。
以前、陽だまり亭が嫌がらせや悪意にさらされていた際に、気落ちするジネットを心配して付いてきていたのだが、それがなくなってからはぱったりと来なくなった……のだが、大食い大会後、再び参加するようになったのだ。
あいつもあいつなりに、何かを感じているのかもしれないな。
さっきの元気も、どこか無理しているようにも見えるし……
「軽くいじめてやるか。皮剥きで圧勝してやる」
「ほどほどにしてあげてくださいね」
野菜の詰まった木箱を持って、ジネットは穏やかに笑う。
なんだか、その笑顔は少しだけ……ベルティーナに似ていた。
「……そして、そのおっぱいはベルティーナをも凌駕していた」
「マグダ……俺の心を読んだ上で、勝手なモノローグ追加すんのやめてくんない?」
「…………なぜ?」
「『なぜ』っ!?」
まさか、そこを疑問に思われるとは!?
『なんか嫌だから』以外の理由が思いつかねぇ!?
「お兄ちゃ~ん! 早く来るで~す!」
いまだ庭にいる俺に向かって、教会の中からロレッタが手を振る。
いやいや。状況、見たら分かるよね?
「お前、野菜持っていけよ!」
「……なぜです?」
「ロレッタ、お前もかっ!?」
まったく、思い通りにならないヤツが周りにいるといろいろ苦労する。ユリウス・カエサルの気持ちが少しだけ分かったぜ。
「ヤシロさん」
手伝わないロレッタへの不満を垂れながら教会へ入ると、ベルティーナが玄関先まで迎えに来てくれていた。
「いつもありがとうございます」
「ジネットに言ってくれ。俺はただの付き添いだ」
「うふふ……相変わらずですね」
相変わらずなんなのか、それは分からんが、まぁ、からかわれてるんだろうな。
しかめっ面をしてみせると、ベルティーナはくすくすと笑った。
試しに、俺の人生において一度も『外した』ことのない爆笑必至の超面白い顔をして、見せてみる。と――
「ぶふっ!」
あのベルティーナが吹き出した。
おなかを抱えて笑い転げている。
おぉ……なんか新鮮だ。
「ベルティーナ、大丈夫か?」
と、紳士的な声を出してベルティーナの背中をさする。
だが、顔はまだ変なまま。
「……はい。申し訳ありません、お見苦しい姿をお見せして……あまりに衝撃的でしたぶふぉっ!?」
振り返った途端、すぐそこにあった面白い顔に、ベルティーナは先ほどよりも盛大に吹き出した。……顔に、唾が…………
「も……もう、やめてくださ…………くふふふ…………お、お腹が、痛…………ふふふふふふっ!」
「シ、シスター!? ヤシロさん、一体何があったんですか!?」
厨房からジネットが出てくる。その角度では俺の顔は見えないだろうから、ゆっくりと振り返ってジネットにも見せてやる。
「何も、ないよ☆」
「ぷひゅっ!?」
変な顔のまま、声だけを極限まで爽やかにして言うと、ジネットが不思議な音を漏らして吹き出し、慌てて後ろを向く。両肩がガクガク震えて、必死に笑いをこらえているようだ。
いやぁ、まだまだいけるじゃねぇか、俺の最強にらめっこ。昔取った杵柄ってやつだな。
「もっ……もうっ、ヤシロさん……ダメですよ…………イタズラ、しちゃ…………こんな遊びが、子供たちの間で流行でもしたら……」
「そ、それは困りますね。特にご飯を食べている時にやられると、非常に困りますね。やめましょう、ヤシロさ…………くふふ……すみません。もう、ヤシロさんを見るだけで……面白くて…………くふっ……ふふふふっ」
ジネットに窘められ、ベルティーナにも釘を刺される。
面白フェイスは当面禁止か。ちぇ~。
「シスター、大丈夫ですか?」
「は、はい…………ふふ……だいじょう…………ふふふ」
ジネットがベルティーナの背中をさすり、看病(?)している。
どうやら、俺はさっさと退散した方がよさそうだ。
「じゃあ、芋の皮を剥いておくな」
「はい。お願いします」
ベルティーナとジネットを残し、厨房へ入ると……ダンジョンのラスボスもかくやという雰囲気でロレッタが待ち構えていた。
「よく来たです! さぁ、あたしの力をとくと見ればいいですっ!」
とかなんとか言っていたロレッタだったが……
結果は俺の圧勝。
ロレッタの皮剥きは、まぁ、大方の予想通り……普通だった。
勝負に使用したジャガイモは、一部を食事で使用し、残った物は食事の後で薄くスライスしてポテトチップスにして美味しくいただいた。
パリパリサクサクとした食感がベルティーナと子供たちにウケ、かなり大量に剥いてしまったジャガイモも、あっという間に平らげられてしまった。
「なんということでしょう……薄くスライスして揚げるだけ……こんな単純な調理方法を今の今まで見落としていただなんて…………」
なんだかジネットが大きなショックを受けていた。
これは、まぁ……褒められていると思っておいて間違いないだろうが。
「このポテトチップスは、陽だまり亭でも出したいです。これからの時期は根菜が美味しい時期でもありますし、是非!」
「お、おぅ。けど、料理ってよりかはオヤツ向きだと思うけどな」
根菜が美味しい時期なんかあるのか……年中似た気候のクセに。
「スライスじゃなくて、細切りにして揚げるとフライドポテトっつって、それも美味いぞ。今度やってみるといい」
「はい。では今度教えてくださいね」
「はは、教えるほどのものでもねぇよ」
「いえ、でも……」
ほんの一瞬の間――
「ヤシロさんといると、新しいことをたくさん覚えられて楽しいです」
言いかけた言葉をのみ込んで、代わりに向けられたその微笑みは、どこか歪さを感じた。
薄氷の上に立つような、そんな危うさを。
やっぱ……気を遣われてるんだな。
「ヤシロさん」
食事を終え、そろそろ片付けでもしようかというタイミングで、ベルティーナが俺のもとへとやって来た。
穏やかな笑みを浮かべて――
「お話があります」
――逆らうことの出来ない、静かな声で俺を呼ぶ。
「…………分かった」
片付けをジネットたちに任せて、俺はベルティーナと二人で礼拝堂へと向かう。
過去に何度か連れてこられた懺悔室だ。
小さく区切られたこの空間は、扉を閉めると完全な密室となる。
どんな話も、気兼ねなく話せることだろう。
「ヤシロさん」
名を呼ばれる。
ただそれだけで、心を覗かれているような、そんな気分にさせられる。
何もかもを見透かしたような曇りのない瞳が俺を見つめている。
「……もうそろそろ、いいのではないでしょうか」
もうそろそろ……
何を指しての言葉なのかは言うまでもない。
ベルティーナにはすべてを悟られているのだろう。『何』を『どこまで』かは分からないが、もしかしたら初めて会ったあの時から、俺の身の上も正体も全部見抜いていたのかもしれない。と、そう思わせられた。
しかし……
果たして俺は「そろそろ」などと呼べるほどの時間を過ごしてきたのだろうか。
「まだまだ」とか、「ぜんぜん」とか……どちらかと言えばそういった言葉の方がしっくりくるような気がする。
ベルティーナの腕がそっと伸ばされる。白くて細い指が俺の頬に触れる。
「出会ってからのこれまでの期間、あなたを見てきた一人として、私は言います」
俺を見つめる瞳には、どこか切実な……それでいて温かい、願いのようなものが込められていた。
この瞳から目を逸らすことなど、きっと何人たりとも出来はしないだろう。
「ヤシロさん――」
俺の頬から手を離し、自身の胸の前で手を組む。
祈るような仕草で、乞うような瞳で、許すような声で……ベルティーナは言う。
「あなたはもう、自分の幸せのために生きてもいいのではないですか?」
――自分の、幸せのために…………
静かに頭を下げ、ベルティーナは懺悔室を出ていく。
俺の返事を聞くこともなく。
少し考えろということなのだろう。
壁にもたれて視線を上げると――壁に掛けられた精霊教会の紋章が俺を見下ろしていた。
まるで、精霊神が俺を見下ろしているような、そんな錯覚に襲われる。
……懺悔なんか、してやらねぇぞ。
何を言われようが、俺は詐欺師で…………俺がやってきたことは……過去は消えはしないのだ。
「……俺だけが許されるわけには…………いかねぇだろうが」
精霊教会の紋章を睨みつけてみるが……数秒で目を逸らしてしまった。
正直なところ……「いつまでウジウジしてやがんだ、ボケェ!」と、大声で怒鳴られた方がはるかにマシだった。
やっぱ、ベルティーナは厳しいシスターだよな。
……答えを出すのは、自分自身にしか出来ないって改めて突きつけられた気分だぜ。
十数分、懺悔室にこもっていた。
けれど、頭は冴えないし、考えもまとまらない……
結局、何も考えがまとまらないまま、俺は懺悔室を出て……陽だまり亭へと戻った。
今日もいつもと同じように、ランチタイムは猫の手も借りたいほどに忙しく、それからティータイムにもう一波ピークが訪れて、それが過ぎると少し落ち着きを取り戻す。
この時間はムム婆さんやゼルマルのジジイたち、かつての常連どもが集まるようになっていて、忙しくはないものの決して暇ではなくなっていた。
夕方頃になれば、二号店と七号店の屋台部隊が「完売ー!」「おーぉもーぅけー!」と帰ってきて、ジネットに褒められてにへへと笑う。これももはやお決まりになっている。
最近は、マグダやロレッタが手伝いに行かなくても妹たちだけで上手く回しているようだ。計算も覚えて、接客スキルもめきめき上達している。
これなら、屋台を増やすことも可能だろうな。四十区辺りに出店して、チェーン展開するのもいいかもしれない。
こいつらなら、自分たちだけでも立派に経営していけるだろう。
陽が落ちると、仕事を終えたウーマロが顔を見せる。毎日欠かさず、きっちりと同じ時間に。
最近じゃ、ウーマロの顔を見て時刻を知るようになったほどだ。
ここ最近は、モーマットやヤップロック、ノーマやデリアなんかも頻繁にやって来るようになっていた。
馴染みの顔が集まり、飯を食いながら益体もないバカ話を「あーでもない」「こーでもない」ととりとめもなく繰り広げ、くだらないことで笑い合う。
最近はもっぱら街門の話題で持ち切りだ。
「式典ではどんなことをするんだ」とか、「またドレスを着てみたい」とか、「アイドルマイスターのステージをもう一度!」とか、「うるさいさね! 黙りな、ベッコ!」とか……
満腹になった連中はいつもこう言ってその日を締めくくる。
「あぁ、今日もいい一日だった」と――
馴染みの顔がみんな帰り、陽だまり亭の営業時間が終了する。
今日も、平和な一日だった。
トラブルなんか……起こりゃしなかった…………
閉店後の陽だまり亭。
誰もいなくなった薄暗い食堂で、俺はいつもの最奥の席に座り、頬杖をつき、何を見るでもなく視線を宙にさまよわせていた。
街門と街道の開通式典は、明日だ。
俺が言い出して動き始めた一大プロジェクトが、完全、完璧に完了……終了するのだ。
式典が終われば……四十二区に対する責任から解放される。
俺がここに留まる理由は…………なくなる。
トラブルもなければ、深刻な問題もない。
ジネットの夢だった『あの頃の陽だまり亭』も戻ってきた。人が集まる、楽しい空間にしたいという願いも叶った。
俺がいなくても、この店はちゃんとやっていけるという確証も得た。
かつてジネットは「一人でお店をやるのは大変だ」と言っていたが、今はもう一人じゃない。
マグダやロレッタだけじゃなく、頼れる仲間は、本当にたくさんいる。
俺にしたってそうだ。
この街のこともおおよそ理解した。
貯えもそれなりに出来た。
生活の基盤なんか、とっくの昔に整ってやがった。
あと残ってるのは……
俺はポケットの中の20Rbを握りしめる。
そう……あと残っているのは、この20Rbだけだ。
食い逃げをして、ジネットに『必ず払う』と約束をした、最初に食べたあのクズ野菜定食の代金。20Rb――
今、俺がここにいる理由は、このたった20Rb――陽だまり亭で一番安いメニューの代金――それだけなのだ。
こんなもんに、いつまでも縋ってるわけには…………
その時、真横からふと視線を感じた。
反射的に顔を向けると、ほっぺたをパンパンに膨らませた、ちょっと間抜けで愛嬌のあるロレッタの顔が目前に迫ってきた。
「どうです!? お兄ちゃん!」
ロレッタがまゆ毛をキリッと持ち上げて問いかけてくる。
その口調は、頬袋に詰め込んだものを零さないようにしているためか、相撲取りを真似する時のようなややこもり気味なおかしな感じになっていた。
それだけで普段なら爆笑間違いなしなのだが……この時の俺は、ロレッタがなぜこんな行動に出たのか予測がつかず、ただポカンとその顔を見つめるしか出来なかった。
「どう…………です?」
こてん、と、首を傾げて俺の顔を覗き込んでくる。
「どう…………………………」
大きな瞳が、俺を見つめる。
「…………………………………………ぐすっ」
ぐすっ?
「ぅ……………………ぅぇえええええええええええんっ!」
「ロ、ロレッタ!?」
ロレッタが突然泣き出した。
大きく口を開けて、子供のように泣きじゃくる。号泣だ。
その勢いで口の中からもろもろとリンゴが溢れ出してくる。
パンパンだった頬袋がすっかりしぼんで、いつものほっそりとした顔になってもなお、ロレッタが大声を上げて泣き続けている。
「おい……ロレッタ…………お前、どうし……」
「ごべんなざいでずぅぅううう……」
ごめんなさい?
なんだ?
なんで謝るんだ?
「あ、あた……あたし…………普通だから…………特別なこととか……何も出来なくて…………お兄ちゃ…………お兄ちゃんのこと……全然、なにも……力に…………なれ……なくてっ…………普通……だから…………こんなことくらいしか……………………盛り上げることが……あたしの…………いいところって……お兄ちゃん、言って……くれたですのに…………それも……出来な……………………笑ってもらうことも…………出来なくて…………っ!」
「ばっ……バカ、お前……っ!」
俺は咄嗟に立ち上がり、顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣いているロレッタを抱きしめた。
しかし、ロレッタの涙は止まらない。
「あたし…………っ……何も出来……なくて………………っ! お兄…………お兄ちゃ………………の、こと…………好………………なのに…………あたし…………一緒に………………い…………ごめん…………なさい……です…………っ……!」
俺の腕の中で、ロレッタは肩を震わせ嗚咽を漏らす。
それなのに俺は……一体何をやっているんだ。
ロレッタに、こんな無理をさせて…………こいつに、こんなことまで言わせて……
ただ抱きしめるだけで、なんの言葉もかけてやることが出来ないなんて……
「……ヤシロ」
音もなく近くまでやって来たマグダが俺の名を呼ぶ。
深海を思わせるような静かで深みのある瞳がそこにあった。
「……ロレッタのことは任せて。今日は、マグダが送っていって……一晩中そばにいる」
「……そうか」
マグダにまで、気を遣われて…………いや、違うな。
ずっと以前から、俺は気を遣われ続けていたんだ。
それをいいことに、俺は…………こいつらの優しさを利用していた。
「……おいで、ロレッタ」
「……マ……グダっちょ…………」
マグダが両腕を広げて呼びかけると、ロレッタは俺の腕をするりと抜けて、マグダの胸に飛び込んでいった。
そんなロレッタを、マグダは力強く抱きしめ、背中を優しくさする。
「……ヤシロ」
ロレッタの体を抱きしめたまま、マグダが顔だけを俺に向ける。
「……マグダは、ヤシロを止めない」
心臓が、跳ねる。
ほんの一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまった……
「……マグダに未来をくれたのはヤシロだから。ヤシロの未来を、マグダは否定しない……それが、どんな未来であっても……」
ほんの短い間、瞬きほどもないわずかな時間停止した心臓が、今度は忙しなく暴れ狂う。
喉の奥が…………締めつけられるようだ。
「……行く時は行くと言ってほしい」
こんな時でも、マグダの表情は変わらず……相変わらず陶器のような美しい静けさを湛えていて……だからこそ、切なくなる。
「……二度と会えなくなることを知らないまま、離れ離れになるのは……つらい、から」
その言葉が何を示唆しているのか、それは言うまでもないことだろう。
とても重い一言だ……
俺が返事を出来ずにいると、マグダはそっと目を伏せた。
そして、ロレッタの肩に手をかけて囁きかける。
「……ロレッタ、行こう」
「けど…………」
不安げな表情でロレッタが俺を見る。
目を離すと、俺がいなくなると……そう思っているのだろう。
「……大丈夫」
けれど、マグダがそんなロレッタの不安を掻き消すように、こんなことを言った。
「……ヤシロは、嘘は吐いても…………絶対に、約束は破らない」
真っ直ぐに俺を見つめる瞳は、俺に向かって『信じているから』と訴えかけてくるようで…………俺は、奥歯を噛みしめた。
「……行こう」
「うん…………」
覚束ない足取りながらも、ロレッタはマグダに支えられるようにして歩き出す。
ドアを開けて外に出る直前、ロレッタは俺に背中を向けたまま、まだ微かに震える声で言った。
「お兄ちゃん。おやすみなさいです。…………また、明日です」
「……ロレッ……」
「……ヤシロ。また、明日」
マグダが、言葉を重ねてくる。
……こんなことで、お前たちの不安は消えるのか?
こんな…………ことくらいで……
「おぅ……また、明日な」
俺が言うと、ロレッタが首だけで振り返り、そして……
「えへへ。だからお兄ちゃん、大好きです」
笑顔を見せてくれた。
マグダはマグダで、静かに腕を上げて、立てた親指を俺に突き出す。
そして、二人揃って外へと出て行き……ドアが閉まる。
…………あぁ。
………………これは、ダメだ。
…………もう、俺には…………決められない。
厨房へ視線を向ける。
今頃は、二階で今日の売り上げを計算している頃だろうか……
「……ジネット」
足を踏み出そうとしたのだが……はは…………ヒザが震えてやがる。
「……っかりしろよ、俺っ」
ヒザを一発殴り、なんとか足を踏み出す。
世界がぐらつく……視界が不安定になる……
カカトを踏ん張ってみても、大地が溶けちまってるみたいに足取りが覚束ない。
こんなに、呼吸が苦しいと思ったのは久しぶりだ…………
まるで、あの日の…………もう、取り返しがつかないのだと悟りながらも、脳みそが全力で現実を否定していた……あの時のようだ……
けれど……ここには…………今の俺には……あいつが…………
カウンターに手をかけ、腕の力で体を前に進める。
動かない足に苛立ちを覚え、同時に叫びたくなるような焦燥感を覚える。
ヒザを睨んでみるも、震えは止まらない。
……くそっ!
カウンターを越えて、厨房へ向かおうとしたところで……
「ヤシロさん?」
厨房から、ジネットが出てきた。
一瞬驚いたような表情を見せ、そして俺の顔をまじまじと見つめ……
「温かいお茶を、お入れしますね」
優しい微笑みを向けてくれた…………
そうだ……こいつは、こういうヤツなのだ…………これで言える。きちんと、話が出来る…………
「ジネット」
お茶を入れるために厨房へ向かおうといていたジネットを呼び止める。
ケリを……つけよう。
「……話がある」
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