87話 イメルダと二人きり

 光に照らされた細道をイメルダと二人で歩く。


「綺麗ですわね……」


 呟くように言葉を落とすイメルダ。

 コントラストのくっきりした光と闇の世界の中で、イメルダの整った顔が一層芸術性を帯びる。神秘的ですらある横顔を見て、少々の違和感を覚える。普段のわがままっぷりとのギャップが大きいからだろうな。


「ワタクシ、この道を、こうやって歩いてみたかったんですの」


 俺へと振り返り、ふわりと柔らかい笑みを向けてくる。

 普段からそうしていてくれれば、非の打ち所のない美女と誰憚ることなく言えるんだがなぁ。


「なんですの? おかしな顔をして」

「この顔は生まれつきだ」


 俺の顔を覗き込んでくるイメルダに、少しだけ照れてしまった。

 だってそうだろう。顔だけで言えば、一つの区の男たちがこぞって夢中になるような美人なのだ。そりゃあ破壊力がハンパねぇよ。それも、こんな雰囲気のいい夜道で、二人きりで……おまけにこいつは俺を頼りとしているとくれば…………多少は意識するっつうの。多少だけどな。


「おかしな人ですわね」


 俺の反応がおかしかったのか、イメルダはくすくすと笑いを零す。


「あなたの顔は、割と見られましてよ?」


 首を傾け、横目で見上げてくるような見つめ方をする。

 年上のお姉さんに諭されているような、そんな気分になる。

「このワタクシがそう言うのだから自信をお持ちなさい」とでも言いたげだ。……ふん。反応に困るからそういうのやめてほしい。


「きゃっ!?」


 突然、イメルダが悲鳴を上げ俺に飛びついてきた。

 ちょっ! ちょちょちょちょ直径10ミリっ! ……いや、なんの話だ。いかん、ちょっとテンパった。いや、テンパってる。

 なんだ!? なんで急に!?

 なんの意思表示だ!? え、ここで!?


「……む、虫がっ!」

「……むし?」

「虫ですわ! 今、耳元で『ブーン』って!」


 ………………は、はは。

 そりゃ、虫くらいいるだろうよ。

 都会っ子か……


「ここいらにいる虫より、男に抱きつく方が危険だと思うが?」

「へ?」


 俺が、親切にも現在の状況を教えてやったことにより、イメルダは己の軽率な行いを自覚したらしい。

 電熱線が熱を上げるようにじんわりと顔を赤く染めていく。


「こっ、こ、ここ、これはっ……………………盾、ですわっ!」

「誰が盾だ、こら」


 恥ずかしくて飛び退きたい思いと、虫が怖くて離れたくない思いが交錯しているのだろう……イメルダは、なんだかおもしろい動きを繰り返している。


「ふ、二人きりなのだから、別に照れる必要などありませんわね。ヤシロさん、ワタクシを守りなさいな」

「いやいやいや……」


 俺はお前んとこの兵士でもないし、二人きりだからこそ照れて軽率な行動は控えてほしいのだが。


 小生意気な口を利いて少し落ち着いたのか、イメルダはゆっくりと俺から体を離した。

 だが、手だけはしっかりと繋がれている。……おい、女子。もうちょっと恥じらいをだな……


「あの…………手だけ…………よろしくて?」


 …………なんだよ。マジで怖いのかよ。

 しょうがねぇなぁ。


「ヘイヘイ。お守りいたしましょう、お嬢様」

「よろしい。いい心がけですわ」


 尊大な言葉とは裏腹に、遠慮がちに俺の手を掴むイメルダ。その手の感触に、なんとなく、小さな女の子のお守を任されたような、そんな気分になっていた。


「見てくださいまし。この綺麗な光の道を……」


 蓄積された光を発するレンガが並ぶ、ライトアップされた道。

 遠くまで延びるその道は闇夜に浮かんでいるようで、もし、天の川を歩けるのであればこんな感じかもしれないなと思わせるような幻想的な光景だった。


「不思議ですわ…………」


 普段はわがまま放題なお嬢様が、こういう美しい光景を目の当たりにして、自分の中に芽生えた新たな感情に戸惑う、なんてことはよくある。

 こいつもきっと……


「どうやって光っているのでしょうね」

「教えたろ!?」


 びっくりした。

 木こりギルドの支部を今の場所にするために、俺は懸命にこいつに、今目の前にいるこの女に、他ならぬイメルダ本人にプレゼンを繰り返してきた。

 当然、この光の道のことも、その要となる光のレンガのこともきちんと説明をした。


 それら一切を、こいつはまったく理解していなかったのか!?


「まぁ、綺麗なら原理などどうであっても構いませんわ」


 マジか……こいつ、マジなのか…………


「お前が俺の話を聞いてないってのが、よぉく分かったよ」

「あら。聞いていますわよ? 新作ケーキのレアチーズケーキというのが美味しいとか、ベッコさんにまた面白い物を作らせているとか」

「……そこら辺はお前には話してねぇよな? なんで知ってんだ?」


 今はまだ実施前でどこにも公表していない企業秘密を……


「おほほ。ワタクシを誰だと思っているのです? ワタクシですわよ?」


 世の中に、これほど情報量の少ない文章もそうそうないだろう。


「ベッコさんから伺いましたの」

「よし分かった。あいつにはきつ~いお仕置きが必要だな。情報提供ありがとう」


 今度、「あぁ、これはさすがに要求される技術が高過ぎて頼むのは酷かなぁ?」って遠慮してた仕事を無料でやらせてやる。企業秘密の漏洩は厳罰に処されるべきなのだ。


「見えましたわよ、ワタクシの新居が」


 夜の闇の中に浮かび上がる木こりギルド四十二区支部。その中央に位置する豪奢な建物。

 これがイメルダの新居だ。

 イメルダと、家族が来た時用の部屋、客室、そして非常に近しい一部の給仕が住まう部屋がある。他の者たちは離れた場所にある寮で暮らすようだ。

 だが、イメルダの家族――要するにギルド長のスチュアート・ハビエルは四十区で仕事があり滅多にこちらへは来ないだろうし、来客もそうそうないだろう。

 つまり、基本的にイメルダが一人で住むための屋敷なのだ。

 ……なんつう贅沢な独り暮らしだ。ワンルームでいいだろうが。


 今回はそれが仇となったわけだ。


「素敵な屋敷でしょう?」

「ホント。ウーマロ、頑張ったなぁ」

「ワタクシも設計に参加したんですのよ?」

「横から茶々入れられて苦労したって言ってたぞ」

「その甲斐あって、美しい建物になりましたわ!」


 美しさにこだわるお嬢様の口出しは、相当なプレッシャーだったろうな。

 ウーマロ。今度ご飯大盛りにしてやるよ。せめてもの労いだ。


「でも、あれですわね」

「ん?」


 光るレンガが要所要所に設置され、美しい建物を照らしている。

 浮世離れした雰囲気を醸し出す屋敷を見上げて、イメルダが呟く。


「こうしてライトアップされた姿を見ると、なんだか……」


 なんだか……


「…………怖いですわね」


 まさに。俺も今そう思っていたところだ。

 下方からのライトに照らされ、不気味な影を浮かび上がらせている。

 顔の下から懐中電灯を照らした時のような不気味さと言えば分かりやすいだろうか。

 とにかく、なんだか、「ドォォォォ…………ン」みたいな雰囲気なのだ。

 しかも人の気配がまるでないから廃墟のようにも見えるし……


 マジ、怖い……


「じゃ、俺、帰るな」

「ダメですわよ!? 今日は絶対帰しませんわっ!」

「うら若い乙女がはしたないセリフを口にするんじゃない!」

「はしたなかろうと、倫理に反しようと、今日は絶対帰しませんわ!」


 割と全力で腕を振り解こうとしたのだが、敵もさる者、ここで見捨てられると人生が終わるという確信があるのだろう、俺の全力以上の凄まじい力で腕にしがみついてくる。

 この細い腕のどこにそんな力が秘められているのか……こんな細い腕の…………ぽよん……あ、柔らかい。

 両腕で俺の腕をギュッと抱きしめるイメルダ。当然、俺の腕には胸元の大きな膨らみが惜しげもなく押し当てられて……俺は、無条件降伏を決めた。






 そんなわけで、廃屋……もとい、新築の屋敷へと探検隊は足を踏み入れた……あ、いや、探検隊じゃないんだが、なんかそんな気分だ。


「床が軋まないだけマシか」

「軋むはずありませんわ。新築ですのよ?」


 の、割に物凄くくっついてくるよな?

 怖いは怖いんだよな?


「とにかく、さっさと寝室に行こうぜ」

「は、破廉恥ですわっ!?」

「破廉恥なことなどするかっ!」

「初めて訪れる婦女子の家で、リビングにも寄らずに寝室に直行だなんて……紳士の風上にも置けませんわっ!」

「こんな真っ暗な屋敷のリビングに用なんかあるか! いいからさっさと寝て、さっさと今日を終わらせてくれ!」


 こいつが眠りさえすれば、俺も眠れるのだ。

 寝て起きれば、朝だ。世界は光に包まれている。

 あぁ、太陽が待ち遠しい。朝の陽ざしが、陽だまりが恋しい。


「で、ですが…………せめて、湯浴みを……」

「この暗闇でかよ……今日は我慢してくれよ」

「そんな!? ワタクシ初めてですのよ!?」

「……『寝室に男を入れるのが』だよな? それ以上のことは何も起こらないから、今日は大人しく寝てくれって、マジで……」


 もう、暗いの怖いんだよ。

 早く寝ないと、トイレに行きたくなったらどうするんだよ? 今日はマグダもいないんだぞ?

 あぁ、……獣手が無いと不安だ。

 男手? そんな、ただ毛深いだけの手になんの価値があるんだ。

 必要なのは獣の手だ。ネコの手が借りたいよ、切実に。


 廊下を進み、屋敷の奥へと進んでいく。

 幅の広い階段を上り二階の最奥。最も見晴らしのいい南向きの部屋。それがイメルダの寝室だ。

 寝室のそばには衣裳部屋と執務室があるようで、この辺り一帯はイメルダの専用スペースらしい。


「明かりを点けますわ」


 そう言って事前に運び込まれていたらしい箱詰めされたままの荷物を物色し始めるイメルダ。……だが。


「…………ありませんわ」


 おぉぅ……


 よく考えてみれば当然だ。イメルダが屋敷に必要な日用品なんかを持ってくるわけがないのだ。そういうのは給仕長あたりが持ち込むものだからな。


「まぁ、今日はもう寝るだけだ。布団があるなら、それで充分だろ」


 幸い、寝室のベッドは使用出来る状態にあるようだ。

 ……もっとも、ここ以外に使えるベッドがあるかどうかは知る由もないがな。

 まぁ、床の上でも眠れるさ、俺ならな。


「あぁ、よかったですわ。寝間着は持ってきていましたわ」


 荷物の中からふわふわとした可愛らしいネグリジェを引っ張り出してくるイメルダ。

 そういうの着て寝てるんだな。


「では、着替えますのでしばし退室してくださいまし」

「はぁっ!?」

「いや、『はぁっ!?』って……ワタクシ、着替えますのよ!?」


 ってことは何か?

 俺は、お前が着替え終わるまで、あんな真っ暗で妙に長い廊下で待機してるのか?

 お前な、先が見えない長い廊下がどれだけ怖いか知ってんのか!?

 ……引き摺るような足音とか聞こえてきたらどうするんだよ…………


 ズルッ…………ペタ……ズルッ…………ペタ……ズルッ…………ペタ……

 ズルッ…………ペタ……ズルッ…………ペタ……ズルッ…………ペタ……

 ズルッ…………ペタ……ズルッ……………………………………………………

 …………………………………………………………………………………………

 ペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタッ!


「ぎゃぁああああああああっ!」

「ど、どうしましたの、急に!?」


 想像しただけで怖い!

 無理! 超無理! 絶対無理!


「お前、もう着替えずそのまま寝ろ!」

「イヤですわ! ワタクシ、この寝間着でないと眠れませんのよ!」

「布団に入って目を瞑っていれば眠れる!」

「無理ですわ!」

「こっちこそが無理なんだよ!」

「何がですの!? 廊下で少し待っていてくれればいいだけですわ」

「それが無理なんだよ! いいか……先の見えない長い廊下にいて……もしも…………」


 俺は、先ほど思い浮かべてしまった怖い想像を話して聞かせる。


「いやゃぁああああああああっ!」

「なっ!? そうなるだろう!?」


 イメルダが青い顔をして目に涙を浮かべる。


「で、ででで、ですが…………ワタクシ、やはり着替えないと……」


 くっそ! 強情なヤツめ!


「分かった……そこまで言うのなら仕方ない。廊下に出よう……」

「本当ですの? 構いませんの?」

「ただし……怖くなったらすぐ帰るから」

「待ってくださいましっ!」


 部屋を出ようとする俺の腰に、イメルダがしがみついてくる。


「なんとなく、なんとなくですけど、部屋を出た途端、そのまま外へ直行しそうな気がしますわっ!」


 当然だろう! だって、もうすでに怖いんだものっ!


「わ、……分かりましたわ」


 ふぅ……分かってくれたか。


「でも……着替える間、向こうを向いていてくださいましね」

「………………ん?」


 しゅるり……と、衣擦れの音が聞こえる。


「って!? ちょっと待て! 俺の前で着替えるつもりか!?」

「ま、前ではありませんわ! 後ろです! ヤシロさんはこちらを向いてはいけませんわよ! 向いたら責任を取ってもらいますわよ!?」


 マジか!?

 マジなのか!?


 ドアの方を向いたまま、俺はピクリとも動けない状況に追いやられてしまった。

 せめて、もう少し楽な体勢を取るまで待ってほしかった。

 いきなり過ぎて、心の準備が…………心臓が最大出力で大暴れしている。


 やかましい鼓動と、微かな衣擦れの音だけが鼓膜を震わせる。


 なに、この状況。

 めっちゃ恥ずかしい……


「も、もう……いいですわよ」


 恐る恐る、ゆっくり振り返ると、イメルダが寝間着姿に着替えていた。

 ……こいつ、マジで着替えやがった…………もし俺が鋼の自制心を持ったジェントルマンじゃなかったら、お前、えらい目に遭ってるとこだぞ?

 俺でよかったな! 感謝しろ! ……あと、すり減った心臓のHP分、何かで埋め合わせしやがれ。


「あぅ…………あの、……あんまり、見ないでくださいまし」

「あっ、いや…………すまん」


 さっと顔を背ける。

 くっそ……イメルダがいじらしく見えるだなんて。今日の労働はそんなにハードだったのだろうか……疲れ目だな。うん。


「きょ、今日は……もう、休ませていただきますわ」

「お、おう! 寝ろ寝ろ! 寝てしまえ!」

「なんのおもてなしも出来ませんで……」

「いいから、早く寝ろ!」


 これ以上、こんな状況が続けば心臓が持たん。


 なるべく寝間着姿を見ないように顔を背けていると、イメルダがベッドに潜り込む音が聞こえてきた。

 ……あぁ、ようやく終わる。この長い一日が。


「ヤシロさん……」

「おぉ。おやすみ」

「いえ、そうではなくて…………手を……」

「ん?」


 振り向くと、鼻から上だけを布団から覗かせて、イメルダが俺を見ている。

 布団の中から白く細い右手がすっと差し出される。


「手を……繋いでいてくださいませんこと?」


 …………え、なんで?


「ヤ、ヤシロさんの責任なのですよ!? ……さっきのお話が、その……怖過ぎて……」


 あぁ……引き摺る足音なぁ……


「眠るまでの間で構いませんので」


 それ……結構しんどいんだけどな。

 まぁ、これはしょうがないだろう。そもそも、こいつは夜が怖いから俺をここに呼んだわけで……だから、しょうがなくだ。しょうがなく、俺はイメルダの手を取った。

 別に、俺の方が怖くなって人肌が恋しくなったとか、こいつが寝た後、俺どうしたらいいんだとか考え始めたら無性に怖くなってきたとか、そういうことではない。

 しょうがないことなのだ。

 …………マジで、どうしよう。こいつが寝た後。


「あの……ヤシロさん」


 繋いだ手をギュッと握ってくるイメルダ。

 俺はベッドに腰を掛け、イメルダを見下ろすように顔を覗き込む。


「ヤシロさんはどうしてオバケが怖いんですの?」

「どうしてって……」


 理由などあるのだろうか?

 誰しも怖いものではないのか?

 …………いや、平気なヤツは平気か……じゃあ、なんでだ?


 改めて考えてみる。

 俺は、いつからオバケが怖かったのか…………あぁ、そうか。


「女将さん……俺の母親がな、俺がまだガキだった頃に言ったんだ。『いい子にしていないと、窓から怖いオバケがやって来て連れて行かれちゃうぞ』って」

「ひぃっ!? 窓が怖いですわ!? 窓が怖いですわ!?」


 いや、落ち着け。

 ガキの頃の俺でも、そこまでは取り乱さなかったぞ。

 けど、その言葉がスゲェ怖くて、カーテンの隙間とか……死ぬほど嫌いだったっけな。


「い、いい子というのは……ど、どういう子のことなんですの? ワタクシはいい子に分類されますの? されませんの?」


 まぁ、客観的に見て『いい子』ではないよな。

 引っ越しを強行するし、そのせいで人を巻き込んで迷惑かけまくるし……


「ワタ、ワタクシ……いい子になりますわ! 絶対なりますわ! ……だから、連れて行かないでほしいですわ…………お願いします……わ」


 けれどまぁ、ここまで怖がらせることもないだろう。

 怖くて眠れなくなった俺に、女将さんが言ってくれた言葉。それをこいつにも教えてやろう。


「あのな、イメルダ。そんな怖がらなくても大丈夫なんだぞ」

「…………どうして、ですの?」


 泣きそうな、少女のような瞳が俺を見上げてくる。

 普段からこれくらい大人しければすげぇ可愛いのに……


「お前のことを見守っていてくれる人がいるからだよ」

「――っ!?」


 一瞬、繋いだ手に力がこもる。

 それからじ~んわりと温かくなっていく。

 ……あれ? なんだ、この反応?


「そ…………それって………………ヤ、……ヤシロさん…………の、ことですの?」

「バッ!? ち、違うわ!」


 なんで俺がお前を見守ってなきゃいかんのだ!?

 つか、このシチュエーションでそんなこと口走ったら、お前、それもうプロポーズじゃねぇか! 違うからな!?


「亡くなった近親者とか、ご先祖様とかだよ!」

「亡くなった…………では、お母様、ですのね。ワタクシを見守っていてくださるのは……」


 ぽつりと漏らされたその言葉に、一瞬心がざわついた。

 そっか。やっぱこいつの母親……

 俺はそっと視線を外し、窓の外を眺めた。星の綺麗な夜だった。


「そういえば、お母様もよくワタクシに言っていましたわ。『悪いことをすると、この世の者ではない者に好かれて付き纏われる』と……」

「それは……怖いな」


 まぁ、どこの世界でも、子供のしつけに使われる文言に大差はないってことか。


「けれど、お母様が見守っていてくださるのであれば…………心強い……です……わ、ね……」


 眠気が襲ってきたのか、イメルダの言葉が途切れがちになる。

 このまま体の力が抜けて………………抜け…………抜けて……ない、な。むしろ手に「ギューッ!」って力がこもり始めて……イテテテテ! なに!? なんでそんな目一杯握りしめるの!?


「…………もし」

「え?」


 手の痛みに耐えてイメルダの顔を見ると、……真っ青な顔をしていた。


「もし……お母様が今のワタクシを見ていて…………『悪い子』だと判断していたら…………ワ、ワタクシは、ど、どどど、どうなってしましましま……」


 母親に見られていると困る、という自覚はあるようだ。


「おかっ、お母様がワタクシを連れ去りに来るんですの!?」

「落ち着け! 仮にも親子だろ、そんなこと……」


 あるわけない。…………果たしてそうだろうか?

 人のよさが取り柄だった伯父夫婦。親方と女将さん。

 あの人たちは俺に「まっとうな人間になってほしい」「普通の幸せを手に入れてほしい」と、そう望んでいた。

 けれど、俺は……そんな二人の思いをことごとく踏みにじるような生き方をしてきてしまった。


 もし、親方と女将さんが俺の行いを見ていて……そして、もし、怒っていたら……?


『ヤシロ……お前にはガッカリだ……』

『こんな悪い子に育っちゃうなんて……育て方を間違えたのかしら……』

『ヤシロ……』

『ヤシロ……』

『『もう一度、今度はこっちで一緒に暮らそう……』』


 ……もしかしたら、あの二人が化けて出てくるかもしれない…………

 そう…………



 窓の外からこちらを「ジィ~……ッ」と覗き込むように…………



「ほわぁぁぁあっ!?」

「いやぁぁあああっ!? な、なんですの!?」


 マズいマズいマズいマズいマズいマズいっ!

 俺、二十年以上も恨みを買うような行いばっかりしてきてる!

 呆れられる生き方しかしてない!

 絶対見守ってもらえてないじゃん、こんなの!


 ――その時、窓がガタガタと音を鳴らした。


「ぎゃあああああっ!」

「きゃあああああっ!」


 見てる!

 覗いてる!

 親方か!?

 女将さんか!?

 それとも……もっと怖い……別の『ナニカ』か!?


「はぁぁぁあああっ! 怖ぁぁぁぁあああああいっ! めっちゃ怖ぁぁぁあいっ!」

「や、やめてくださいまし! ヤシロさんがそんなことを言うと、ワタクシまで怖くなってしまいますわっ!?」

「ちょっと窓の外見てきてくれ!」

「無理ですわっ!?」

「何かいるかもしれないだろうが!」

「だからこそ無理だと言っているのですわよ!」


 そして、窓がガタガタと揺れる。


「「ぎゃぁぁああああああっ!?」」


 もうダメだ……怖い……怖過ぎる…………夜なんか嫌いだ……闇なんか嫌いだ…………俺は早く、温かくて優しい……あの陽だまりの中へ帰りたいと、切実に思った。


 ――ガタガタ。


「ちっちょへらるぷっしゃぁぁあああっ!?」

「何より、ヤシロさんの悲鳴が怖いですわっ!?」


 阿鼻叫喚。嗚呼、阿鼻叫喚。

 暗闇に包まれた寝室から、悲鳴が消えることはなかった。







 どれくらいの間、俺は精神を尖らせ続けてきたのだろう……

 遠くから、希望の音色が聞こえてきた。


 カランカラーン! カランカラーン!


 目覚めの鐘だ。

 あと数時間で日が昇るという合図だ。


 夜が、終わる……

 人々が目覚める時間になったのだ。


 結局、一睡も出来なかったが、そんなことはどうでもいい!

 どうでもいいんだ、そんなことは!


 太陽が昇る。

 みんなに会える。

 その事実が、俺には堪らなく嬉しいのだ。


「……もう、目覚めの時間ですの?」

「あぁ……俺たちの戦いは、もう終わったんだ……」

「朝が……来ますのね……」

「あぁ…………長っ…………長かったよなぁ」

「でも……耐え切りましたのね、ワタクシたち……」

「そうだ! 俺たちは勝ったんだ!」

「ヤシロさんっ!」

「イメルダッ!」


 抱擁。熱い抱擁。

 戦士たちの友情の証である。

 美しい抱擁だ。


「さぁ、窓を開けて世界を見るんだ! もう、怖いものなど何もない!」

「そうですわね! これまで触れることすらかなわなかったあの窓を、今、開け放ちましょう!」


 俺とイメルダは二人で窓へと駆け寄る。

 外はまだ暗いが関係ない。

 世界はもう、朝になったのだ。

 太陽を迎える準備は整った。

 闇の時間はおしまいだ!


 二人で窓に手をかけ、せーので窓を開け放つ。

 ひんやりとした空気が頬を撫で、疲労した体をシャキッとさせる。

 目が冴える。脳細胞が活性化していくのを感じる。


 広い庭を見渡せる大きな窓。

 その外はバルコニーになっていて、そこまで出れば、支部の中のすべてに目が届きそうだ。


 素足のままバルコニーに躍り出て、俺とイメルダは手すりに身を預ける。

 覚醒する感覚というのは、こういうことか。

 研ぎ澄まされる神経。今なら、なんだって出来そうな気がする。


 そして、研ぎ澄まされた神経は、この俺に…………暗闇で蠢く人影を、はっきりと認識させやがった。


 なっ、なんかいるー!?

 屋敷の庭に……蠢く人影が……

 闇に慣れた目が、その輪郭を捉えている。

 人影が…………窓の中から建物の一階を覗き込んでいる様子を…………


 窓から怖いオバケがやって来て連れて行かれちゃうぅぅぅっ!


「「ぎゃぁぁああああああっ!?」」

「ふにゃあぁあっ!?」


 バルコニーで揃って悲鳴を上げた俺とイメルダ。

 その声に驚いて、人影が悲鳴を上げる。

 その悲鳴は、なんだかとても聞き覚えのある声だった……


「あ、あのっ……ヤシロさん、ですか?」


 屋敷の前、広い庭になっている場所からバルコニーを見上げる人影……それは、ジネットだった。


 ………………………………………………ビビッたぁ……


 腰から力が抜け落ち、その場にへたり込む、もうダメだ……一歩も動けない…………


「あ、あのっ!? だ、大丈夫ですか、お二人とも!? え、あの!? た、助けに行きましょうか!?」


 下から飛んでくるジネットの声に応える元気は……もうなかった。







 陽だまり亭のテーブルに着き、俺は温かいスープを飲んでいた。

 店には誰もいない。

 時刻は四時半頃か……もう少ししたらマグダを起こして教会へ寄付に行く時間だ。


「お疲れ様でした」


 俺の前に座るジネットが、苦笑交じりに言ってくれる。


「あぁ……マジで疲れたよ」


 あの後、ジネットに寝室まで上がってきてもらって、俺たちは救出された。

 来てもらっただけなのだが、あれはまさしく救出と呼ぶにふさわしいものだった。

 なにせ、ジネットを見た途端、俺の心は言葉では言い表せない安心感に満たされたのだから。

 恐怖心がなくなったのは、まさにあの瞬間だ。


 そして、腰を抜かしたイメルダを背負って陽だまり亭へと戻ってきた。

 イメルダを寝かせてもよかったのだが、イメルダが嫌がったのだ。

「目覚めた時に一人ぼっちだと、ワタクシ泣きますわよっ!?」……だ、そうだ。


 そしてイメルダは今、俺の部屋で眠っている。

 ……結局こうなるんじゃねぇかよ。

 ワラがどうとか言ってたくせに、ベッドに入った瞬間爆睡に突入しやがった。もはや、隣でヘビメタバンドが演奏しても起きないだろう。

 なんだったんだよ、この一晩の俺の努力は……


「でも、なんであんな時間にあそこにいたんだ?」

「ぅへぃっ!?」


 奇妙な声を上げるジネット。

 こういう声を上げる時は、大抵心にやましいことを抱えているのだが……


 ジネットは視線をあちらこちらに飛ばし、指をもじもじとさせ、散々言い訳を考えていたようだったが、結局何も思いつかなかったのだろう……俯きながら、真っ赤な顔でぽつりぽつりと語り始めた。


「昨晩、眠気に負けて就寝してしまい……ヤシロさんたちのその後を一切考えている余裕がなくてですね…………それで、あの……目が覚めた途端に、ちょっと不安に……といいますか、大変だということに気が付きまして…………ですから、あの……わ、わたしは、アルヴィスタンですので大丈夫なのですが……イメルダさんはそれほど精霊教会の戒律に殉じていらっしゃらないというか……ですので、男性とそういうことも…………ヤ、ヤシロさんも若い男性ですし…………で、でも、違うんです! 決してそれがいけないとか、律するようなつもりはないんですが…………なんとなく、その…………嫌だなって……思ってしまって…………すみません」


 要するに……俺とイメルダが二人きりで一晩を供に過ごしたことに、ヤキモチを焼いた……ってことか? いや、ヤキモチかどうかは分からんが、少なくとも不安にはなったと……そういうことだろう。


「あぅ……あの………………出過ぎた真似を……」

「いや…………」


 いいんだ。そんなこと。

 ただ……いや、まぁ、その、なんだ…………


「気に、すんな……な?」

「…………はい」


 ちょっと、嬉しいかもしれないな……なんて思ってることだけは、――口が裂けても言えないな。






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