8
お母さんはあたしから体を離すと、あたしの手にあった短剣を鞘からするりと抜いた。
なくなった貴石の分だけ、僅かに軽くなった装飾の鞘。それでもまだ煌めいている。
お母さんの手の中で、その切っ先が鈍く光る。
当然のようにその刃は、短いまま。
この隔絶された世界では今までのようには力が及ばない。
あたしの力ももう殆ど残っていない。
そう、思っていた。
だけど、お母さんという存在は。
おそらくあたしの想像をはるかに超えるひとなのだ。
リズさんが確信をもってそう言っていたように、お母さんならあたしの望みをかなえてくれるのだろう。
それだけの力が、お母さんにはあったのだ。
仮初の陽に反射する光を集めながら、お母さんのその隣りに当たり前のようにリズさんが寄り添う。
まるで輪郭を溶かすように、ぴったりと。
はじめからそうであるかのように。
寄り添い合ったままふたりは、昔話をするように囁き合う。ふたりにしか聞こえないように。
「リオとは最後まで、分り合えないままだったなぁ」
『…永く生きた分、失うものが多過ぎたのさ、あれは。だから充分その手に持っていても、おそれるあまりに手離せず、何より自分を捨てられない』
「まだ何も持たないリオと、始めたのはあたしだった。最初に与えたのは。だから――」
その瞳が、あたしに向けられる。
とても同じ年の頃とは思えない大人びた笑み。
あたしとはまるで違う。
まるで違う世界に生きているかのような、そんな風に思っていた。
遠い、遠い存在だった。
だけど最後。
お母さんが選んだ世界はあの場所だった。
あたし達の世界だった。
あたし達の傍だった。
「あなたが終わらせてあげて。きっとひとりでは、止められないのよ。あたし達は彼を置いていってしまうから」
同じようなことを、誰かが言っていた。
誰か。
そう、エリオナスが。
奪われた憎しみが、その矛先がいまシェルスフィアに向かっている。
お母さんがそう望んでいるって。
終わらせるのは、あたしだと。
その心が通じ合うことがなかったように、ふたりの心はすれ違ったままだったのだ。
たぶんこのふたりはどこかできっと似た部分があったのだろう。
だからこそ決して、譲れないものもあった。
同じ道は、選べなかった。
それなのに、最後にはあたしに選べとみんな同じようなことを言う。
あたしのスカートのポケットで、残っていた何かが小さくふるえた。
「ああ、でも、どうしよう。あたしとリリで出口は作ってあげれる。だけど指針がないと、送ってあげれないの。流石に迎えは期待できないし」
『……指針なら、いま繋がったよ。マオ、それに応えな』
言ったリズさんが目だけであたしのスカートのポケットを指す。
シアの短剣がなくなったポケットに、まだ残っていたもの。
どうしてだろう。
意味もなく涙が滲んでしまうのは。
震える手で取り出す、携帯電話。
いつだってこれは、ちぐはぐな心を繋いでくれた。
相手は見知らぬ番号で、だけどそれがどこに繋がっているのかは不思議と分かっていた。
あたしを呼んでいるのが、誰なのか。
ずっとそれは、ただひとりだった。
その様子を見たお母さんが、状況をただしく理解したように目を細めた。
「なら大丈夫ね。違えることなく、必ず。そこへ送り届ける。あとは全部、あなた次第」
「…お母さんが…一番に差し出したものって、なんだったの…?」
震えたままの携帯電話を片手に、あたしはお母さんの顔をまっすぐ見つめて問いかけていた。
それが最後だと分かっていたから。
結局文句も言いたいことも何も言えなかったけれど、これだけはどうしても訊きたかった。
隔てた世界を越えて、永い時をも越えて、想いを繋いで。
世界の為に、誰かの為に、かつて犠牲になったひと。
そうして一度、世界を救った。
命とは別に差し出したものがあったはずだ。
それはきっと、大事なもののはず。
あたしは多分泣きそうな顔で、それを訊いていたんだと思う。
お母さんは苦笑い。
“宝探し”の答えを用意していなかったお母さんの姿が、ふとそこに重なった。
答えが正しくあるとも、宝が宝石であるとも限らない。
いつだってその人なりの望みがそこにあるだけだ。
「まだ失ってない。これから失うから。だから今なら、言える」
その答えにならない答えを聞くのと同時に、お母さんの指先が、携帯電話の通話マークをタップする。
あたしの迷いを振り払うように。
そうだ、お母さんは。
どこかシアに似ている。その残酷な優しさも。
泣きながら繋がる世界。
電話の向こうからは
いま一番会いたいひとの声がした。
『――――っ、マオ…?』
――シア。
いつもいつも遠い、その馴染んだ声。
涙が溢れる。
声が出なくてシアの呼びかけに上手く応えられない。
だけど、本当は。
本当は、あたし。
「…これは、もらっておくわ。道を拓くのに必要だし、まだこれには用があるし」
光りの中でお母さんが、笑いかけながら刀身を光に翳す。
あたしの手の中には紋章と装飾のついた鞘だけ。
中身を失った空っぽのそれはひどく軽く感じた。
装飾品は変わらず煌めいているのに、何故かどこか寂しく映る。
それからお母さんのもう片方の手の細い指先が、あたしの頬を優しく撫でる。
「…愛している。ほんとうよ、まだ会えなくても、ここでこうして会えただけで救われたわ。たぶんあたしは、あなたにそれを伝えられずにいなくなる。だけど、だから、ここで言わせて。真魚。あなたに会えて、良かった」
まだ16歳の、お母さんが。
これから何を失い差し出すのかを、あたしは結局知ることはない。
何か返さなければと思うのに、やっぱり言葉はかたちにならない。
どうして。ほんとうにこれで、最後なのに。
そんなあたしにお母さんは、やっぱりすべてを見透かすような瞳で、笑った。
その隣りでリズさんも、見たこともないような幸せそうな
「あなたは決して、失わないで」
そして一瞬の間を置いて、海と空とが大きく割れた。
一閃、切り裂くように光の筋。
世界が分かたれていく。
二度目のさよなら。
一度目は言えなかった。
だから今度は言わなくては。
あたしの長い旅を、終わらせる為に。
「……さよなら…!」
光に眩むその向こう。
お母さんは笑って手を振った。
リズさんとお母さんが、その光に溶けていくのを見つめながら、光に呑みこまれているのはおそらくあたしの方なのに、消えていくのはふたりの方なのだと。
何故かそれが解っていた。
最後の瞬間、人影がひとつ増えたような気がしたけれど――
それを確認する術は、もうあたしにはなかった。
固く目を瞑りながら、携帯電話を耳にあてて叫ぶ。
何度もあたしを呼ぶ声は聞こえていた。
それでもあたしは叫んでいた。求めていた。
「……シア…! 呼んで、あたしのこと…! 傍に居て、いいって言って…!」
本当は、あたしは。
遠い距離が寂しかった。
話すなら顔を見て話したかった。
手を伸ばせば触れられる距離に。
あなたを感じていたかった。
傍に居てほしかった。
傍に居たかった。
「あたしは……!」
なかったことにはできないから。
あなたを想う、愛しさも哀しさもぜんぶ。
ぜんぶぜんぶ、糧にする。
それがあたしという存在の意義になる。
そしていつか、あなたに行き着く。
あなたを求める心がここに在る限り。
何度でもあなたを助けにいく。
たとえそれで、あなたを
「――おれも。死ぬなら、お前の傍が良い」
抱きしめられる腕の温もり。
お別れだと言ってあたしを突き放した時と同じそれ。
だけど今度は決して離さないように、ただ温もりを強く繋いでいた。
腕の隙間から見える、その景色。
目の前には紛れもなくシェルスフィアの海が広がっていた。
その空には重たく暗い雷雲に、いくつもの稲光が空を切り裂く。
見たこともないほど荒れ狂う海。
いくつもたつ光の柱。
そして世界を壊す為だけに、閃光に咆える青銀色の竜。
ここが世界の終わりなのか、それとも。
抱きしめ返すこの温もり。
こわくはない。
あたしにしかできないのだから。
「死なせない。あたしが」
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