最終章 アイよりカナし

1



 好きになった。

 決して報われなくても。

 きみの気持ちなど構わなくても。


 心は、置いていく。ここに置いていく。

 きみの傍に――永遠にきっと



 だから、大丈夫もう

 泣かないで。



―――――――…



 背中でチャイムを聞きながら、リュウと共に冷たい校舎を駆け抜けた。

 遠のく人の気配。みんな決まりよくそれぞれの教室に収まっていく。これから始まる長い夏に心躍らせながら。そこにもうあたしの心はない。


 リュウが「携帯を貸せ」と突然手を差しだし、戸惑いながらも自分の携帯を制服のポケットから取り出しその手に乗せる。リュウはそれを受け取ると手早く操作し耳にあてた。

 どうやら電話をかけているらしい。こんな時にいったい誰に。


「――イリヤか?」


 次の瞬間、リュウの口から飛び出した名前にあたしはぎょっとしてその横顔と携帯を見つめた。おそらくすごい形相で。


 イリヤって…いま、イリヤって言った?

 イリヤって、あのイリヤ?


「ちょ、待って、イリヤって…」

「俺だ。リュウだ。使えたようだな」


 リュウはそう言って、携帯のスピーカーをオンにする。あたしの質問になどまるで答える気はないようだ。

 そうこうしている内にリュウが耳元から下ろしてあたしにも聞こえる位置まで下ろした携帯から、どこか懐かしくさえ感じる声が聞こえてきた。離れてそう時間が経ったわけではないはずなのに。


『もうなにその身勝手なかんじ! マオはどうなったの、どうしてるの?!』

「そちらの今の状況を手短に話せ」

『もーーー! こっちは! 大変だよいろいろ…!』


 携帯の向こうから少しだけノイズ混じりに聞こえるイリヤの声。普段は凛と通るその声が、今は隔てた世界の分だけ遠い。当たり前なんだけれど。

 まさか一度諦めた世界とこうして簡単に繋がれるとは予想もしていなくて、いまいち思考が追い付かない。

 だけどあちらの状況が知りたいのはあたしも同じだ。今みんなはどうなっているのか。

 問い質したい、イリヤと話したい気持ちをぐっと抑え、ひとまず口を噤んで耳を傾ける。

 

『いまは、停戦中…というか開戦と同時に海域を乗っ取られて、ボクらみんな動けない状態。波も風も全部あっちの手の上。魔導師たちも魔力を使えず、船を動かすこともかなわなくて…』

「乗っ取られた? 誰に」


 開戦したというイリヤの言葉が事実なら、アズールの魔導師であるリュウは敵同然だ。それはきっとイリヤも分かっている。

 だけど今はそれ以上に深刻な状況であることがイリヤの声音から聞いてとれた。


『…正真正銘、最悪な相手だよ…すべての海の王さま、海神王・エリオナス…そしてそれに連なる神々と、眷属たち。ボクら人間に審判を下す為、千年ぶりにこの海に戻ってきた』

「…!」


 ――トリティアが、言っていた。示唆していた。

 海を取り戻すと。

 人間を、そして大地を滅ぼすと。


『今は海の王・エリオナスが与えた一時の猶予の時間。あちらの要求は、かつて奪われたものすべてを返すこと。ひとつ残さず、取り零すことなく。できなければ…人間の生きる地はなくなる。海すらも。…アズール側の偉い人と、それから陛下が内密に連絡をとって対策を話し合っているけれど…どうなっているのかは、ボクらには分からない』


 海の王――トリティア達海神すべての親。

 それはつまり…


「マオに魂の一部を分け与えたと聞いていたから、人間には少なからず友好的かと思っていたんだがな」

『友好的なんて、冗談じゃない。あんな、おそろしい存在…! 絶望にカタチだけを与えたような、あんな冷たくて残酷な存在…! マオのお父さんなんてとても思えないよ…! エリオナスは力づくでも奪い返すつもりなんだ…きっと、全部…!』


 悲鳴にも近い、イリヤの吐き出す叫び声。泣きながら零したイリヤの言葉に、ふと何かが脳裏を過る。

 なんだろう。何かが頭の片隅で、胸の奥で。ひっかかっている。きっと、大事なこと。


「…それってもしかして…あたしも、はいってる…?」


 思わず口をついて出た言葉が、電話の向こうの相手にも届いていて。

 向こうで息を呑む気配。それから沈黙。


『……マオ…?』

「…そうだよ、イリヤ」

『……ッ、マオ……!』


 嗚咽交じりに吐き出される、自分の名前。

 今すぐにでもその隣りに飛んで帰って抱き締めてあげたいのに。

 今はあまりにも遠くてそれは叶わない。


 小さく幾度も呼ばれる自分の名前。その度に胸が熱くなる。現しようのない気持ちが込み上げる。

 あの世界で何もできないと思っていた自分が、初めて手にした自分の力。それがまたそこで、小さく火を灯す。


「大丈夫、イリヤ。泣かないで。あたしもすぐにそこに行くから」

『ダメだよ、マオ…来ちゃダメ。せっかく帰れたのに…! エナリオスは、マオをずっと探していたって…今、こっちに来たら…! マオが、連れてかれちゃうよ…!』


 今きっと、自分たちの身すら危うい状況なのに。それでもイリヤはあたしのことを心配して涙を流してくれている。

 そうしてあたしという他人に心を差し出してくれる人がいる限り。

 あたしにもそうする権利があるはずだ。

 それは誰にも止められない。止める権利などない。


「あたしの心はもう決まってる。もう誰の忠告もきかない。イリヤはどっちだってきっと、泣くでしょう? だったらあたしの傍で泣いたら良いよ。例えまたあたしが、無力なあたしになったとしても…その涙を拭うことくらいは、できるはずだから。その為には傍に居なくちゃ、それも叶わないんだから」


 きっぱりと言ったあたしに、イリヤはまた電話の向こうでか細く声を上げた。

 守りたいなんて傲慢だと今でも思う。ただ、あたしは。

 失いたくない。それだけなんだ。


「とにかく、状況は分かった。“ずれ”があるから、すぐにとは言えないが…そちらに向かう。それまで持ちこたえろと、双方の王に伝えておけ」


 リュウは言うだけ言って一方的に通話を切ってしまった。

 それから携帯をあたしに付き返す。それを受け取りながら、歩みを止めないリュウの横顔に問いかける。


「どうやって、イリヤと…」

「俺の携帯を持たせていただけだ。簡単な操作方法だけは伝えていたしな」


 なるほど。あたしの携帯から自分の番号にかけ、それをイリヤが出たというわけか。

 そうだ、何故か。

 繋がるのだ。このラインは。

 ぎゅっと。固く携帯を握りしめる。ほんのりと熱の篭った温もりを。



 リュウは校舎から出ると裏庭の方へと足を向けた。行先を知らされないあたしは、まっすぐと目的地に進むその背中を必死に追いかける。

 整備された様子のない雑草混じりの砂利道を抜け、木々の生い茂る中を必死に進む。腕や足にいくつもの掠り傷ができても気にしているどころではない。

 この先に一体何があるのか見当もつかない。道らしきものがあるということは、どこかに続いているのだろうけれど――


 やがて行き着いたそこは、とても小さな祠だった。

 学校の敷地内にこんな場所があるなんて知らなかった。ここにこんな、忘れ去られた神さまが居るなんて――


「セレスとの繋がりが弱まっている」


 言って足を止めたリュウが、おもむろにシャツをたくし上げて肌を晒す。

 視線の先にあるのは赤い紋様。それがわずかに掠れて薄れていた。

 見たことがある。全く同じものではない。だけどそう、確か。アトラスに乗っ取られた、アールの体にも同じようなものがった。

 海の神々との契約の刻印。

 リュウの心臓の上にあるこれはきっと、セレスの刻印。セレスとの契約の証なのだろう。


「…シェルスフィアの少年王の、呪いの話はエルから聞いている」

「…!」


 突然、何を。

 だけど忘れていたもうひとつの脅威が唐突に思い出される。

 シアがその身で受けている、命を奪う呪い。

 例え戦争いまを無事に越えられたとしても、その呪いを解かなければシアの命は零れ続けるだけ。


 思えばそれが、あたし達の――はじまりだった。


 リュウは乱れたシャツを直しながら、再び歩みを進める。あたしもその後へと続く。おそらく目的地はこの近くで間違いなく、歩みはひどくゆっくりとしたものに思えた。気持ちがいでるせいだろうか。

 小さい祠の更に奥。木々に隠されるように、護られるように。だけど光の降り注ぐ、開けた場所に出た。


「王族の体に現れたというその呪印を、お前は見たことがあるか」

「え、や…ない、けど…」


 シェルスフィア王家の命を次々と奪った、呪いの呪印。それが体に現れ、シアの家族は、親族は…皆死んでしまった。ひとり残ったシア以外。そしてその呪いは今もなお、シアの体を蝕んでいる。

 そしてひとりだけ例外が居た。呪印の現れなかった唯一人。シアの義兄、シエルさんだ。当初術者はシエルさんだと疑われ、そうして国を追われることになった。

 話だけは聞いていたけれど、それを実際に見たことなど一度もない。


 答えたあたしに、リュウは目を細める。意地の悪そうに、皮肉を込めるように。


「一度でも目にしていたなら、おそらくどこかで気付けただろう。お前なら」

「…どういうこと…?」


 やがてリュウは歩みを止める。ぴたりと、目的の場所の前で。

 目の前に現れたのは、古びた井戸だった。殆どが壊れかけていて、もはやその役目を成していないことは一目瞭然だ。

 ぽっかりと穴の開いたその奥で、水音だけがやけに耳につく。おそらく、地中ではない。どこか別の場所に繋がっている。そう確信があった。


「その呪印は、建国王――初代シェルスフィア国王と、“女神リズ”との契約の証。だけど永い時の中、約束は少しずつ違えていった。その果てが呪いとなり、王家の命を奪った。はじめからそういう、約束だった」

「…リズさん、が…?」

「正しくは、その名ではない。その真名まなを彼女に還さない限り、呪いは決して解けないだろう。…エルがいうには、だがな。そしてそれを知っているのは――おそらくもう、世界でただひとり、お前だけだ」


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