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「マオ、来い」


 レイズはそれだけ言って部屋の外へと目配せした。

 言われずとも、ひとりで来いという意味だろう。

 どうしよう。怒っている。絶対怒ってる。

 また勝手に居なくなったんだから、当たり前だ。

 ちゃんと自分からレイズのところに説明に行くつもりではいたけれど、心の準備がまだできていない。

 思わず隣りのイリヤとクオンに助けを求めるも、流石にひとりで行ってこいとばかりに無視された。イリヤはともかく、クオンくらいはついて来てくれると思ったのに。ひどい。


 観念して、逃がさんとばかりにドアの外で自分を待つレイズのもとへと足取り重く歩き出す。

 すれ違いざまにクオンに手首を掴まれた。

 びっくりして振り返ると、自分を見下ろす真剣な眼差し。


「何かあったら、名前を呼んでください。今の私なら、ある程度の結界なら跳び越えられます」


 熱の篭るその手。

 そうだ、向こうの世界に戻る前、こっちの世界で最後に別れたのはクオンだった。

 きっとクオンにも、たくさん心配かけた。

 その手首に自分の贈ったブレスレットが服の袖から覗いて、胸が疼いた。

 向こうの世界に置いてきたひとの手が甦る。

 差し伸べてくれたのに。その手をとれなかった。


「…分かった。あとでシアが言っていたこと、詳しく教えて」


 あたしの返事にクオンもこくりと頷いて手を離す。

 それから部屋を出て外で待ち構えていたレイズの後に続いた。


 レイズがあたしを連れてきたのは、船の甲板だった。

 てっきり部屋でお説教かと思っていたので拍子抜けする。

 まだ夜の明けきらない、静かな海。ぶるりと微かに身震い。流石に少し、肌寒い。

 自分の腕を抱きながら、レイズの隣りに並んで目の前に広がる光景を見据える。

 夜空と海の境界が、全く同じ色で溶けていて見えない。まるで繋がっていて、境界なんてないみたいだった。

 海に呑まれたのか、空に呑まれたのか。

 僅かばかりの星が、視界いっぱいに散らばっている。


「…本当なら、この海にも。海の加護の柱があった。…お前、光の柱って分かるか?」


 あたしの顔は見ずに、レイズがぽつりと零した。

 加護の柱。

 それは初めてこの世界に来たとき、シアに見せてもらったあの光の柱だろうか。

 この国を守っていたという、神々との約束の光。


「…うん、一度だけ…見たことある」

「…その光が、国境の証であり指針となって、船乗りたちを見守っていた。だけどこの海の光はもうずっと前に消えた。…見放されたんだ。この海の神とやらに」


 レイズは時々、こういう言い方をする。

 船乗りとしての儀式やまじないを重んじるくせに、神さまだとかそういった類のものを崇拝する素振りは全くない。

 王族のことも、どこか嫌っているというか、好意的でないのは明らかだった。

 今のこの国の情勢じゃ仕方ないのかもしれないけど…だからこそ、あたしとシアの関係は、できることなら隠したい。

 レイズにはたくさんの借りがある。感謝してるしその恩に報いたいとも思ってる。

 信頼しているし、大事な仲間だとも思っている。

 できるだけ隠し事はしたくない。余計な心配はさせたくない。

 だけど、今のあたしの中での優先度はシアのほうが上なのだ。


「レイズは神さま、信じてないの…?」

「…俺には魔力もないし、目に見えないものは信じない。俺は俺のこの目と、この手で触れるものを信じる」


 きっぱりとそう言ったレイズは、とてもらしいなと思った。

 月明かりに照らされるその横顔に、その瞳に、迷いはないのだろう。

 その横顔を見つめて、それから視線を遠く見つめる。

 なぜだか懐かしいと感じだ。

 たぶんそれは、あたしではなく。


「…あたしは、迷ってばかりだった。信じられないものばかりで…信じたり、選んだり、そういうこと自体を避けてばかりだった。そんな自分に、できることなんて何もないと思ってた。…ここに、来るまでは」


 夜露で湿った感触の手すりは木と潮の匂いがした。

 生まれ育ったあの町でもそれは、すぐ近くにあったもの。

 海の傍で生まれて育った。

 きっと離れられなかったんだろう。

 ――お母さんが。


 視界がふと光彩に溢れる。

 夜の海が、色を間違えたかのように白い光に包まれて。

 気配がかわる。世界がかわる。

 隣りに居たはずのレイズが、居ない。

 代わりに居るのは、自分をここへ呼んだひと。


「……この海の神さまは…あなた?」


 まっすぐ前を見据えたまま、相手の姿も確認せずに、あたしは小さく問いかけた。

 姿を見なくとも、今隣りに誰がいるのかはイヤでもわかった。

 ずっとあたしの中に居て、時々無遠慮にその力であたしを振り回して、だけど味方みたいな素振りであたしをこの世界に連れてきた。


『そうだよ。マオ。いちばんさいしょ、ここはぼくの海だった。――シェルスフィアの王族に、捕まるまでは』


 いつも輪郭を成さないその姿は、今日はやけにはっきりと、その存在を象っていた。

 整ったその顔立ちは中性的で、長い睫は涙に濡れている。

 そこに確かに溢れる感情は、あたしにはよく分からなかった。

 ただ、分かるのは。

 帰ってきたかったのだ。ここに。

 帰ってこれたのだ。故郷ここに。


 大きな瞳は瞬きもなく、目の前に広がる光の海をただ見つめている。

 おそらく彼の感情に、あたしの感覚も感化されてそう見えるのだろう。

 淡く光る光の泡が、空へと浮かんで溶けていく。

 世界を行き来する時のそれ。

 トリティアの力の現れだと思った。


『ぼくが居なくなって、ぼくの配下の者達が、ぼくの役目を引き継いだ。幾人かは神格化し神として、この海を守ってきた。ここは大切な場所だから。契約によって光の柱に捕らわれたぼくは、ただ見守ることしかできなかった』

「…でも、ここには誰も、居ないって…」

『…そうだね。力の弱いものは、喰われる。王族はこの海の真の意味をわかっていない。この海を奪われたら、この世界はめちゃくちゃになる。だけど先に引き金をひいたのは人間たちだ』


 いつもどこか震えるようだったその声音が、はっきりと意志を以て言葉になる。

 哀しんでいるのか、憐れんでいるのか。

 神と人との境界が、くっきりとその瞳に浮かんでいた。


 今までトリティアは、力が弱く安定していなかった。

 この海に帰ってきたかった理由なんてひとつしかない。

 力を、取り戻す為だ。


「…誰が…奪うの? アズール? この海が、奪われたら…この国は」


 今さらながら。

 このひとも、トリティアも、神と冠する存在なんだと、再認識する。

 その存在感が身の内から、体に収まりきれずにはち切れそうなほど。

 トリティアがその冷たい色の瞳を、ようやくあたしに向けた。

 誰かが同じ色の瞳をしていた気がするけれど、今は思い出せない。

 ただ、こわいと。本能的にそう感じた。


『ただしくは奪い返すんだ。人間からすべての海を。この世界に愚かで些末な人間は不要だと、我らが父より審判が下る。でも、マオ。君がこの世界を選ぶなら、きみだけはぼくらが守ってあげる。きみはぼくらの大事な末の妹だから』


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