第12章 北の海
1
―――――――…
――ああ、落ちていく。
それとも昇っているのだろうか。
身に覚えるのあるこの感覚。だけど不思議な違和感が、胸に小さな沫のように沸いた。
あたしは一体、どこへ向かっているの――?
誰か、お願い…あたしの名前を呼んで。
自分じゃ上手く、進めない。灯りが見当たらない。進む道が、分からないの――
『――マ…、…』
――ああ、この声は…
『…、マ、…ナ――』
ああ、やっと、やっと会えた。
ずっと…ずっと会いたかった。
『…マナ、行かないで…どうか、ここに…ぼくの傍に…』
泣かないで。
あなたが泣くと、どうしようもなく、胸が痛くなる。
あなたの願いならどんなことだって、叶えてあげたくなる。
だけどわたしは、行かなくちゃ。
もう二度と、会えない――
わたしの愛しい――
「――マオ!?」
「――…!」
叫ぶように呼ばれる自分の名に、一気に意識が引き揚げられる。
急激に夢から覚めたような、ムリヤリ叩き起こされたような錯覚に、心臓が痛いくらいに早鐘を打った。
視界に映ったのは薄い
「マオ…! 大丈夫なの…?! マオってば!」
「……イリヤ?」
心配そうにあたしを覗きこむ、イリヤの顔。その顔や髪からはぽたぽたと温かな滴が零れ落ちてくる。
なんとか体を起こそうした時、自分の体に絡みついてくる感覚に瞬きを繰り返す。全身、びしょ濡れだった。
「…こ、こ…」
見覚えのあるそこは、アクアマリー号の浴室内だった。
靄だと思っていたのは湯気で、あたしは何故か制服のままお湯の張られた木槽の中に居て…目の前には殆ど裸のイリヤが居る。
「なんであたし、こんなところに…」
「そんなのこっちが聞きたいよ! ボクがお風呂に入ってたら、急に光に包まれて…マオがいきなり現れたんだよ! 湯船の中に! 一体今までどこに居たの?! 何してたの?! ボクのことひとりにしないって言ったのに!」
一気にそうまくしたてたイリヤが、ガバリとあたしに抱きついてくる。
お風呂に入っていたというイリヤは裸の肌にタオルを一枚巻いた無防備な姿で、触れる肌は温かく震えていた。
雫の零れる華奢なその肩を見つめながら、漸くここまでの経緯を思い出した。
急にこの船から…みんなの前から居なくなったのだということを。
「ごめん…ごめんね、イリヤ…」
その体を抱き返しながら、自分もほっと安堵する。
自分が無事ここに、戻ってこれたことに。
またここに、この世界に、帰ってこれたことに。
なんだか夢を見ていた気がするけれど、思い出せなかった。
不思議な夢。
幸福と哀しみに満ちた夢だった。どこか懐かしく、なのに胸が抉られるように苦しく。
だけど夢の中で呼んだ名も、呼ばれた名も。まったく思い出せなかった。
だけど今はただ、この腕の中の温もりが愛しく感じた。自分の為に涙して、抱き締めてくれる存在。半ばすがるように自分を求めるイリヤに母性というものがくすぐられる。人の温もりがこんなに心地良いとは知らなかった。
それからふと、体に触れるイリヤの
見た目だけなら文句なしの美少女なのだが、声を取り戻してからの態度や、複雑な生立ち上嘘をついている可能性もあるので、一度確認した方が良いと言われていたっけ。
なんだか改めて思い返すとクオンってちょっとお父さんみたいだ。口うるさくて心配性な。
だけどこんな状況ながら、クオンの心配が杞憂で終わったことを知る。
「やっぱり女の子だよね、あたしより可愛いもん」
「…なんのこと?」
ようやく泣き止んだイリヤが顔を上げる。あたしより僅かに背が低いだけで、向き直るととても近い位置に顔があった。
上気した肌も涙で潤んだ瞳もひどく愛らしい。ここまで男の群れに女の子ひとりで大丈夫だったのか、そっちの方が心配だ。まぁその点はクオンが居るはずだから大丈夫だろうけど。
「なんでもない、こっちの話」
適当に笑って誤魔化すも、視線が思わずその胸元にいってしまう。服越しに触れていたそこには僅かな膨らみ。
イリヤはこっちの世界での成人でいう15歳前だろうとのことだから、胸の発育もまだまだこれからといった所だろう。あたし自身そこまで大きい方でもないし。
とはいえあまり無遠慮に見ていいものではないので、慌てて視線を外す。その様子にイリヤが何か勘付いたようで、「ああ、そういうこと」と少し笑って見せた。
「ボクの性別を確認したかったんだ」
「…ごめん、あたしは女の子だと思ってたよ、勿論。でもクオンが疑り深いというか、思慮深いというか…気になるみたいで」
「あの人らしいけど、当然と言えば当然かな。マオとは同じ部屋だし、ただでさえボクは得体の知れないガキだったしね」
「でもまぁ、誤解も解けたし…クオンにはちゃんと心配いらないって言っておくよ」
「そうかな?」
言って体を離したイリヤが、どこか不適に微笑んだ。そこにはさっきまでの愛らしさはカケラも無い。
「…え…? 女の子、でしょ…? その、胸もあるし…」
イリヤの言葉に思わず瞬きを繰り返すあたしに、イリヤは再びぐっと顔を近づける。
赤みのかかった白い肌に水滴で濡れた輪郭が妙に艶めかしく生々しい。女同士だというのに思わずたじろいでしまうほど。
「相変わらずマオは無防備だね。クオンが心配するのも分かるな。ダメだよ、マオ。見える部分だけを信じていちゃ」
「え…どういう意味…」
その言葉が言い終わらない内に、イリヤがぐいっとあたしの手をひっぱった。
突然のことで抵抗もできず、なすがままにイリヤの手に導かれたそこは――イリヤの体に巻かれたタオルの下。しかも、下半身。反射的に出た抵抗は間に合わなかった。
「クオンの心配は半分ムダだし、半分当たってるかな。ボクにはまだ性別は無いんだ。周りの人間関係や環境によっても大分左右されるらしい。生まれた時は男だったそうだよ。古い風習や生立ちのせいもあって母には女として育てられたから体もそっち寄りだけど、その後の環境が少し複雑だったせいで今はひどく中途半端なんだ。“こっち”もちゃんとあったりとね。だいたい成人までに心と体が選んで性が確立するらしいけど、ボクはもう少し先かな。でもまぁマオが守ってくれるっていうし、マオが女の子の方が良いなら女の子にしようかな。そっちの方がいろいろと便利だし」
目の前で飄々と言うイリヤは年相応に無邪気で、やはり可愛らしくて。
だけどその瞳に垣間見えるものがイリヤの本質なのか何なのかは、あたしには分からないけれど。
とにかくあたしが腹の底から声を上げたことは、言うまでもなかった。
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