第10章 呪われた一族
1
―――――――…
そっと扉を開け中を覗き込む。明かりの灯ってない部屋の奥のベッドに、まだイリヤは眠っていた。
少し躊躇しながら部屋に入り、鍵を閉める。夕食時に様子を見に来た時も起きる気配は無かった。もう半日以上このままだ。
本当に大丈夫なのだろうか。あの首飾りの呪いがなんであれ、直接身体に影響のあったものだ。そういう場合は解かれた反動で眠る場合が多いとクオンは言っていた。
レイズに事情を話し刺青の件はイリヤが目を覚ましてからでいいと了承は得た。だけどトリティアの力に関わることはすべては話せず、説明は一時保留になっている。
誤魔化しはしたくなかったし、だけどイリヤの話も聞く必要があった。だからイリヤが目を覚ましたら事情を話せる限りで話すということになったのだ。
「……イリヤ…?」
枕元でそっと呼びかけてみる。だけど何の反応も無い。
レイズの部屋と違ってこの部屋には窓が無い。部屋の壁にかけたカンテラの明かりがその輪郭を浮き彫りにする。
白い頬に長い睫の影が落ち、すっきりと通った鼻筋と形の良い唇。こうして見るとやっぱり人形のように綺麗だ。
小さく息を吐いて、そっと枕元から離れる。流石に一緒にベッドに入ることは憚られたので、床に毛布を敷いて寝る気でいた、その時だった。
「…ぅ、わ?!」
突然、腕をひかれる。咄嗟の事で受け身も何もできず倒れこんだそこは、柔らかなベッドの上だった。
視界がぐるりと反転し、重力が体全体に圧し掛かる。目の前には天井と、そして――
「い、イリヤ…?!」
目を覚ましたイリヤの姿があった。
その姿にほっと安堵するも、状況がおかしい。あたしは何故か今、イリヤに組み敷かれているような状況だ。
握られた腕はその細さから想像もできないほど強い。身長はあまり変わらないはずなのに、こうして覆いかぶさられると自分よりひどく大きく感じた。
寝ぼけているのかと思ったけれど、イリヤは柔らかく微笑んでいた。
「…イリヤ?」
「改めて、マオ。あなたにお礼を言わなくちゃ。もう諦めてたんだ。あの呪いから解放されることに」
なんだかヘンだ。雰囲気というか…様子がおかしい。こんな風に、笑う子だった?
「やっと、自由だ。もう縛るものは何もない。ボクは祠には行かない。あんな所、二度と行く気はない。ボクはここから逃げようと思う。その為には人質が必要だ。ボクは何にも持ってないから。あの王国騎士は鋭く賢い。王国騎士にボクの存在がバレてしまった以上、国がどう判断するか分からない。その前にボクは海に帰る。
マオ、一緒に来て――」
今この状況を、目の前のイリヤが放つ言葉を、上手く呑み込めない。ただ分かるのは。
「……力を…貸してくれるんじゃ、なかったの…」
「約束した覚えはないよ。ボクを買ってくれたのは感謝してるけれど、与えられた自由をどうしようかはボクの勝手。そうでしょう?」
「…確かに、何か形でそれを約束したわけじゃないけどっ、誠意の問題じゃないの…?! こちらの望む仕事をしてくれたら、その後はあなたの自由にしたらいい、でも…っ!」
「誠意? それをボクに問うの? お金でボクを買ったあなたが。他の客よりマシだったってだけで、ボクにとっては何も変わらないよ。“これが終わったら”、“いつか”、そんな言葉信用できない。今を置いて逃げるチャンスは無い。こんな幸運はもう二度と。ボクを買ったのがあなたで、そしてあなたには神の力が宿っている。忌まわしい呪いも解けた。あなたとボクの立場は逆転してるんだ」
どういうこと? 確かにイリヤはもうあらゆる意味で自由を取り戻したのかもしれない。だけどどうしてそれで立場が逆転するのか分からない。
あたしにだってまだ武器はある。そう簡単に言うことを聞くわけにはいかない。
見下ろす瞳がオレンジに燃えて細められる。今目の前にいる人物がイリヤだということ自体が信じられなかった。
「ボクの“力”は普通の人や魔導師には全く効かない。だけど唯一効力を発揮する相手…それが海の神々だ。つまりあなたの力はボクには効かない。その前にボクがあなたを支配できるから」
「……どう、いう…こと?」
「ボクはこの海で唯一神々と言葉を交わせる血を持つ者だ。国の歴史に抹消された血族の生き残り。ボク達の一族はシェルスフィア建国より遥か昔から海の神々と親交してきた。だけど建国時の戦争を経て関係は変わり、一族は滅ぼされた」
「――――…!」
“神の力”が、効かない? そんな、そんな相手が居るなんて。“契約”も無しに神を従えさせるなんて、そんなことできるの? 許されるの?
そんなことができてしまったら――
「分かったら大人しく来て。信じられないなら試してみても良いよ。だけどボクの歌の効力は、既にあなたが知っているはずだ。声を取り戻した以上、効力は高まってるはず」
「…歌」
あたしにしか聞こえなかった、あの歌。
あの歌を聞いていたのはトリティアだ。惹かれて心を掴んで離さなかった、あの歌が…海の神々を操るもの…それはきっと、トリティアだけじゃなく――
「…だったらその力、シアの為に使ってもらう」
絶対にその力は必要だ。そしてイリヤの力を絶対にアズールに渡すわけにはいかない。シアの敵を増やすわけには。
「…拒否するわけね。だったら実力行使だ」
「――…ッ」
掴まれた腕に力が篭る。痛みで思わず顔を歪め、だけどイリヤと目を合わせたまま、あたしは息を吸い込んだ。
例えトリティアの力が使えなくても。あたしの武器はもう、ひとつじゃない。
「――クオン!」
叫んだ声に、イリヤがはっと身構える。だけどその次の瞬間にはもう。
「……!」
イリヤのその首筋に、鈍く光る切っ先が向いていた。ごくりと目の前でイリヤの喉が鳴り、腕の力が抜けていく。
すぐそこでイリヤの喉元に剣を突き付けた、クオンの冷たい目がこちらを見下ろしていた。
来てくれる確信はあったけれど、こんなすぐにだとは思わなかった。だけどそうだ、クオンは転移魔法が使えるんだ。部屋の鍵なんかクオンにとっては無意味なのだ。
ほっと胸を撫で下ろすあたしにクオンが視線だけ向ける。何故だかそこには不機嫌さと非難の色が混じっている気がした。それから一言口にする。
「遅いです」
クオンはあっという間にイリヤを縛り上げ布で口を塞ぐ。そしてイリヤをどこか乱暴にベッドに放り、あたしに視線を向けた。
掴まれていた手首を擦りながらあたしは、どこか茫然とその様子を見ていた。
「怪我は」
「だ、大丈夫…」
やはりクオンは有能なんだなと再認識する。魔法なんか使わなくてもこれなら、魔法を使った実戦は一体どうなるんだろう。あまり想像したくなかった。
「…来てくれてありがとう…近くに居たの?」
「ずっと扉の外に居ました」
「え、ならもっとはやく来てくれても良かったんじゃ…」
言ったあたしをクオンはじろりと睨んだ。それに思わず体が固まる。なにやら墓穴を掘ったことがイヤでも分かった。
「…やはり無自覚なのようなので言っておきますが、この部屋には結界がありました。おそらくマオが部屋の鍵をかけると同時に発動したのでしょう。気配を感じたので来てみたのですが、その様子だと外からの呼びかけも届いていなかったようですね。術者が許可した者以外すべて拒否する仕組みになっているんでしょう」
「え、それあたしがやったってこと?」
「貴女以外に誰がやるというんです。現に貴女が私を呼んだので漸く中に入れました」
「…そ、そんなこと言われても…」
クオンが開口一番に「遅い」と言ったのはそういう意味だったのか。
自分の意思以外の所でそんな風に勝手にやられても困る。現状結果的に自分を守るしかできてないのもなんだか情けない。しかも今回は逆効果になってしまったなんて。
「何にせよ説明して下さい。これは一体どういう状況ですか」
音も無く剣を鞘に収めながら、その視線を今度はイリヤに向けた。不本意そうに睨むイリヤの視線などものともせず。
それからここまでの状況やイリヤとの会話の内容をクオンに話す。もはや自分ひとりではいろいろ処理しきれなくなっていた。
話を聞き終えたクオンは表情を変えることなく先ほど収めた剣を再び引き抜く。そしてそれをイリヤの眼前に突き付けた。
「クオン?!」
「彼女の力が我々にとって必要であり、そして今ここで彼女を逃がすわけにはいかないという状況は分かりました。それならここで足を切り落としてしまうのが一番の解決策です」
いたって平静に言うクオンの目は本気で、その内容に一瞬思考が停止する。クオンは冗談は言わない。自分の使命や主の為に、それを平然とやってのける人だ。
この世界にきたばかりの頃、リシュカさんに殺されそうになった時のことを思い出す。ここはそういう世界なのだ。
「クオン、やめて…!」
「何故です。ついでに舌を切り落とすか喉を潰すかした方が良い。いざという時貴女の力を封じられたりまた盾にとられては困ります」
クオンのその憮然とした物言いに思わず眩暈がした。平静には見えるけれど、なんだかクオンらしくない気がする。
もしかしたら冗談なのだろうか。だってそんなことしたら本末転倒だ。あたし達にはイリヤの力が必要なのに。
「なんにせよこちらを害する可能性があるのであれば、もう自由を与えるべきではありません。もともと彼女には破格の金額を出しているのです。所有物の管理と躾は怠るべきではありません」
「……やめて」
クオンのその物言いに。心臓が、手が、震えていた。
それがどういう感情からくるものなのか自分でもよく分からない。
ただ、哀しい。それだけははっきりと分かった。
「イリヤは物じゃない。そういう言い方は、やめて」
「…ですから、厄介なのです。人間には感情があります。打算や裏切りや人を陥れる心が。何に代えても自分の命を守ろうとする本能が。貴女もそれを身を以て知ったでしょう」
クオンの言うことは、きっと正論なのだろう。多分あたしが知らな過ぎるのだ。幼すぎるのだ。そんなことは分かってる。でも。
「だけど、やめて。イリヤのことはあたしが全部責任を持つって約束した。代償ならあたしが払う」
「……これはもう、貴女ひとりの問題では無いのですよ」
「だったらあたしの意見も聞いてくれていいでしょう。とにかくやめて。剣を下ろして。イリヤを傷つけないで…!」
人が人を侵すのは、間違っている。奪うばかりだと神の力を嫌悪しておいて、結局やっていることは同じだ。
ここは戦場じゃない。イリヤは物じゃない。
その尊厳は、守られるべきだ。
「全部力で押し切ってねじ伏せてたら、言葉すら無意味なものになる。イリヤはあたしが説得する。クオンは、出て行って」
その言葉と同時に、クオンが一瞬で視界から消えた。
だけど驚きはしなかった。それを解っていて、“やった”のだ。今度は自分の意思で。
感情の波が揺れている。この部屋いっぱいに満ちている。自分でも上手く抑えられない。
あたしが拒絶したから、クオンはこの部屋からも拒絶されてしまったのだろう。そしてまたあたしが呼ぶまでは、きっと入ってこれない。
あたしも大概身勝手に力を利用しているなと思う。振り回されているのは一体どっちだろう。
それから顔を上げてイリヤの元へと近づく。口を塞いでいた布と拘束していた縄を解き床に捨てた。
解放されてもイリヤは逃げ出そうとはしなかった。おそらく外にはクオンが居るので逃げても無駄だと分かっているのかもしれない。
イリヤはその琥珀色の瞳にあたしを映して、口を開く。もう笑ってはいない。まっすぐ対峙する。
「…あの人の言っていることは、正しい」
「分かってる。だけどあたしの心がそれを許さないんだから、仕方ない」
「…あなたがあの人を呼ぶよりはやく、ボクはあなたの命を奪うこともできるかもしれないよ?」
「しないよ、イリヤは。奪われてきた人間は、決してそっち側に行ったりしない」
「…あなたのこと、利用しようとしてるのに? こっちの目的が済んだらあなたは用済みでジャマなだけだよ」
わかっている。
あたしはまだこの世界の見えない決まりや価値観についていけていない。
だけどそれでも良い気がした。
だってここは、あたしの世界ではないのだから。
だからあたしはあたしの価値観で、あたしの思いのままに行動するだけだ。
「だって一緒にって、言ってたもん。いいよ、一緒に行く。どこにだって行く。だけどその前に、あたしに力を貸してほしい」
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