3
一番大きな人だかりが、このギルド街でも有名でギルドの店らしい。
クオンに連れられて、なんとか人混みをかきわけ前に進む。耳にする会話から察するに、やはりこの後の商品がラストで目玉の商品らしい。そしてそれは物や海図や情報ではなく、人間。
ずっと気になっていた。だけど行ってそれを確かめて。どうする気なのだろう、あたしは。
「ぅわっ」
「マオ、こちらへ」
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人波の中、クオンの声の方に手を伸ばす。その手をとったクオンが力強くひく。一瞬視界が遮られ、だけどすぐに明るく開けた。
もう日は沈みかけていて、明るいと思ったのはすぐ目の前に大きな水槽があったからだった。水槽のガラスが西日に反射して、眩しくて目を細める。
気付けばそれは人だかりの最前列で、手元には腰あたりまでの木の柵があった。簡易的な木の柵はひどく質素な作りで、力を込めると簡単にぐらつく。
勢い余って体重がかかってしまったせいで柵ごと倒れそうになったその時だった。後ろから長い腕が伸びてきて、あたしの体を後ろに引き寄せる。
咄嗟に掴んだ腕は男のひとのもの。あたしはその腕の中にすっぽりと収まっていた。
「お披露目は済んでいたようですね。これから競りが始まるようです」
頭の上から、クオンの声。背中に体温を感じた。
「商品説明用の看板が出てました。口上は“深層の歌姫”――遥か昔に姿を消したとされる人魚の末裔と言われる人種の生き残りもしくは先祖がえりだそうです。ただしそこに居るのは声すらも失い、しゃべることもできないそうですが。歌うことはできない上に尾があるわけでもないので真相は定かでは無いですが、海水無しでは生きられず足が乾くと歩くこともできないという特徴だけは伝承と同じだったのでそう銘打ったのでしょう。あれだけの見目では値も上がるでしょうね」
クオンがここに辿り着くまでに仕入れたらしい情報が、頭の上から降ってくる。それをどこかぼんやりと聞きながら、あたしは目の前の水槽から目が離せなかった。
“商品”との境界代わりであろう柵から、僅か数メートル先。大きな水槽の三分の一ほどは透明な水…おそらく海水で満たされていた。
その中に居る、ひとりの少女。その表情まではっきりと判るほどの距離。
僅かに俯いていた顔が上がり、大きな瞳がまっすぐあたしの方に向く。目が合った彼女は、僅かに口元だけで微笑んだ。ずっと聞こえていた歌声は止んでいる。
不思議だ。確信に満ちる体と心。
あの歌声は、彼女だ。彼女があたしを呼んでいたんだ。
水槽の中で膝を折り底に手をついた彼女は、今まで出会った人の中で一番綺麗だった。
シアやレイズも整った顔立ちだしある意味綺麗だけれど、そういうものとは異なる。それこそ神秘に近い精鍛さを感じる。
くくられた髪は濡れているせいもあるのかひどく艶やかで、長く腰のあたりまで波打っている。大きな瞳は琥珀色。長い睫はそっと伏せられ、肌は陶器のように白くて綺麗だった。薄絹のような白い衣装と、全身をとりまく真珠の装飾。
声を失った、深層の歌姫――
ガラス越しに見つめ合って、掴んだままだったクオンの腕をぎゅっと握る。クオンの呼吸があたしの前髪を揺らした。自分でも驚くくらいやけに冷静に、あたしが今考えていることはただひとつだった。
「クオン…クオンってお金、持ってる?」
「……そうですね。おそらく貴女が想像しているよりずっとは私はこの国にとって有能な人間で、それに見合う働きをしてきた自信もあります。国から相応の対価は頂いてます」
「あたしは、持ってないの。ただの女子高生だし…何よりこの世界のお金を持ってない」
「そうですか」
「お願いがある。お金を貸してほしい」
「お断りします。今ここで彼女を買って、どうするのですか? 貴女にはこれからやるべきことがあるんですよ」
クオンはあたしの考えていることなんてお見通しのようだ。だけどあたしだってクオンがそう答えることくらい想像ついた。ここで退いていられない。
「でも、あたしには分かる。彼女はあたしを…ううん、あたしの中のトリティアを、ずっと呼んでた。トリティアがずっとそれに惹かれていた。あたし達の目的は? これから行く場所は? ねぇ、クオン。もしかしたら彼女の力が必要なのかもしれない」
「……一理あるといえばありますが、確証が低すぎます。彼女の素性も正体も得体が知れない。もし彼女が相応の働きをできなかったらどうするのですか? 彼女の人生に、貴女は責任を持てるのですか? 貴女はいずれ帰る人間なのでしょう」
「お金で買った分は、責任を持つよ。だけどそれから先は彼女が決めれば良い。クオン、あたしにはやっぱり保護だとか保証だとか、身勝手にしか思えない。そうまでして生きていて幸せなんて思えない。本当にそうしなきゃ生きていけないのなら、それがきっと運命なんだよ。人は自分の力で幸せになる道を諦めちゃいけない」
だけどそれが所詮個人の価値観であることも分かっている。だから本当の気持ちは、望みは、彼女自身に選んでもらえばいい。
トリティアがあたしに選べと言ったように。
「生きる為に選ぶ権利は、誰にでも等しくあるはずでしょう」
水槽の揺れる水の中。彼女の足は鎖で繋がれていた。
あたしにとってはそれだけで、彼女をそこから出す正当な理由に思えた。
「……そこまで言うのなら、分かりました。貴女の覚悟を私は見届けましょう。ただし貸すだけです。必ず返して頂きます。この世界に居る間に」
「…! ありがとうクオン…!」
勢いよく見上げたクオンは、少しだけ笑っているように見えた。だけどその表情は翳っていてよく見えない。そうこうしている内にテントの裾からひとりの男が出てきた。
「お礼は無事彼女を落札してから言って下さい。彼女は紛れも無く数十年に一度の最高の商品と言えるでしょう。ここに居る全員が彼女目的と言っても過言ではありません。私は口出ししません。マオ、貴女自身が責任を持って彼女を競り落とすんです」
「…わかった。でも少しだけ教えて、この国の物価っていうか…相場ってどれくらいなの?」
あたしはまだこの国で買い物をしたことが無い。買い出しに行った時にこの国の通貨が“フィル”だということは教えてもらったけれど、支払等はすべてジャスパーに任せきりだった。
「そうですね…200万フィルで家が買えます。倍出せば船が一隻。500万もあれば遊んで暮らせるでしょう」
クオンの言葉を聞いている間に、出てきた男は水槽の前まで歩み出るとこちらに向かって頭を下げた。観客たちがはやし立てる。
ゼストと名乗った男はこのギルドの商人で、競りの司会進行役らしい。
「さぁて皆様大変長らくお待たせ致しました。これより彼女の身元引け請け人の競りを行います。落札条件はただひとつ、彼女の価値を最も理解しそれに相応する対価を約束できる人です」
競りの始まりとも言えるその言葉に、周りの人たちが熱気を放ち歓声を上げる。それに狂気じみたものを感じ、思わず強くクオンの腕を強く掴む。
気のせいか周りは男の人ばかりだ。見物人も居るのだろうが、皆それなりに身なりの良い恰好をしていた。
「競りというものを理解しているならそれほど難しいことではありませんよ。先の客より上の金額を言えばいいだけです」
「でも、一応クオンのお金なわけだし、価値も知らずにそれをするわけには…それにその、どれくらいまで出せるのかを知っておかないと」
「そこはひとまず気にしなくていいです。いいですか、競りと言っても元締めはあの男です」
声を潜めたクオンが背を屈めあたしの耳元に唇を寄せる。僅かに身じろいでそれを聞きながら、視線を目の前の男へと向けた。
「ようはあの男に売ったと言わせれば、マオ、貴女の勝ちです」
ゼストと名乗ったギルドの商人。彼らが一番欲しいのは、お金と、そして――
「――わかった」
クオンに合わせるように自然と声を小さくしたまま、あたしは頷いた。それと同時にいちばん最初の金額が声高に提示された。
ゼストが開始の合図をしてから十数分、値は上がり続けている。競りへの参加は誰でもでき、金額を上乗せして叫ぶだけという簡単な仕組みだった。
次々と叫ばれる金額の方向にゼストが指さしで相手と値段を確認し、周りを煽る。
タイミングを計っているあたしはさっきからもう何度もクオンの腕をきつく握ってしまい、だけどクオンは何も言わなかった。
金額は100万フィルをとっくに越え、もうすぐ船が買えそうな値段まできている。仲間の為に船を捨てたレイズの顔が浮かんで、やりきれなくなった。
「――やめますか」
僅かに震えを感じとったのか、クオンがそう言葉を落とす。
あたしはふるふると首を振り僅かに俯いてしまった目線を再び上げる。
「怖気づいたのであればやめても結構ですよ」
「違う、ムカついてるだけ」
人垣の向こうで新たに上がる金額に、既に観客に徹している見物人達からは囃し立てるように歓声が上がる。まるでゲームか何かを見ているみたいな笑みを浮かべて。
「ここに居る人たち、一度全員“あっち側”に行ってみればいい。彼女のことなんだと思ってるの」
ジャスパーが一緒じゃなくて本当に良かった。今はそれだけが救いだった。
一瞬だけクオンの腕がぴくりと反応した、その時だった。
「――500万!」
人垣の頭上に飛び出た手と共に叫ばれる金額。その声に周りからどよめきが沸く。
いっきに値段が跳ね上がった。
周りの視線がその人物に向くも、どんな相手なのかはここからじゃ見えない。ゼストも驚きの表情を作り、すぐに商人の顔に戻す。
「出ました500万! これは我がギルドでも過去最高額ですね。さて、他には?!」
続く声は無かった。伸びているのは最高額を出した男の手のみ。指輪をいくつも嵌めた指は丸々としていて、声も若くは無かった。
頭のてっぺんにクオンの視線を感じる。
――500万フィル。それってあたしの世界だと、どれくらいなんだろう。
クオンは気にするなと言っていたけど、気にしないわけにはいかなかった。
だけどこれは、ひとりの少女の自由の値段だ。
ようやくあたしは腕をまっすぐ上に掲げた。
やっぱり少しは緊張していたのかもしれない。腕の感覚があまり感じられなかった。
気付いたゼストが物珍しそうな視線を向ける。周りの客たちからも好奇の目。今更ながらクオンが後ろに居てくれていることに感謝した。
それからゆっくりと、あまり大きな声は出せなかったけれどできるだけはっきりと。金額が相手に、ここに居る人たちに聞こえるように、口にする。
「――1000万」
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