第70話 謎の少女、紫明を追い詰める
「どうやら術中にはまってしまったようですね」
狩野紫明は目を瞑り、人の気配を探った。武井はすぐそばにいるが、まるで動きがない。おそらく同じように幻術にかかっているのだろう。手の届く範囲より少し離れたところにいる。そしてもう一人、何者かの視線を感じ取ることができた。それは知った感覚である。下駄の男との対戦のあとと言うこともあり、紫明はそれがごく最近のことであるのは思い出せたが、どこで、誰がということについては思いが回らない。
「ようやくお会いできたわね。もっとも待ち望んでいたわけではないし、できれば会いたくもなかったのだけれども、約束は守らなければならないし……」
それは耳に心地よく、独特のリズムで紫明の心に語りかけてくる声。音色は美しく、凛としている。それでいて言葉の端々にいたずらっぽいさ、子供らしさが混じる女性の声。いや、少女なのか。
「誰だ。知っているが知らない声だ」
狩野紫明はゆっくりと目を開ける。目の前に一人の少女が立っている。
彼女は、まるでフランス人形のような、透き通った白い肌をしていた。
髪の毛は少し重たく感じるくらいに黒々としている。
目はパッチリとしている。
瞳はどことなく日本人のそれとは違うような、色素の薄い色をしている。
「知らない顔だ。見たことも、聴いたことがないのに、私はお前を知っている気がする」
「黒き望みをかなえる者。悲しき想いを見つめる者。深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者よ」
雨は降っている。だが少女は傘を差していないのに濡れていいない。少女は、いや、彼女は現実そこにはいないのかもしれないし、居るのにもかかわらず、その正体を晒さずに幻影を自分に投下しているのかもしれない。いずれにしても、今見えるもの、聞こえるものは、全ておぼろげで怪しげである。
「……そうか、いつぞや私のことを覗き見した人ですね」
「それは私が望んだことではないのだけれど、私に望まれたことを叶えるためには、仕方がなかったというか、しようがなかったというか。でも猫や魚の目を借りてやるあなたのやりようとは、違うとだけ言っておきましょうか」
「黒き望みをかなえる者よ、私はその望みによって、ここで命を絶たれようとしているわけか」
少女はじっと狩野紫明を見つめている。その瞳はあまりにも澄んでいて、見つめる者を吸い込んでしまうようでもあり、見つめられる者の心を映す鏡のようでもあった。
「そうね。大きな意味においてはそれも含まれるかもしれないわね。あなたは後に、ここで死を迎えた方がよかったと、後悔することになるかもしれない。それはどうやら彼女たちの望むところではないようだから、いっそのこと楽にしてあげてもいいのだけれど……」
それは美しく、そしてともて冷たい言葉だった。狩野紫明は自分の中に込み上げてくる一つの感情を抑えるのに必死だった。
「意地っ張りね。こういう時には素直に救いを求めるものよ。もっともそれができないのだから、あなたはこの先、いばらの道を歩むことになるのでしょうけれど」
「知ったようなことを……、俺が何を考え、何をしようとしているかなど、誰にもわからん」
少女はいたずらっぽく微笑み、少し体を屈めて下から覗き込むように狩野紫明に話しかける。
「あなたはもっと自分を知るべきだわ。あなたは「わたくし」でもあり「わたし」でもあり、「俺」でもあり、時に「僕」や「自分」である。幼少の頃のあなたの環境がそうさせたことに自覚を持ちながら、それを必死に抑え込もうとしている」
「うるさい! 黙れ!」
狩野紫明の理性が吹っ飛んだ。
「貴様に何がわかる。勝手に人の心を覗き込むんじゃない!」
少女は止めない。
「あらまあ、他人に対してあなたがしていることを、自分がされると逆切れしちゃうわけ?」
狩野紫明は少女に掴みかかろうと手を伸ばすが届かない。前に進むことも後ろに下がることもできない。
「まるで子供ね。そうやって、いつまでも何かに甘えて、しがみついて……、お姉さんが、そんなに恋しくて?」
タガが外れた。狩野紫明は大きな声で泣き叫ぶ、わめき散らす、頭をかきむしり、顔を覆い、身を震わせ、卑屈な目で少女を睨みつける。
「殺してやる」
紫明は少女に飛びかかった。嘘のように身体の自由がきく。少女に馬乗りになり、その細くて白い首の両手を掛けて力任せに締め上げる。
「や……やめて、史朗……、苦しい」
狩野紫明は我に返った。その名は自分の名、忌まわしき父の性、神生(かのう)家の長男としてこの世に生をうけ、名を史朗とつけられた自分の名。そして今その名を口にしたのは、懐かしい、やさしい声。
「ね、姉さん」
神生史朗は、自分の手によって首を絞めつけられている姉、京子が苦痛に顔を歪めているのを見てその場から飛びのいた。
「う、嘘だ……、こ、これは現実じゃない。これは……」
姉、京子はぐったりとして動かない。目は苦痛を訴えたまま史朗を見つめていた。
「やめろ! お願いだ。もうやめてくれ……もう……これ以上は……、姉さん、どうして逝ってしまったの」
そこには少年の姿の神生史朗がいた。
「それがあなた。あなたの本当の姿。あなたの黒き望みを明かしなさい」
青き目の少女はやさしく語りかける。
紫明が何かを言いかけようとした瞬間、その背後で大きな声がした。
「紫明! 大丈夫か!」
武井は右手に紫明から預かった符を持ったまま力強く紫明の肩を叩いた。
「ぼ、僕は……、僕じゃない。もう僕は僕じゃない。俺は、私は、仮の名しか持たぬ男、狩野紫明だ」
少年は立ち上がり、再び青年に戻る。
「せっかく楽になれるチャンスだったのにね」
少女は少し満足したような微笑みを浮かべ一歩後ろに下がる。
「でもあなたは少しやり過ぎたのよ。顔を汚された女の悲しみを玩具にするなんて、少々悪ふざけが過ぎてよ」
狩野紫明は、正気を取り戻した。そして目の前にいる少女が何をしにここに現れたのか、ようやく理解した。
「八王子に放った鬼女を救ったのはお前か……、その女の望みをかなえるためにここに来たというわけか。とんだ逆恨みだ」
いつのまにか雨は上がっている。少女はクスクスと笑いながら、後ずさりする。
「女心は複雑よ。あなた、何もわかっていないのね。まぁ、お灸は十分に据えたし、今日のところは私の術を看破したお連れさんに免じて許してあげるわ」
「どういうことだ」
「あなたを恨んでなんかいなかったわ。あの女性も、この地に果てた姉思いの妹さんもね」
少女の姿が儚げに揺らぎ、景色に溶けはじめる。
「私はずっとあなたを見ているわ。道を外し、闇に転げ落ちる様を見物させてもらうわ」
「おい、紫明、誰と話している!」
武井には少女の姿は見えないようだった。
「邪道も外道も関係ない。俺は俺のやるべきことをやるだけだ」
紫明は肩で息をしている。明らかに体力も精神も疲弊しきっている。本の数分の間にいったい何があったのかと武井は唖然とするしかなかった。
少女は完全に姿を消した。狩野紫明はその場に崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ」
「もう終わった。何も心配は……いらない」
武井は紫明を抱えて足早にその場を離れた。
「この匂い……、さっきまではなかった香りがするな」
史朗を抱えたとき、かすかだが女性特有の甘い香りが漂い、そして消えて行った。
「どうやらこいつが役に立ったらしいが、何が何やらさっぱりだ」
武井はくしゃくしゃになった符のしわを伸ばし、大事そうに油紙に包んで内ポケットに仕舞い込んだ。
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