第69話 武井の戦い

 大きなコウモリ傘が雨の中、ゆっくりと野鳥園の中を進んでいく。傘の中には二人の男、酷く疲れた青白い青年と決して肩を落とすことのない気骨ある精神を宿すにふさわしい体躯、どのような場面でもどのような相手にも気を許すことのない警戒心、そしてどんな相手にもまっすぐに向かい合う実直さとどこか近寄りがたい孤独を併せ持つ男、符術師の狩野紫明と武井徹は、笠井町の拝み屋、通称下駄の男との一騎打ちに敗れ、戦場を後にしようとしている。

 この地に赴くとき、結果はどうあれ戦いはこれだけでは済まないというつもりでいた。一つの勝利は、また次の戦いを呼ぶ。そして一つの敗北もまた、次の戦いを避けることはできない。もともと追い詰め詰められた状況を打破すべくとった行動――下駄の男との対決である。何を持って勝ちとし、何を持って負けとするのか、それは武井の領分ではなかった。ただいくつもの修羅場を潜り抜けてきた武井には、この敗北が意味することを理解していた。

 下駄の男――尾上弥太郎の力はそこが知れず、狩野紫明のそれを凌駕していた。しかし狩野紫明の力――それは単に戦闘力の優劣としてではなく、おそらくは彼らの住む世界に置いては、決して見劣りするものではないのだという事は理解した。下駄の男は狩野紫明の能力を認め、またその力の根源となる何者かに、敬意であるのか、畏敬であるのか、何かしら認めるものがあり、それを深く傷つけたり、踏みにじったりすることのないよう”配慮”した節がある。そしてそれ故に、狩野紫明は下駄の男に対してはっきりと現時点での”負け”を認めたのである。


「これからのことを少し話しませんか。紫明さん」

 野鳥園の本来、進入禁止である沼地を抜け、公園中央出入り口に向かう道、周りはやや背の高い木々に覆われ、道は緩やかに右に左にとカーブしている。一つには防風林としての役割。もう一つは沼地をできるだけ自然な形で野鳥に開放するための工夫である。

「すべてはこの公園をすんなり出ることができてからの話しです。私としたことが、気を許したわけではないのですがね」

「あの下駄の男の力量は、やはりそうとうなものだということですか」

 武井はてっきり狩野紫明が先ほどの戦いを回顧し、いかにして戦うべきだったのか、どうすれば勝てるのかということに、すっかり気が回り先のことは考えられないという意味で、なかなか簡単に戦場を後にはできないと言っているのだと思った。

「そういうことではないのですよ。武井さん。あの男は確かに強い。それは認めるし、あの男に負けたことをいつまでもくよくよ考えるようなことを、僕はしません。思い出すのも嫌なくらいなのですから」

 武井が足を止める。

「どういうことです?」

 狩野紫明が前方を指差す。

「前が見えません」

 そして後ろを振り返る。

「そして後ろも見えません」

 武井には狩野紫明が何を言わんとしているのかまるで分らない。

「野鳥園の構造、僕の頭にはしっかり入っているのですよ。前をごらんなさい、左にカーブしています。そして後ろはどうです」

 武井は前と後ろと交互に見る。

「この角度で曲がり続けると、どうなると思います」

 武井はやっと狩野紫明が言わんとしていることを理解した。

「まさかこれは、同じところをぐるぐると回っているのか。下駄の男の仕業なのか!」

 狩野紫明は首を小さく横に降る。

「あの男は、もちろんこのくらいのことはできますが、こんな小細工をするような男ではないでしょう」

 それは理解できる。武井は思った。だが理解できない。だとすればいったい誰がこのようなことをしたのか。

「心配はいりませんよ。敵ではありません。もちろん、味方ではないでしょうが、敵意はないのでしょう。あればとっくに……」

 狩野紫明は右手で額を抑え、重心が崩れ、後ろによろめく。倒れそうな身体をどうにか左足で踏ん張り、身体を前に屈め、左手を『くの字』に曲がった左足の膝に置き、大きく息を吐き、ゆっくりと体勢をもとに戻し、息を吸い、呼吸を整える。青白かった頬にやや赤みが戻る。戦闘態勢を整えたようだった。

「とはいえ、これはあまりいい状況とは言えません。武井さん、いざと言う時にはあなたの協力が必要です。あれを、持っていますか?」

 狩野紫明は右の指先で長方形を描き、そしてそこに何か文字を書くようなしぐさをする。武井は右手をスーツの左胸の内ポケットに滑らせる。

「まさか……、今朝、確かにここに」

「惑わされてはいけません。最後はあなたが頼りなのですから。お願いしますよ」

 武井に緊張が走る。パニックにならないよう自分の今朝からの行動を思い起こす――いつもと同じ、いつもと同じだったはずだ。


 武井は毎朝、同じ行動をとる。一種のルーティーンである。特別なことをするわけではない。起きて、横になったまま煙草を吸う。携帯をチェックし、三回ふかしたら火をけし、ベッドから起き上がって洗面所で顔を洗う。トイレで用を足し、水道の水を一杯飲む。歯を磨き、もう一度顔を洗い、髪型を整える。服を着替え、部下に今日の予定の確認の電話を入れる。戸締りを確認し、荷物を確認し、玄関で靴を磨く。出かける前に、もう一度所持品を確認しながら、迎えを待つ。


 その時、どうだったか。間違いない。俺はスーツの左の内ポケットにあれを入れたはずだ。狩野紫明からもらった……


 再びスーツの内ポケットに手を入れる。指先に紙の封筒があたる――あるじゃないか。


 武井が封筒を指で掴み取り出そうとしたとき、やはりそこに、あるべきものはなかった。いや、居なかった。

「紫明さん……、紫明! おい、どこに行った!」

 額から汗が流れ、頬を伝わり、降り続く雨とともに顎から地面に落ちていく。

「どっちだ。前か、後ろか」

 先を進むか、来た道を戻るか。

「それとも……」

 車一台が通れるほどの舗装された道路。その両脇には木々が生い茂り、向こう側をみることはできない。考えてみればそれこそおかしな話である。いくらこの公園が広くても、そこまで何も見えないということはありえない。


 ありえないことが起きている。


「こいつは困った。厄介なことになっちまったなぁ。俺はだいたい。起きているのか。もしかしたら気でも失って夢でも見ているのか」

 武井は右の手のひらを眺める。そして左の掌をその横に並べ、その両の手を思いっきり頬に2回あてる。細かい水しぶきが上がり、「ぱーん」という音が遠くで聞こえる。

「なんてこったぁ。まるでデタラメじゃないか」

 もう一度自分の頬をひっぱだく。やはり同じだ。遠くで音が聞こえる。そして同じ方向だ。今度は両手を単に目の前で合わせて音を出す。やはり同じ方向から音がする。

「後ろか。なるほど、俺だけ前に進んじまったらしいな」

 武井は後ろを振り向かずに、手を叩き、音がする方に向かって後ずさりする。

「何が正解なのかわからんが、これが人を惑わすようなものなのであれば、それを破るには、むしろこっちの方がいいのかもな」


 思い出せ。俺は今朝、何をした。


 部屋のベッドで目が覚める。目覚ましよりも5分前に目が覚める。横になったまま煙草を吸う。携帯をチェックし、三回ふかしたら火をけし、ベッドから起き上がって洗面所で顔を洗う。トイレで用を足し、水道の水を一杯飲む。歯を磨き、もう一度顔を洗い、髪型を整える。服を着替え、部下に今日の予定の確認の電話を入れる。戸締りを確認し、荷物を確認……、狩野紫明から預かったもの、何の効果があるのかしらないが、この符はいつでも使えるように手元に置いておく。封筒に入れると、いざと言う時すぐに取り出せない。裸のままというのも、どうもいけない。濡らしたり汚したりしてはダメだろう。そうだ。チャカをしまうのに使うアレならどうだ。湿気を防ぐし、すぐに中から取り出せるからな。


 武井はニヤリと笑った。


「さっきのあれはフェイクか。ならば今度こそ」

 武井はゆっくりと右手をスーツの内ポケットに滑らす。そこには何もない――なるほど、つまりここではないということか。場所が違うんだ。


 武井は再び手を叩き、音がする方に向かって後ろ向きに歩き出す。自分のあるべき場所は、もうすぐそこである。


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