第62話 水族館
10時30分になろうかというときに、ようやく下駄の男は水族館に入場した。後藤は鳴門刑事に移動することをメールで連絡し、下駄の男の後を追う。この時間になって人出は増えてきたがにぎわうというには程遠いい。一刻も早く事件を解決に導くことが必要に思えたが、おそらくそれよりも人々の記憶から風化され忘れ去られる方が早いのだろうと後藤刑事は考えていた。
下駄の男は一般客に紛れて水族館の中を楽しそうに歩いている。時々子供に話しかけたり、その家族と談笑をしたりしながら水族館の目玉、ドーナツ型の回遊エリアにやってきた。クロマグロ、キハダ、カツオ、コシナガなどが悠々と水槽を泳ぎ回る姿は大人でも興奮する。
「美味そうなマグロじゃのう」
どうやら下駄の男には酒の肴に見えたようである。考えてみれば人と言うのは不思議な生き物である。普段、食卓に上がる魚は、もちろん食べるためにあるのだから、それを見て「きれい」だとか「可愛い」などと言う人はほとんどいない。こうして水族館に展示されている魚に対しては逆にそういう感想を持つ。
「皿に乗せられて回っているか、水族館で回っているのか。それだけのちがいじゃが、やはりこっちの方が美味そうにみえるわい。酒を持って来ればよかったかのぉ」
下駄の男がわざわざ後藤のところに近づいて聞きたくもない冗談を言った瞬間、事態は急変する。
ドーン! ドーン!
一匹のマグロが下駄の男めがけて突進してきたのである。当然分厚い水槽のガラスの壁にぶち当たることになる。水槽はびくともしないが、なんとも嫌な鈍い衝突音が聞こえる。他の客もその異様な光景に声を上げる。会場内は騒然となった。
ドーン! ドーン!
マグロは一度水槽の奥まで戻りもう一度下駄の男めがけて突進する。マグロの顔面が嫌な形に変形している。マグロは明らかに下駄の男をターゲットに突進を繰り返している。4回目の追突のあと、ついに泳ぐ力を失くしたのか、ゆっくりと水槽の底に降りて行き泳がなくなった。
「惨いことをする。そしてなんと周到に用意していることか。油断ならん奴よのぉ」
水族館の職員が状況を確認しにやってきた。こちらには覚えがあることだが、あいにくそれを説明したところで無意味である。下駄の男はこれ以上迷惑が掛からないようにその場を立ち去った。後藤は下駄の男を追おうとしたが、その視界にあの少女を捉えて足を止めた。
「いったい何が起きたんでしょうね」
水族館の証明が余計に彼女の存在を儚げに見せている。少女は酷く悲しそうな眼をしていた。
「魚の生態は私にはわからないわ。でも、普通あることではないことが起きているようね。それに……」
少女は水槽を指差しながら静かに語った。
「私たちは自分が観察者だと思い込んでいるけれど、別に向こうからこちらが見えないわけではないでしょう。向こうは向こうでこちらを観察しているという可能性については、もう少し考慮する必要があるのかもしれないわね」
後藤は首を振りながら答えた。
「イルカやシャチならばそういう知能もあるでしょうけれど、いくら体が大きいからと言ってマグロやカツオには、たとえば人間の中の特定の誰かを区別することなどできないんじゃないですかね」
少女は少し首をかしげながら答えた。
「そう。確かに見た目では判断できないでしょう。でも匂いや音はどうかしら。生き物と言うのはそういうものを使って天敵を察知するのでしょうから、あながち無理とは言えないわね。それに……」
少女はやや間を開けてから再び話し始める。
「この場合はそういうことは関係ないのかもしれないわね」
「と、言うと?」
少女は少し腰を屈め下から見上げるような格好で後藤に語りかけた。
「必要なのは魚の目だけで、つまりは魚の目を借りて覗きをするのが目的で、壁にぶつかったのは副作用みたいなものなのかもしれないわね。この街には、人や他の生き物の目を借りて覗き見をするお下品な輩がいるようね」
後藤刑事はぞっとした。水族館に入ってから何か違和感のようなものを感じていたその正体が少女の言葉ではっきりとした。
「誰かに、観られているのか。俺たちは……」
後藤刑事は水槽を見渡した。無数の魚の目がそこにはある。その目に表情はない。それは至極当たり前のことであるが、観られていると思った瞬間、無数のレンズがこちらを捉えているような感覚になり、気分が悪くなった。
「君は一体、何者……」
振り向くとそこに少女の姿はなかった。後藤の額から汗が流れ落ちる。そして遠くで下駄の音が聞こえる。
「まさか、下駄の音に反応していたというのか。あのマグロは」
職員は誰かがいたずらをしてライトを照らしたり、水槽を叩いたりしていなかったかと入場客に訪ねているが誰も心当たりはないという。それは後藤も見ていた。これはやはり狩野紫明の仕掛けた呪詛なのだろうか。水槽の周りにはいたずら防止と水槽のチェックのためにカメラが何台か設置してある。それを見ながら後藤は吐き捨てた。
「生きた監視カメラというやつか。悪趣味な奴だ!」
後藤は下駄の男の後を追った。その背中に、ひしひしと何者かの視線を感じていた。
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