第57話 闇の塔

「ちょっと気味が悪いから、耳に入れておいたほうがいいかと思ってね」

 夕刻、下駄の男は一匹の野良猫の死にまつわる不思議な話を『ヨシエさん』から聞いた。その女性は荒川の土手近くに住み、このあたりに生息している野良猫の世話をしている。下駄の男は団十郎を通じてヨシエさんと知り合った。


「その子はきっと悪い子じゃないと思うのね、私。ただ、不気味というか、なんというか」

「不吉かの?」

「あっ、そうそう、いやな予感がするってやつかしらね」

「最近このあたりは物騒になっておる。人にも猫にも住みにくい世の中じゃ。あんたみたいな人がいてくれないと、この子達も安心して暮らせないじゃろう」

「昔はこんなことなかったのにねぇ、本当に嫌な時代になったわねぇ」

「おそらく同じようなことは起きんじゃろう。それにワシもそういうことが起きないように、いろいろと骨を折っているところじゃ。ワシの大事な飲み友達のためにも、こりゃ、ぼちぼちしておれんなぁ」


 念のため、下駄の男は死んだ野良猫の遺体を調べてみた。そしてすぐに人の手が加わっていること、それもおぞましい外法が使われていることを突き止めていた。

「カラスの次は猫かよ。自分は動かず、こそこそと人のことを覗き見する。なんともやりきれんのぉ」

 以前、下駄の男は笠井町海浜公園で目にガラス玉を埋め込まれたカラスと遭遇している。術者はカラスや猫を生け捕りにして、呪詛をかけて目をくり貫き、そこにガラス玉を埋め込んで自分の目のようにしてそれらの生き物を操る。非道の術である。


「その娘は他に何かいっておらんかったかのぉ」

 その娘とは、ヨシエさんが出会った不思議な少女のことである。朝の散歩中に声をかけられ、猫の亡骸まで案内し、すっとその場から消えてしまった。おそらく、この猫がこうなった事情を知っているに違いなかった。

「そうねぇ。なんせ、いきなり声をかけられて、この子がこんなことになってしまって、私も気が動転していたから・・・・・・」

 ヨシエさんは手を合わせ、もう一度猫の亡骸に別れを告げた。

「闇の塔が、なんとかって・・・・・・、そう私にではなく団十郎にそんなことをと話しかけていたわね」

「ほう、それは興味深い話じゃのぉ」

「いまどきの女の子には珍しいくらいに髪の毛が黒くて、目がパッチリして、お人形さんみたいな恰好をしてたかしらね。どことなく影がある感じがする子だったわ」


 下駄の男は、腰をかがめ、団十郎の顔を覗き込んだ。左右に白黒に分かれている団十郎の顔は凛として勇ましく、よどみのない強い眼光は魔を退け、虚をあばく。

「敵ではないようじゃなぁ。団十郎よ」

「わうぉーん」

「そうかぁ。あいわかった」

「あの、闇の塔って・・・・・・」

「心配はいらん。ただの隠語じゃ。知る人ぞ知る、知らぬものは知らぬ。そういうものじゃから、ヨシエさんは知らんほうがいい。そういうことは、ワシや団十郎に任せておけば大丈夫じゃ」


「でも、なんか心配ねえ」

「そうじゃ、いい物をやろう。これはまぁ、魔よけのお札みたいなものよ」

 下駄の男は作務衣の胸元に手を突っ込み、一枚の紙を取り出した。それは四つ折りにされた半紙で、それを広げるとなにやら文字が書かれている。すぐには読めないなじみのない字体だ。

「なにかしらね……、あっ、もしかして『破』って書いてあるのかしら」

「ふむ、これは結構効果が強いものだから、めったに人に使わせたりはしないものじゃが、あんたなら大丈夫じゃろう。何か怖いことがあったら、こいつを広げてその怖いものに向けるだけで、邪気や瘴気をはらうことができるじゃろう」

「なんだかわからないけど、おっかないものじゃないのかい?」

「おっかないのは道具よりも、それを使う人間のほうじゃな」

 

 下駄の男は夕暮れにそびえる闇の塔を厳しい目で眺めた。同じ頃、別の場所で、別の思い出闇の塔を眺める者がいた。


「いい眺めだ。そうは思わないかい?」

「スカイツリーがですか」

「スカイツリー。そう、確かにあれはそういう名前で呼ばれている。武井さん、呪いとか怨念とか信じますか?」

「呪いはともかく、怨念というのはあると思いますね。そういうものの力を感じたことはあります」

 狩野紫明はその返事にとても満足した様子だった。少なくとも武井徹にはそう見えた。

「しかしそういう力で本当に人を傷つけたり、殺したりできるものなんですか?」

「厳密にはできない。それだけでは人は殺せない。しかし、それは銃やナイフが人を殺せないというのと同じだよ。要は使う人間次第、あくまで呪詛は道具さ。実際に殺したり傷つけたりするのはそれを道具として使う人間さ」

 武井徹はその返事にとても満足した様子だった。少なくとも狩野紫明にはそう見えた。


「あなたにはどんなふうに見えているんですか、あの……闇の塔とやらが」

 武井の質問に狩野紫明はすぐには答えなかった。

「それは知らない方がいいでしょう。人は見える物だけを見ていればいい。正直、あんなおぞましいものが見えないあなたがうらやましい。まともな神経の持ち主では正気を保てないでしょうね」

「極道の世界も同じようなものです」

「なるほど、面白いことを言いますね。いいでしょう。あなたはそちらの世界の専門家だ。僕に見えないものから私を守ってください。私もあなたの見えないものから、できる限り武井さんを守りましょう」

「狩野紫明、もう少し自信家と思っていましたが、案外と謙虚でいらっしゃる」

「この世界には絶対などということはないのですよ。人の道理は通じません」

「なるほど、いいでしょう。しかしそんなに恐ろしい物なのですか。あれは」

「お望みならあなたにもお見せできますよ。いかがなさいますか?」


 武井は一瞬見てみたいという誘惑に心が揺らいだが、狩野紫明の瞳の奥にあるまごうことなき狂気に寒気を感じた。

「やめておきます。私は臆病なもので」

「大事なことですよ。恐怖に鈍感になるのは危険なことです。だから私もなぜあなたが私に接触したのか、その理由は聞かないことにします」

 武井は狩野紫明が住んでいるマンションに招かれていた。いわく、ここが一番安全だという。昨晩、武井は狩野紫明を自分の女の店に招待した。人払いをし、ある筋から狩野紫明の護衛をするように指示を受けたことを武井は告げたが、具体的なことは何も話さなかった。狩野紫明も自分が笠井町で誰の指示で何をしているかについては外では話せないとしながら、武井に「闇の塔を知っているか?」とだけ尋ねた。


「闇の塔については最低限のことだけお話します。あれは我々のような呪詛の世界に身を置く者にとっては、大変興味深い物なのです。今回の権藤の変死については、あれの可能性が試されたのですよ」

「可能性とはつまり、人を呪い殺せるかということか」

「そうです。それも私のようなその道の人間がやるのではなく、素人がです」

「坂口とかいう、権藤に恨みを持つ女」

「そう、普通、その程度では憎い相手を呪い殺すなどできやしないのですよ。私にもできないかもしれない」

「なるほど、闇の塔とはそういう力をもっていると?」

「まぁ、そういうことです。だから私は闇の塔の力でどの程度のことができるのか、それを試しているのです」


 武井はとても不思議な感覚に襲われていた。自分が話していることは恐ろしく滑稽で、狂人の妄言にしか思えないような内容であるにもかかわらず、それを受け入れざるをえない自分の境遇のなんとおぞましいことか。しかし、この異常な事態が飲み込めるほどに、武井の近辺では奇妙な出来事で溢れていた。


「ところが最近、邪魔をする気配がある」

「後藤刑事のことですか」

「後藤……、権藤の件に関わった刑事。凡人がまさか私のところまでたどり着くことはないでしょうが、どうやら強力な協力者がいるようで」

「協力者というとあなたと同じような力を持っている者がほかにいると?」

「そういうことです。通称下駄の男、なかなかの使い手のようです」

「邪魔のようであれば、こちらで――」

「いや、あの男とはいずれ直接会わなければならない。それはこちらの専門です。しかし警察が絡むと私には対処ができない」

「なるほど、後藤は切れる男です。組織の中にあって、規律や規範よりも刑事の勘を頼りに、自分のルールで動く男です」

「私の苦手なタイプです。そういう人間にはまやかしは効かない」

「まやかし?」

「一種の暗示です。呪詛とはそういうものだと覚えておいてください。ちなみにあなたにもまやかしは通じないでしょうね」

「そういうものですかね。私にはわかりませんが」


 狩野紫明はカーテンを閉め、応接のソファーに深く腰掛けた。武井も正面に座る。

「これから行動をともにするのです。おぞましいものをお見せすることもあるでしょうが、ひとつ、よろしく頼みます」

「わかりました。あなたの背中を私が守りましょう。そうすれば、嫌なものは見ないで済むかもしれない」

「それにもう一人、注意しなければならない人物がいます」

 狩野紫明は天井を見上げ、ゆっくりと目を閉じながら言った。

「女です。いや、少女かも知れないが、黒髪の美しい少女です」

「女――黒い髪の」

「えー、闇の世界に住む……、あれは魔女かもしれない」

「魔女?」

「彼女はいずれ、私たちの前に現れるかもしれません。目的は解りませんがずっと私を探しているようです。闇の塔に関わりがあるのかはわかりませんが、そのような少女にであったら、気を付けてくださいね。くれぐれも惑わされないように」


 長い沈黙が続いた。狩野紫明はそのまま目を開けることはなかった。武井が「帰ります」と言って席を立つと、狩野紫明は胸元の内ポケットから一枚の紙を出した。

「これを持っていてください。まやかしにあったらこの紙を取り出してまやかしに向けるのです。きっと役に立つでしょう」

 武井はその紙を受け取り、その場を後にした。


「符術師 狩野紫明。面白い男だな」


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