第54話 相性

 夜になっても気温は下がらない。ここ数年、東京の夏は殺人的な暑さを記録している。熱中症による死亡事故の記事も、今ではニュースにならなくなっているほどだ。

 狩野紫明は待っていた。先刻、とある人物より迎えを出すからその者に同行するよう指示があった。しかしその後、なんの連絡もないまま日は落ち、月がビルの谷間から顔を出している。


「待つのも待たされるのも嫌いじゃないが、ほっとかれるのは困るな」

 狩野紫明は大きな水槽の中を優雅に泳ぐ巨大な鑑賞魚を眺めながら、自分の置かれている立場に思いをはせていた。

「あの方のためならどんな危険な目に合おうとも構わない。あの方の意にそぐわない危険よりはるかにましだ。だが、その腰巾着の思い通りになるなどと、そこまで貶められる覚えはない」


「狩野紫明――、符術に長け、また外法を用いてそれをなす。面白い男ではあるが、いささか手に余るか?」

「いえ、彼は優秀です。何より旦那様に対しては絶対の忠誠を誓っております」

「気が、合わないか?」

「はぁ? いえ、そのようなことは……」

「無理をせんでもよい。ワシにはそのくらいのことすぐにわかるわ」

「これは……、真に未熟な故、お許しを」

「未熟か」

「はい」

「若さはいい。それは何にも代えがたく、また、替えてはならぬものよ」


 都内の高層マンション。窓の外には東京スカイツリーがよく見える。彼らはそれを闇の塔と呼び、常人にはわからない大いなる力をその塔に求めている。


 闇の存在。


 妖艶な魅力を持つ美青年は、考えあぐねていた。

「旦那様には大いなる力が御座います」


 そう答えて、しわがれた声の持ち主の真意を測る間を取ろうとした。

「力とは使ってこそ、使えてこその力よ。手に入れたとして、使うために残された時間がなければ意味がない」

「若さがあるからと言って、時間が限りなくあるわけでもございません。多くの人は限りある時間を無意味に消費しています。旦那様はおそらく、何者よりもそれを知り、誰よりも効率的にことを進めておられると私は信じております」

「迂遠なことを……、まぁよい。あの男の件、まだしばらくは好きなようにさせておけ」

「かしこまりました」

「気が利くのはよいが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしじゃ」

「肝に銘じておきます」

「必要なときは、必要なときに、ワシが命を下す」


 しわがれた声の主は、左手を少し上げて合図をした。さがれという合図である。妖艶な魅力を持つ美青年は静かに後ろに下がり、部屋を出た。

「私も焼きが回ったものだ。どうもあの男のこととなると神経質になりがちだな」


 美青年は細く白い指先を口元に当ててしばらく考え込んだ後、自室に戻りコンピューターのキーを叩いた。


 狩野紫明がほとほと魚の鑑賞にも飽きたころ、彼の端末にアラートが流れた。

「おやおや、ようやく連絡が来たか」

 端末のキーを叩き、画面を立ち上げる。


「予定変更だ。あの方は貴様に好きにやれと仰せだ」

「どういうことだ……、まぁいい。ここの所探りを入れてくる輩がいる。こちらもその対処に当たり万全の準備をしているが、万が一の時にはいつでも切ってもらって構わない。その覚悟はできている」

「ずいぶんと殊勝な態度だな。何か悪いことでもあったのか?」

「どうにも貴様とは気が合わない。そう自覚したからこそ、対応方法を変えただけだ」

「奇遇だな。今はあの方の手を煩わせないよう心掛けることが最優先だと私も考えていたところだ」


 冷たい空気が流れる。観賞魚が何かに反応し、急に身をひるがえし泳ぐ方向を変えた。


「そちらが把握している情報をできるだけ詳しく話してくれないか。後藤という刑事のこと、下駄の男のことを」

 狩野紫明は、ゆっくりと低い声で端末に向かって話しかけた。

「いいだろう。もし望むのならこちらから人を出す。頭の切れる男だ。何かと役に立つ。後藤とも面識がある」

「組の者か?」

「そうだ。だが若く、優秀な男だ。与えられた役割をこなし、それ以上のことは見ても聞いても何も残らない」

「ほう。それは頼もしい。一度会ってみたい」

「段取りはつけておく。好きなときに好きな場所で会えるようにな」


 狩野紫明は、おそらくそれが自分の見張り役だろうと思った。しかし、同時にそれが保険になるとも考えていた。相手はその男に命じればいつでも自分を殺せる。そう思わせておいた方が今は得策である。


「この男だ」

 画面に男の顔写真と名前が出された。

「白鷺組 武井徹」


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