第47話 始動

「来ましたよ。後藤さん」

 自分のデスクで背もたれに目いっぱいもたれかかり、天井を見上げるような格好の後藤に鳴門刑事はやや小さな声で話しかけた。後藤は片目だけを開けて鳴門刑事を見る。鳴門は周りの様子をうかがいながら後藤の耳元で囁く。


「笠井稲荷神社に今から来いって……あぁ、来てくれって」

 つまらない気を使われることを後藤は嫌っていた。鳴門刑事はそれを知っていてわざと後藤を焚きつけたのである。


「ふん! 何様のつもりだ!」

「まったくです。行くのを止めますか?」

「鳴門。お前、最近口が悪くなってないか?」

「すいません。上司が上司なもんですから」

「ったく、どいつもこいつも――」

「車、回しますか」

「あぁ、頼む」


 笠井稲荷神社は、江戸川南警察署から車で20分ほど北に向かったところにある。後藤と鳴門刑事は少し前にこの神社に来ている。これから会う下駄の男――尾上弥太郎のほかに真壁直行という男がその時はいた。目的は『真壁直行に取りついた死者の霊を成仏させるため』とも言えるし、精神に異常をきたしていた真壁に『心理学的な治療を施した』ともいえる。尾上弥太郎はその両方だと言い、後藤は後藤の領分ではない世界が、実際にあることを思い知らされたのである。


「なんだかずいぶん前のような気がしますね」

「なんでまたあの神社なんだ? また妙な真似でもする気なのか……」

「どうですかねぇ……何せ、あの下駄の男ですからねぇ」


 夏である。窓は閉めてエアコンをかけても強い日差しがあちこちから反射し、肌を直撃する。信号待ちをしているときに、ヘリコプターの音が聞こえてくる。

「テレビ局か……マスコミ連中に嗅ぎまわれるとうっとうしいなぁ」

「今のところ例の事件、傘の一件も、蝉の件も話題には上がっていないようですが……」

「時間の問題だな」

「しかし、今のところ表立っては報道されていないようですね。それはそれで不思議というか――」

「その感覚を大事にしろ。この一連の事件は、単に摩訶不思議なだけじゃない。どうも陰で情報管制が惹かれているようだ」

「上が関わっているってことですか?」

「どういう形かはわからんが、不自然さはある。下駄の男よりもよっぽど不気味だ」

「そうですね。あの老人にはなんというか……信用はおけないけど信頼はできるというか」

「なんだ、それ? 同じじゃないか?」

「えーっと、つまり能力は信頼できるけど、心の奥底で何を考えているのか見えない……後藤さんと同じですね」

「あぁー!」

「あっ、あぁ、嘘です。嘘です」

「世の中には――」


 そういって後藤は黙ってしまった。

「えっ、なんです?」

 信号が変わり、鳴門刑事がアクセルを踏む。

「背中を任せられる人間なんて、そんなにはいないもんだ」

 今度は鳴門刑事が黙ってしまった。後藤はラジオのスイッチを入れた。


――今入りましたニュースによりますと、本日未明、東京都江戸川区にあります、笠井海浜公園の野鳥園で若い女性とみられる遺体が発見されました。警察の発表によりますと……


 同じころ、このニュースを苦々しく聞いている人物がいた。


「下駄の男か……狩野紫明、この事態をどう収拾するのか」

「申し訳ございません、旦那様。警戒はしていたのですが――」

「警戒して何とかなるようなら、最初から気にも留めん。後藤刑事もすでに動き出しているだろう」

「はい。動きはとらえております」

「させておけ。むしろ好都合じゃ」

「よろしいのですか?」

「何事も漏らさないのが肝要じゃ」

「はい。仰せのとおりに」

「こちらが無理に動くことはない。狩野紫明の好きにさせて置け。そしてお前はいつも奴の背中に立て。よいな」


 一人は、しわがれた声の主、もう一人は若い男の声である。若い男はしわがれた声の主に絶対の服従と忠誠を誓っていた。そしてしわがれた声の男は若い男の忠誠に今は満足している。いや、若い男の忠誠心以上に、その男の白い肌、澄んだ声、さらさらとした髪の毛、ほのかに香る汗の臭い。しわがれた声の主は、若い男の美しさに満足していた。


 しわがれた声の主は目を細め、時より艶めかしい視線を男に送った。若い男は、しわがれた声の主がいつでも触れられる距離に身を置き、主人の要望にいつでも応えられるように控えていた。しわがれた声の主の、しわくちゃな手が、若い男の肩に手を置き、そして男の耳元まで顔を近づけ、囁く。


「お前に任せる。人を使っても構わんが、足跡を残すな。秘密とは守られてこそ秘密よ」

「では、さっそく準備にかかります」

「くれぐれも、下駄の男には手を出すな。後藤も下駄の男の制御下にあるうちは放っておいてもよい」

「かしこまりました」


 若い男は深々と頭を下げ、しなやかな動きで静かにしわがれた声の主のもとを離れた。

「さて、狩野紫明の背中に立つのはよいとしても、あの男もいささか心得があるだろう。さて、どうしたものか――」

 妖艶な魅力を持つ美青年は、無表情に笑った。

「旦那様もよほど下駄の男がお気に入りらしい。狩野紫明も馬鹿な男よ。たてつく相手を間違えるとは、所詮、その程度の男か。騒ぎが大きくならないように忠告と場所を提供しよう。その中で好きにさせて、あとは――」

 妖艶さと等しく、冷徹さも兼ね備えた美しい男の目は、ガラス細工のように澄んでいたが、その奥に底知れぬ闇が渦巻いていた。




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