第32話 悪夢

「おはようございます。後藤刑事」

「あぁ、昨夜はすみませんでした。で、どうしています。あの男は」

「何をやらかしたんでしょうね。どうやら気を失っている間に誰かから頭に小便をひっかけられたようで、臭くて、臭くて」

「あっ、それは、申し訳ないことをした」

「とりあえず、雑巾で拭いておきましたが、のんきに寝ていますよ」

「まぁ、これも給料分だと思ってくれれば助かります」

「いえ、市民の安全を守るのが警察官の仕事でありますから、それは全然……」


 互いに敬礼をし、後藤は交番の奥に通された。そこにはどこにでもいそうなサラリーマンの残骸が、だらしなく横たわっていた。

「おい、起きろ! 迎えに来たぞ」

 後藤は容赦なく中年男の胸ぐらを掴み、軽く頬を2回、強く1回叩いた。その3セット目にようやく男は目を覚ました。

「こ、ここは……、あなたは誰ですか?」

「ここは交番で、俺は警官だ。後藤という。で、お前さ、人にものを尋ねる前に、まず自分が何者で何様なのか答えてもらおうか」

「わ、私は……」


 中年男は明らかに混乱していた。しかし後藤はまるでそうなることがわかっていたかのようにふるまう。

「自分がどこの誰なのか、そのあたりを思い出すのが先決だ。車に乗れ。外の景色を眺めた方が、いろいろと思い出すこともある」


 後藤は男を車に乗せる前に入念に頭と顔を洗わせた。そうしている間に男の記憶が少しずつ蘇る。


「鏡を見て、解りました。私は、矢野隆といいます」

「結構、なかなか順調だ。慌てなくていい。無理に思い出そうとしても気分が悪くなるだけだからな」

「そうなんです。それ以上のことを思い出そうとする眩暈が……、刑事さん、よく御存じなんですね」

「まぁ、いろいろとな。さぁ、車に乗りな。気分が悪くなったらすぐに言ってくれ。車内で戻されたらたまらん。あれは俺の車なんでね」


 後藤は矢野を助手席に座らせ、シートベルトを着用したことを確認すると、ゆっくりと車を出した。

「さぁ、夢の世界へご案内だ」

「夢の世界?」

「あぁ、もちろん悪夢だがね」


 後藤はまず、矢野が倒れていた場所に案内した。そこで矢野が思い出したことは、後藤にとってなんら新しいことではなかったが、矢野にとってはまさに悪夢であった。


「私のカバンの中にいたあれは、いったいなんだったんだ。あんな化け物……、いや、それにあの男はいったい何者なんだ」

「拝み屋さ、ありていに言えば、ゴーストバスターズか、ヴァンパイヤーハンターか、エクソシスト」

 矢野はすっかり面喰って何を話していいのかわからなかったが、後藤の表情と自分の記憶からそれがまんざら冗談ではないということだけは理解した。ゆえに言葉を失った。


「脅かすつもりはないのだがな。あんた、運がいい」

「私のどこが運がいいと……、あんな恐ろしい目にあわされて」

「ここ一月の間に3人の男がこの町で死んだ。いや、殺された」

「殺された?」

「あぁ、まぁ、どいつもこいつも、人でなし、ろくでなし、甲斐性なしだ。つまり町のごろつきさ」


 矢野ははっとした。

「人でなし、ろくでなし……、ごろつき。チンピラ、ヤクザ、暴力団」

「あぁ、俺の専門職はそっちさ。こっちじゃない」

「専門って、いわゆるマル暴ですか?」

「懐かしい言葉を知っているな。そうだ。組織暴力対策課だよ。どうだ。それについてはお前さん、なんか思うところがあるんじゃないのか?」

「嫌悪感、いや、それ以上の感覚……、絶対に奴らを許さないという……これは」

「正義感か?」

「そう! そうです! 私には……、私にはああいう連中が」


 矢野は頭を両手で抱え、もがき苦しんだ。後藤は矢野を車まで連れて行き、その場を離れた。

「どうやら、思い出したみたいだな。しかしその記憶は完全じゃない。部分的に欠けている。それが厄介だ。かけている部分を無理やりに繋ごうとすると脳は整合性がとれず、都合のいい記憶をねつ造する。だから、考えるな。思い出したことだけを俺に言ってくれ。そうすれば、お前さんを助けてやれるかもしれない」

 

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