第11話 始動
「おーい、鳴門!」
翌朝、後藤は鳴門刑事を廊下の隅に手招きした。この場所で声をかけられるときは、厄介ごとと決まっていたので、鳴門刑事は首をすくめながら後藤の近くに寄った。後藤が鳴門刑事の肩に手をかけながら話す。後藤は大事な話をするときに相手の方に手を置いて話す癖があった。
「いーか、こっからはオレの単独だ。お前は例の傷害事件のほうに回ってくれ」
鳴門刑事は怪訝そうな顔ですかさず反論した。
「先輩、それはないっすよ。このヤマ、なんか出たんですか?」
後藤は声を押し殺しながら耳元で囁く。
「この件、どうやら上が絡んでるらしい。今、岡島さんにサグリ入れてもらってる。事情がわかるまで、表の動きはなしだ」
「最近そういうの、多くないですか、この前のひき逃げ事件のときも……」
後藤は鳴門刑事の肩をゆすり、強引に言葉を切った。
「あー、オレだって面白くねーと思ってるよ。これは散々上とやりあったオレの経験からくる忠告、いや命令だ。このヤマはやばい。若いヤツは足手まといだって言ってんだよ。それに――」
後藤は鳴門刑事の両肩に手を当て、ポン、ポンと二回両手で叩いた。
「背中を任せられるのは、署じゃ、お前と岡島さんだけなんだ。あとは誰も信じられねー。お前はオレが動いている間、署内の動きから目を離すな」
鳴門刑事は首を横に振りながらも、抵抗は無駄だと悟ったことを両手を挙げることで合図した。
「むしろ、そっちのほうがやばそうな仕事ですね。まったく、ボクもとんだ上司を持ったものです。命がいくつあっても――」
鳴門刑事はその後の言葉を詰まらせた。
「あー、すいません。変なこといっちゃって……」
「フン、構わねーよ。昔のことだ。心配するな。気にしちゃいないし、そんなこといちいち気にしてたらこんな商売続かねーよ」
後藤はまわりに聞こえるような大きな声で笑い飛ばした。そのことによって、鳴門刑事は救われたと同時に、この話はこれで終わりだと言うことを悟った。
「じゃーなぁ、あとはよろしく頼むぞ!」
後藤は傷害事件の聞き込みに回ると言って署を出た。鳴門刑事は後藤を見送るとすぐに携帯を取り出した。
「あー、もしも、鳴門です。はい、えー、動き出しました。はい、はい。わかりました。動きがありましたらまた、ご連絡します」
鳴門刑事は電話を切ると、後藤の後を気づかれないように尾行し始めた。
その頃、岡島警部補は署長室を訪れていた。
「署長、実は妙なことが起きてまして、まぁ、交通課としては、単なる事故として処理をしている件なんですが――」
「どうした。何か問題でもあるのかね」
「いえー、問題というよりかはどちらかというと、いいことと言っては、まぁそれも不謹慎なことなんですが」
「回りくどいな。この前の加藤三治のことか」
「えー、加藤に限らず四課でマークしてた重要参考人がこのところ立て続けに事故で死亡しております」
「で、なにか不審な点でもあるのか?」
「いえ、わたしも隅々まで洗いましたが、事故を否定するような物証や証言はなにも……」
署長は岡島警部補との話を一刻も早く打ち切りたいというあからさまな態度――威圧的な口調で叱責した。
「岡島君!何もないということは何もなかったということだ。そうじゃないかね」
岡島警部補は、態度をただし、規律正しく答えた。
「はい、何もありませんでしたので、何もなかった。おっしゃるとおりです。失礼しました」
署長は一瞬周りを伺い、岡島警部補を手招きした。
「後藤を抑えろ。ワシでもかばえることとそうでないことがある。この件はこれ以上のことは何も起きん。何もなく、何も起きないことに大事な部下を失うわけにはいかん。わかるな。これ以上言わせるなよ」
署長は席を立ち上がり、岡島警部補の肩に手をかけた。
「貧乏くじを引くのは、ワシらだけで十分だ。後藤はキレるが、後先を考えない。いつも誰かが背中を守ってくれると思っていたら大間違いだ」
岡島警部補は厳しい目で署長を見つめたが、やがて穏やかな表情になった。
「わかりました。これ以上なにも起きないということでしたら、これ以上深入りしないよう私から言い聞かせます」
署長と岡島の間には上司と部下という空気から、戦友という空気に変化していた。
「フン!止めさせるとは、流石のお前でもいいきれんか」
岡島は頭をかきながら照れくさそうにいった。
「あいつは、悪いところばかりワシに似てしまって……」
「うんんん!」
署長の咳払いで二人の関係はもとの上司と部下に戻った。
「これは命令だ。後藤を抑えろ。いいな」
「はい」
署長室を出た岡島警部補は大きくため息をついた。
「――と、おっしゃいますが、簡単には後藤を止められるとも思えんがなぁ」
岡島警部補は携帯を取り出し、廊下の隅で電話をかけた。
「あー、ワシだ。そっちはどうだ……」
後藤は事故があった現場近くの駅の改札に張り付き、『傘の男』の姿を探したが空振りに終わった。11時を過ぎてから加藤が最後に立ち寄ったラーメン店に立ち寄り、『傘の男』の写真を見せて店員の話を聞いたが、あまり収穫がなかった。それほど顔が鮮明に映っている写真ではない。
それから後藤は事故があった通りを見ることができるコーヒーショップに立ち寄り、昼時の人の流れをじっと見つめいた。執念である。後藤は『傘の男』のビデオを何べんも繰り返して見ていた。静止画ではわからない身のこなしやしぐさに合致する人影をずっと探し続けた。
2時を回った頃、一人の男の姿が後藤の目に留まった。後藤はその人影を追ってコーヒーショップを出ると、注意深くその男のあとをつけた。その男は第二の事故のときに防犯カメラで撮られた書店に立ち寄り、なにやら雑誌を購入しいた。男は書店を出ると、そこから300メートルほど離れた、駅の反対側のビルに姿を消した。エレベータで降りた階を確認し、エレベーターホールの案内板で会社名を特定した。
「笠井情報システム……コンピュータ関連ってとこか」
「なんじゃい、もう、ここまで嗅ぎ付けたんかい?」
不意に後藤の背中越しに声がした。
「誰だ?」
後藤の後ろには一人の男が立っていた。帽子―黒のハンチング、黒のチョーカー、茶色の皮のジャケット、白のシャツ、薄茶色のスラックス、白の革靴。身長160センチ、中肉中背、肌はやや日焼けし健康的、眉毛に少し白髪が混じっている50歳~60歳くらい……後藤は瞬時にその男の特徴を捉えた。
「いきなり誰だとはごあいさつだな、お主」
その男はニコリと笑いながら帽子を取って挨拶をした。
「あー、すまない。だがいきなり後ろから声をかけられたら、誰だって驚くだろう?」
そうではない。声をかけられて驚いたのではなく、すぐ後ろまで近づいているにも関わらず気配を感じ取れなかった事が驚いた――いや、恐ろしかったのだ。
「まぁ、なんだ、ここで目立つのはお互いに望むところではあるまい。少し歩かんか?」
後藤は警戒レベルを落とし、男の提案を受け入れることにした。たしかにここで目立つのは得策ではない。
「真壁直行、それがあの男の名前じゃ」
5メートルも歩かないうちに男は、チョーカーの男は思いがけないことを口にした。
「なんで、そんなことを……いや、あんたいったい?」
男の歩くスピードは後藤のそれよりも早く、後藤は小走りにチョーカーの男の後を追う格好になっていた。これは後藤にとって不本意だった。出会った瞬間からまるでペースを握られている――そういうあせりと不安があった。
「ちょっとあんた――」
「これ!初対面のそれも年上に向かってあんたとはなんじゃい!この小僧が!」
とてもペースを取り戻せるような相手ではない。後藤は抵抗を諦めた。
後藤が突き止めたビルから歩いて5分ほどのところに小さな公園があった。ベンチには時間を潰してスポーツ新聞を読んでいるサラリーマン、砂場には子供たちとその母親らしき4~5人の若い女性が楽しげに旦那の悪口を言い合っていた。
「さて、何から話そうかのぉー、いや、お主、何が聞きたい?」
チョーカーの男は空いているベンチに腰掛け後藤を見上げながら言った。ひょうひょうとにこやかに、まるですべて見透かしたように。
気に入らねーな。やりにくいなぁどーも。
後藤は考えた。多分聞く順番を間違わなければかなり多くの情報を聞けるかもしれない。そして話の結びも想像がついた。
口止めが目的か?しかしそれだけなのか?
後藤は勝負に出た。
「何でも知ってるって口ぶりだなぁ。オレが誰なのか?知っているのか?」
ニヤリとしながらチョーカーの男は応えた。
「何でもは知らないさぁ、知ってることだけじゃよ。後藤刑事」
後藤とチョーカーの男――下駄の男はこうして出会った。
「あの~真壁さん、どうか、しましたか?」
真壁直行、江戸川区内で大手金融機関の基幹システムの開発の一部を担当している古参のプログラマー。もちろんもともと古参だったわけではない。大学の経済学部を卒業し、今の会社に就職したのだが、当時はまだITなどという言葉はなかったし、コンピュータはまだまだ一般的なものではなかった。一部の学生が人気のゲームソフトをプレイする為に高額なパソコンを手に入れるのに食費を削り仕送りを浮かしたり、アルバイトを二つ掛け持ちしたりしていた。
「なんだか少し顔色が悪いですよ」
真壁は5人ほどの部下を持ち、彼等の作業進行を管理し、自らもプログラムを担当していた。同期に入社したものは、その後他の企業にヘッドハンティングされたもの、リストラされたもの、自分で小さな会社を立ち上げたもの、様々であるが、今では真壁一人になってしまった。
「もし、具合が悪いようでしたら、今日は大丈夫ですよ。スケジュールもだいぶ追いついてますし、ボクらでなんとかなりますから」
この仕事がしたかったかといえば、そうではないかもしれない。しかし、ゲームソフトの開発などというものはその当時はまだまだ未成熟な業界だったし、趣味と仕事を一緒にするのは、どうにも真壁のまじめさが許さなかった。
「真壁さんって、本当、まじめっていうか、きっちりしているって言うか、まぁ、悪く言えば融通が利かないといえるけど、プログラマーはそのくらいがちょうどいいですね。特にこういうお堅い分野では」
会社の同僚の評判は総じて信頼できる上司、尊敬できるプログラマーであったが、それ以上ではなかった。ただ、真壁の映画評は、同僚の中でも非常に人気があった。真壁の映画に対する分析力、監督、脚本、俳優に関する造詣の深さはみんなに一目を置かれていた。
「あー、この前、真壁さんがダメだししていた例の映画、DVDで見ましたけど、いやー、真壁さんの言う通りですねー。事前に聞いていた分、期待値が低かったから良かったですよ。あれは失敗作ですよねー。」
昼食は近くの定食屋やラーメン店、ランチ営業をしている居酒屋で2~3人で食べる。話題は大体が映画の話か、或いは上司の悪口だった。
「部長は今、営業に出てますから、僕らから説明しておきますよ。真壁さん、夏休みも結局とらなかったでしょう。なんかあったときに連絡取れるようにして置いてください。えーと、あれ?真壁さんの携帯、知ってましたっけ?」
真壁はプライベートで同僚と連絡を取ることはほとんどない。真壁が会社にいる限り、どんなトラブルも大よそは解決するし、真壁のパートでトラブルになることはほとんどなかったし、あったとしても解決にそれほど多くの時間を要することはなかった。真壁の仕事はほぼ完璧といっていい。
「すまない。今日は引き上げさせてもらうことにするよ。そうだな。最近少し眠りが浅くてね。少し寝不足なのかもしれない。悪いな。じゃぁ、失礼するよ」
真壁は同僚の勧めで会社を早退することにした。同僚たちは真壁が退社すると噂話を始めた。
「真壁さん、最近やばいんじゃないのか?」
「あー、なんか最近、ブツブツ独り言増えたよなぁ」
「顔色も悪いし、なんかさぁ、オカルトな感じだよな」
「おいおい、あの真壁さんに対抗できる幽霊なんてこの世に存在しないと思うぜ」
「まったくだ。幽霊に向かっていろいろ理屈並べて、最終的には成仏させそうだよな」
「まぁ、オレだったら間違っても真壁さんに取り付いたりしないぞ」
「どうかな、意外と居心地良かったりして」
「えー、なんでさ?」
「そりゃー、世の中には真壁さんみたいにこだわりがあるからこそ、成仏できない幽霊だっているだろう。そんな幽霊はきっと、真壁さんと波長があって……」
「やべー、オレ、今すごいもの想像しちゃった。こえー」
「うわぁー、ある意味地獄だなぁ」
真壁は会社を出たものの、こんな時間に家に帰っても、果たして状況が良くなるとは思えない……むしろ悪くなることが明白だった。
「困ったなぁ。さて、どうしたものか……」
真壁は当てもなく街を歩き始めた。そこにはいつもと変わらない街の風景があり、いつもと変わらない、そこに溶け込むことができない真壁があった。
「この街も、住みにくくなった」
真壁は青く澄み切ったわざとらしい青空に向かってつぶやいた。
「また、雨、降らないかなぁー、そうすれば……」
そうすれば、また少しだけ街がきれいになるかもしれない。この白々しい青空にどんよりとした雨雲が現れ、雨が街の汚れを洗い流してくれる。
「しかし、そうなると、また一人客が増えるなぁ」
もはや真壁は、何を後悔すべきか、わからなくなっていた。
意外――とは思わなかった。後藤はチョーカーの男から声をかけられた時点で自分の素性は相手にわかっていると想像していた。
「まいったなぁ。やりにくいったらしょうがない」
後藤は髪の毛を掻き揚げ、渋い顔をしながらチョーカーの男を見つめた。こうもあっさりと向こうが手の内を明かしてくる――それはつまり、相手の余裕から来るものであり、おそらくは後藤自身が掴んでいない情報を――それもかなり確信に近い部分を、このチョーカーの男が持ている。しかも、後藤が警察組織、それもどういう素性の捜査をしているのかも知っていて、尚且つ……尚且つ実力で後藤を押さえつけるだけの切り札を持っている可能性を示している。
「じゃぁ、まず、これは大前提なんだが、あんた敵か?味方か?」
その言葉を聞いたチョーカーの男は、目を丸くし、一瞬怒ったのかと思いきや、次の瞬間大きな声を上げて笑い出した。
「かぁー、かっかっかっ、ほー、お主もなかなかのもんじゃのぉー、うんん?」
その笑い声はイヤミのない豪快なものだった。後藤は確信した――敵ではなさそうだ。
「いいじゃろう。まぁ、そうじゃなぁ、今はまだ敵でもなければ、味方でもない。お主がこれから取る行動によってどっちらにでもなる。そしてワシは味方になることを望んでおる。これは本当じゃよ」
今度は後藤が大笑いをした。
「いやいや、参りましたねどうも……それって、言い方はともかく立派な恐喝みたいなもんなんですけどね」
チョーカーの男はひどく何かを納得したような表情で何度かうなづくと、やがて真剣な顔でおもむろに語りだした。
「ワシらがこうして穏やかに会話をしている間にも、事態は刻々と悪いほうへ向かっておる。このままでは、あの男もそう長くは持つまい」
「それはあまり、穏やかな話じゃないですなぁ。やはり被害者の身内の手が伸びていると?」
後藤もすっかり刑事の顔になっていた。
「それもある。が、それはワシの分野ではないんじゃ。そっちはむしろお主にいい感じにして欲しいと思っちょるのだがなぁ」
チョーカーの男がめずらしく言葉を濁すような含みのある言い方をしたことに後藤は必ずしもこの男が全てをコントロールしているのではないことを見て取った。
「ワシのやらなければならんことは、まず、ワシしかできん分野であの男を救うこと、次にお前さんがそれを黙って見てくれるように頼むこと、そしてあの男の安全が社会的に確保されるように担保すること、この3つじゃ」
チョーカーの男は多分自分を信頼し、ある程度の手の内をカードを見せたのだと後藤は思った。しかし、この男にしかできない分野とはいったい何のことなのか?
「なるほど、話は大体わかりました。しかし、ワタシにも職務というものがあります。これは、まぁ、この『職務』という奴は、一般の会社のそれとは違って権限やら責務やら、いろいろとややこしいんです。黙ってみていろといわれて、はい、そうですかでは、この『職務』は務まりません。なにより……」
「なによりお主が納得いかないことには……か?」
ここに来て、二人の呼吸は始めてとは思えないほどぴったり合っていた。
「まぁ、そういうことになります。目の前で起きた事が、ワタシが黙って見ていられる部類のことならば、手出し、口出しはしません、お約束します。しかし、それがそうでない時は――保証しかねますね」
チョーカーの男はニコニコしながら後藤をみて言った。
「なーに、心配はいらん。ワシの分野はそれこそ専門中の専門じゃ。お主の手を煩わせるようなこともなければ、口を出させるようなへまもしないわい」
後藤は腹を決めた。
「わかりました。あなたのおっしゃるとおりにしましょう。ただし、条件があります」
「なんじゃい?」
「あなたのその専門分野とやらがどんなものなのか、同行させてください。手も口も出しません。約束します」
チョーカーの男はまじまじと後藤の顔を覗き込むように見ると、また大きな声で笑い出した。
「まぁ、それもよからろう。ただし、お主、このことは他言無用、まぁ、報告書に書けるような分野の話ではないから、書こうと思ってもかけんだろうが、それにしてもお主もたいしたもんじゃのぉー」
「何がです?」
「ワシの名前や素性を一切聞こうとせん。なかなか結構な心がけじゃ」
「聞けば教えてもらえますか?」
「かぁ、かっ、かっ、かっ 年寄りの扱いがうまいのぉー」
チョーカーの男はベンチから立ち上がり、名を名乗った。
「ワシの名はのぉ 尾上弥太郎じゃ――お・が・み・や じゃ」
目を丸めて戸惑っている後藤を愉快そうに見つめているチョーカーの男――下駄の男は上機嫌だった。
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