第10話 暗躍

 最初の一人目を見た時は流石に腰が抜けた。

「な、なんで、お前がここに」

 仕事から部屋に帰ってきたとき、一瞬、誰かが部屋の中にいるような感じがした――そんなはずがない。ワタシは部屋に上がり、明かりをつけた。部屋の隅に何かの気配――人の……影?


 見覚えのある顔、そうヤツだ。下駄の男の傘を盗み、ワタシの傘を盗み、そして死んだ男。男はワタシに気付いた様子ではなかった。表情はうつろで視線はどこを見ているのかわからなかった。存在すること事態が不快であったが、ワタシを何よりも不快にさせたのは、男が事故にあったときのままの様子――つまり頭から血を大量に流し、見ているだけでも血なまぐさい匂いが漂ってきそうな姿で立っていることだった。


「これが、幽霊ってやつなのか……しかしなんでまた、こんなところに……」

 なんで?それは単純なことだ。殺したのはワタシ、いやワタシの持っている『あの傘』なのである。あの事故からちょうど7日になるのか。もしかしたらこの男、あの事故の日からずっとここに居たのかもしれない。確かに何か気配は感じていたのだ。しかしワタシにはそのような存在を信じることはできなかった。しかし、今こうしてはっきりと見えている。


「なんだ、ワタシに恨み言でもあるのか……ワタシはなにも悪くない。悪いのは……悪いのはおまえ自身じゃないか」

 はたしてワタシの言葉があの男に通じているのかはわからない。ワタシの強い語気に押されたのか、男の姿は見えなくなった。しかしそれからというもの、男はその部屋の隅にずっと居続けている。姿は見えなくとも気配でわかる――信じられないことにわかるのだ。だから見ようと思えば見えてしまう。見たくないと思えば見えなくなる。はたして、そういうものなのか、ワタシにはわからなかった。


 だから二人目の時には驚かなかった。やはりそうかという感じだった。3人目の時は何も考えていなかった。それは夏の日に沸いて出てくる虫のようなものだった。最近ではいい話し相手になっている。もちろん相手は何もしゃべらない。視線すら合うことはない。今日のジョークは最高だと自分でも思っている。もしもこいつらにこの映画『シックス・センス』を理解する事ができるとしたら、もしかしたら一人くらいは成仏するのかと期待した。それはもはやユーモアの世界だった。


 しかし、このままいくと、一体全体ここには何人の幽霊が集まることになるのか……

「近所に迷惑だけはかけるなよ」

 最近はすっかりそれが口癖になってしまっている。


 ワタシははたして、病んでいるのだろうか?ワタシは果たしてまともなのだろうか?

「何一つ変わっていないさ」

 そう、ワタシは何一つ変わっていない。ワタシはワタシのルールに従い、今までどおりに暮らしてきている。少し騒がしくはなったが、それもワタシのせいではない。みんな……みんなあの男、下駄の男がしたことなのだから。


「あの男は今頃、どうしてるんだ、この街にいるのか、そもそもあの男はこの世に存在するのか」

 ワタシはまるで念仏か呪文のようにその言葉を繰り返しながら眠りに着いた。あの下駄の音を思い起こしながら……。


 笠井町で聞き込み捜査をしていた後藤は、鳴門刑事と別れて別行動をしていた。

「あー、岡島さん、ちょっと話があるんですが、時間取れますか?」

 後藤が交通課の岡島警部補に電話をかけたのは夜の8時を回っていた。

「どーした、ヘビでも出たか?」

「あー、まー、そんな感じです。今どちらですか?」

「そーだなぁ。9時過ぎには時間が取れる。10時に例の店でいいか」

「すいません。御手間取らせて」

「何、構わんよ。話を聞くだけならなぁ」


「ちぃっ、まったく喰えないオッサンだ。人に振っておいて、話聴くだけかよ」

 そうぶつぶつ言いながら、後藤は机に積みあがった書類の山と格闘を始めた。


 駅近くの雑居ビル。人気のあまりないバーのカウンターに二人の中年の男が頭を低くしながらぼそぼそと話をしている。

「どーやら上のほうから圧力がかかっているようなんです。いったいなんだと思います?」

 二人はバーボングラスの中の氷を回しながら話している。

「うーん、悪い予感ってヤツ?どーもこのヤマは普通じゃねーなぁ」

「普通じゃないって、どういことです」

「なぁ、この三つの事件なぁ、オレの見立てじゃ間違いなく事故だ。お前が調べたっていう傘のことも気にはなるが、じゃぁそいつが後ろから突き飛ばしたとか、そういうことはまずない」

「そうですねー、確かに現場から傘がなくなっているのは気がかりですが、大体、傘に何か仕掛けがあったとしても、ガイシャが傘を盗むなんていうこと予測できませんからね」

「あー、だから普通じゃないって言ってんだ」

「はぁ、まぁ、そりゃぁそうなんですが、今のところ傘の持ち主を探すしか手がかりがないもんで……」

「メンは割れてるのか?」

「いえ、今のところは……まぁただ、事件が同じ管轄内で連続して起きていることを考えれば……」

「まぁ、このあたりに勤めているか、住んでいるかだな」

「えー、こちらとしても次の事件は絶対に防ぎたい。ヤツら悪党で、まぁ、死んだからって、そのほうが世の中のためって声もあるでしょうが、こっちとしては重要参考人ですからね。せっかくマークしてたのに、こんな風に次から次へと……」

「うん、どうした?」

「いやー、確かに最初はいわゆる縄張り争いとか、こっちの管轄のことかと思って事件を見てたんですがね」

「あー、捜査に先入観はいけねーなぁ、まぁ、もっともオレが怪しいなんて、そっちに振っておいて言うのもなんだがな」

 そういって岡島は大きな声で笑うと、再び小さな声で話し始めた。


「最近はまじめそうな連中が頭ぶちきれて、悪人を成敗するなんてことも起きるからな。少し対象を広く見たほうがいいかもしれん」

 後藤はにやりとしながら、グラスの中の酒を一気に口に流し込んだ。


「まぁ、そうなると、こちらの管轄じゃなくなるんですがね」

「そーだな。気になるのはなんでこんななんでもないヤマに圧力がかかったかってことだが」

「そっちのほう、うまく探り、入れられませんかね」

「オイオイこっから先は別料金だぞ。今日のおごりじゃ足らんからなぁ」


「岡島さんが異動になってから、どうもこういうツテがなくて困ってるんですわ」

「頼りにしてくれるのは構わんが、いつまでもというわけにはいかんからな」

「えー、その辺はわかってますって。しかしどーも、オレは上にウケが悪くて……」

「まったく、悪いところばっかりワシに似てもうれしくないぞ」

 そういいながらも岡島の表情は満面の笑顔がこぼれていた。


「いいか後藤。ワシら正義のためでも、世の中のためでも、ましてや警察組織のために動いているんじゃない。この街の安全を守るために、この仕事をやってるんだ。それさえ間違わなけりゃ……」

「それさえ間違わなければ、道を失うことはない」

「そうだ。権力をもった人間が道を失えば、いいことはねー。それはお前が……」

「あー岡島さん、その先はやめましょう。その先は……」

「あー、そうだったな。少し飲みすぎたかもしれん。これで失礼するよ。まだ飲んでいくんだろう」

「はい、オレはもう少し、じゃぁ、例の件、宜しくお願いします。ご迷惑お掛けしますが……」

「何、気にするな。じゃーな」

 岡島は席を立つとそのまま店を出た。後藤は岡島の後姿を見送るとマスターに酒を注文した。


「道を見失う……まったく、いやなことを思い出させる」

 その夜後藤はあと3杯バーボンを注文した。


 笠井町はまだ眠らない。


「えーと、どれどれ、どんなヤツかのぉ」

 その部屋は書斎と言うにはあまりに雑多としたし、仕事場というにはあまりに整理がされていないようだった。壁には本棚がぎっしりと並び、様々な書籍が縦に横に積まれていた。机は大きく両袖に引き出しがついているが、その引き出しは開きっぱなしで、その上にいろんな書類が山積みにされ、とても引き出しを使うことはできそうもない。机の上には数台のPCが置いてあり、液晶のディスプレイが4面すべて違う画像が表示してある。


 そのPCに向かって一人の男がブツブツといいながらキーを叩いている。

「うん、これでよし」

 男が開いているのは警察のデータベース。男は警察のデータベース侵入している。俗に言うハッキングである。


「どれどれ、ほー、悪じゃのぉー、まぁ、だからといって死ななぁならんことをしたわけでもないかのぉー」

 男が見ていたのは加藤三治、三河剛、山本茂という男のデータだった。

「おー、こやつ、ワシの傘を盗んだ……うーん、少しお灸が足りんかったかのぉ」

 男は山本茂という若い男の写真を見ながらあの雨の日のこと、山本が男の傘を盗んだ日のことを思い出していた。

「何の因果かのぉ、何の応報かのぉ……」


 次に男は警察職員のデータベースを検索し始めた。後藤という名前、江戸川南署で検索条件を絞る。

「ほー、いい面がまえじゃのぉー。後藤忠則巡査部長 うーん、37歳か、わかいのぉー」

 しばらく後藤に関するデータを閲覧すると、画面を落とした。「長居は無用じゃ」


「さて、問題はあの男じゃが、さて、およそは見当がつくが、どうしたものかのぉー」

 男は――下駄の男は再びPCのキーを叩き始める。画面にはいくつかの項目が打ち込まれては、新しい画面が立ち上がる。どうやら次のハッキングを始めたようだ。それから30分ほどが経過し、一つの画面で下駄の男の手が止まった。

「よし、あとは、パスワードをあてるだけじゃのぉー」

 男はパスワードを解析するソフトを立上げ、しばらく画面の動きを待った。


「ふん、まったく、脆いわ」

 あっという間にパスワードが解除され、新たなデータベースが画面上に開いた。

「ワシの名前、返却した時間、その後5分以内の返却データ。延滞なし、それから、あとなんかあったかのぉー」

 いくつかの条件でデータを絞り込み、下駄の男はついに一人の男にたどりついた。

「真壁直行……なんともまぁ、硬そうな名前じゃわい」

 下駄の男は真壁直行に関するデータを閲覧し、住所をメモした。

「最近借りたのは…『シックス・センス』ほぉー、なるほど、なるほど、こいつはまた、少々厄介なことになっておるかも知れんのぉー」

 下駄の男は禿げ上がった頭をなぜながら、しばらく考え事をしていた。

「ワシも、見てみるかのぉ」

 下駄の男はPCの電源の一部を落とし、部屋を出た。どうやら何台かのPCは常時電源を入れているようだった。


「おー、いかん、ワシとした事が!」

 下駄の男はやや歩いてから立ち止まり、歩く方向を変えた。

「あっちの店じゃ、まだ貸し出し中じゃわい」

 男はいつもとはちがうレンタルショップで『シックス・センス』を借りた。いつも下駄の男が通っているレンタル店でそのDVDは貸し出し中であった。





「旦那様、なにかご心配なされていることでも?」

 闇の中に囁くというよりは、小さな声――それは見事に闇に調和し、ろうそくの火も揺らがないような静かな口調であった。美しく妖艶な美青年の声。


「いや、案ずることはない。こういうことは専門家に任せておくのが何よりだ。それにあの男に依頼して悪い結果が出た為しがない」

 声の主は、少ししわがれた声――その声はどんなに静かに、小さく語ろうとも周辺の空気をすべて支配するような強い力が感じられる。闇に生き、闇を統べる者の声。


「あの7代目――榊原と言いましたか。あの男のことが気がかりで?」

「フン。若さよのー。経験と実力がある。ある程度のことは対応できる。そう思っているうちはまだまだ若い。今回の件、もし手を出すようなことがあれば、それこそ大きな火傷をするやもしれんが、まぁそれもいい勉強になるか。命を落とすようなことはあるまい」


 2人の会話は極々狭い闇の中でかわされている。だれもその会話に入れないようなそんな空間に。


「人にはそれぞれ見えているものが違う。ほとんどの人間は表側、陽の当たる場所を歩き、7代目のように裏側、闇の社会に生きるものの数は多くはない。しかしその裏側と呼ばれる社会にもさらに表と裏があるのじゃ。それは視野を広げるとか発想の転換などとは桁の違う世界じゃ。それを見ることができる者は特別じゃ。いや、見て正気を保てるものはほとんどいない」

「いにしえの支配者……」


 妖艶な魅力を持つ美青年は自分が口にした言葉が、自らを震え上がらせるほどの恐ろしい言葉であることに気付いて言葉を切ろうとするよりも早く、しわがれた声の主の右手が彼の口を押さえた。


「それ以上は……無用じゃ」

 闇の深淵の中に時の流れが引きずり込まれたかのようにすべてが凍りついた。妖艶な美青年は息をする事ができなかった。


「知りすぎたもの、しゃべりすぎたものに明日が来たためしはない。よーく覚えておくんじゃなぁ。まだまだお前には、楽しませてもわねば、苦労して手に入れた甲斐がないというのもだ」

 そういって『声の主』は男の唇から手を離した。まるで深い水のそこからようやく水面に顔を出したように激しく息を吸った。が、妖艶な美青年の呼吸は再び『声の主』の唇によって塞がれた。



 夜の街を走る一台の車。7代目と呼ばれた男は、車の中から数名の部下に連絡を取っていた。

「あーオレだ、そうだ。例の件なぁ――」

 7代目と呼ばれた男は強い口調で簡潔に電話で指示を伝えた。

「――ということだ。これは命令だ。あー、あー、そうだ。絶対に手を出すなよ」

 最後に電話をした先だけ、はっきりと口調が変わってた。

「あ、榊原です。どうも、お世話になります。はい。はい。実は例の事故の件なんですが――」

 榊原はそれまでは『オレだ』で済ませていたが、最後の電話の相手は自ら名乗らなければならない相手のようだ。

「――えー、こちらとしては表だって動けませんので、はい。はい。すいません。お手間取らせます」

 電話を終えると榊原はほくそえみながらつぶやいた。


「さて、鬼が出るか蛇が出るか……それとも、もっとおっかねぇかなぁ」

 一本の傘をめぐって様々な人間が動き出す。だが、それはすべて闇の中の出来事であった。

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