第9話 ルール
「邪魔だなぁ」
この街に移り住んで8年になる。住み慣れていた街に比べれば、いくつか気に入らないところはあるが、それはたいした問題ではなかった。ワタシは通勤電車がきらいだった。人ごみ、マナー、雑音、匂い、視線――どれもワタシを不愉快にさせる。それが解消されるだけで、どれだけ平穏が保てるか、わからない。ただ、今はいささか困ったことになっている。いや、かなり困ったことになっている。ワタシの平穏な生活は一本の傘によって壊された。
「そこに立っていられると気になるのだが……」
ワタシの生活はきわめてシンプルだ。部屋の中のものがすべてある一定のルールの下に置かれいる。ワタシの部屋に入ることができるのはワタシのルールに従えるものだけだ。食品であろうが衣類であろうが、嗜好品であろうが消耗品であろうが関係ない。ここはワタシの部屋だ。
「だが、君たちは他人のルールなんかに従う気はないんだろうが……」
ワタシは借りてきたDVDを袋から取り出し、プレイヤーにセットした。コンビニで買ってきたビール――発泡酒は買わない――それがワタシの、この部屋のルールだ。借りてきたのは『シックス・センス』映画公開時は「この映画にはある秘密があります。まだ映画を見ていない人には、決して話さないで下さい」というメッセージが冒頭に流れることで話題になり、そういったあざとい商法を嫌うワタシは懐疑的だった。封切り後、しばらく経ってから見たこの作品には正直かなり驚かされた。「なるほど、確かにネタバレ厳禁だ」以後、この監督のその後の作品を何本か追いかけたのだが……
「キミたちに多少の冗談とか、そういう事がわかるんであれば、どうか、笑ってみてほしんだがな」
ワタシは良く冷えた缶ビールをグラスに注ぎ込んみ、泡とビールの比率、7対3のビールを身体に流し込む。この瞬間がたまらない。
「できることであれば、この映画を観たらさっさと御引きとり願いたいのだが……わかるかい?これは冗談だよ?それもかなりたちの悪い」
酔っ払ってしまったのか、今日は饒舌だ。しかし、酔ってなんかいない。ワタシの目の前には確かに3人の男がいる。いや「ある」とか「見える」とかそういう表現が正しいのかどうかわからない。ただ、ワタシが酔うことによって、彼らの――或いは、『それら』の存在が希薄になっていくということは、逆説的に『それら』が目の前に存在しているのだということを証明している。
「この映画のオチ、先に言おうか?実はね、主人公、すでに死んでいたんだよ」
ビールグラスを口に、泡が口の周りに残らないよう、うまく流し込む。どこか存在が希薄な3人の男の影に向かって、グラスを掲げてみせる。
「キミたちと同じようにね」
どうやらいい、感じで酔いがまわってきたようだ。ヤツらのうつの一人がほくそえんでいるように見える。
「そんなことはどうでもいいさ。俺たちはここにいたいだけだ。生きていようが死んでいようが関係ない」
そんな目でワタシを見ている。だが、ここはワタシの部屋だ。ここに居ていいのかどうか、決めるのはワタシだ……いや、ちがうな。
「そうか、この部屋が、お前たちに居場所を提供したのなら、従うしかないのか」
この部屋のルールには全てのものが従わなければならない。それはワタシも同じことなのだ。
「わかったよ。しかし、どうでもいいが、そのグロテスクな容貌はなんとかならないのかな?」
最近この部屋に現れるようになった三人目の男の首は、見事に反対側に折れ曲がっていた。
「後藤さん、ありました」
鳴門刑事はビデオテープを片手に後藤のデスクに駆け寄ろうとしたが、躊躇した。後藤は誰かと電で話をしている。旗色が悪そうだ。
「あー、どーもすいません、はい、はい、立て込んでいたもので、えー、えー」
どうやら電話口の相手に攻め立てられているようだ。離れた場所からでも受話器から怒号が聞こえてくる。
「えー、ですからその件でしたら……はぁ、はぁ……えー、わかりました。必ず。はい、では失礼します」
後藤は右手で頭をかき、口には火をつけていないタバコをくわえ、所在無いといった感じでデスクの上の電話機を見つめていた。
「あー、後藤さん、どーしました?えらく旗色が悪そうですけど……」
後藤は不機嫌そうに鳴門刑事を見ると胸ポケットやズボンのポケットを触りライターを探しながらため息をついた。
「ふー、お偉いさんは無理難題をおっしゃる……現場はそんなにホイホイと行かんのだがなぁ」
そういうと後藤は目をつぶり、考え事をし始めた。鳴門刑事はしばらく後藤の次の言葉を待ったが、どうやらそれ以上は何も出てこないのだと悟るとビデオテープを後藤に差し出した。
「ありましたよ。後藤さん、例のもの」
後藤は方目だけを開けて鳴門刑事の差し出したビデオテープを見ると不敵な笑みを一瞬見せると再び目を閉じた。
「おー、なかなか仕事が速くなったなぁ。俺もそろそろ引退かぁ」
「何言ってるんですか、後藤さんに居なくなられたら困ります」
鳴門刑事は少し慌てた。後藤が今の仕事に嫌気がさしているという噂は署内では既成事実のようなものだった。だが、その言葉を後藤の口から聞いたのはこれが初めてだった。
「それ、シャレになってないですよ」
後藤は意地の悪い目つきで鳴門刑事を見た。
「冗談はよしてください」
鳴門刑事には噂を噂で済ませられない理由があった。それはかつて後藤の上司だった岡島警部補がどういう経緯で交通課に異動したのかということに関わりのある話なのだが、それこそ当の本人から聞くわけにはいかなかった。
「よし、で、なんか出たか?」
「えーえ、出たというより、やはりなかったです」
「そうか」
「傘が……ありませんでした」
6月11日、午後4時35分、東京都江戸川区在住 三河剛 21歳 道路を横断しようとして、都内の運送会社の会社員の運転する4tトラックに跳ねられ死亡。現場は当日夕方未明から雨が降り、視界が悪くなっていたこと、そして三河が急に飛び出したという目撃証言も多数ありました。それによれば、先日死亡した加藤の時と同じように視界が見えなくなりそうな傘のさし方をしていたと……しかし現場の遺留品に傘は見つかっていません。これは現場近くの書店の防犯カメラに写った事故直前の三河の映像です。入店時、傘は持っていません。
画面には書店に出入りする客の様子が映し出されていた。画面の右奥、入り口を出た横に傘置き場がある。入り口そばには週刊少年漫画雑誌が置いてあり、三河はそれを立ち読みしていた。
ここです。三河は5分ほど立ち読みをした後、三河は傘を持って行きました。
「やはりパクったな」
後藤の目は鋭さを増した。それは獲物を狙う獣のような目だった。
「こいつか」
後藤がそういうと鳴門刑事はビデオの一時停止ボタンを押した。
「こいつ、傘を取らずに三河を追いかけるように出て行ったな」
「残念ながら、この映像の人物と対象者リストを照合してみたのですが……」
「なにも出なかった?」
「はい、特にマエやこちらがマークしているリストとは……」
「山本の件はどうだ?」
「あー、山本のほうは残念ながら映像などは残っていないようです」
「調書のほうは?」
「傘に関する情報はないです。ただ事件当日の天候は他の2件と同じ――」
「午後からの雨、それも傘がないと困るような……」
「はい、ですから、山本が同じように傘をパクった可能性は高いかと……」
「人を見た目で判断しちゃー、いけねーな。そう、学校で習わなかったか?」
後藤はまた、あの意地の悪い表情で鳴門刑事を見つめた。
「はぁ、ですが、こっちの世界では違うように教わりました」
「人を見たら泥棒と思え……か?」
後藤はいよいよ意地悪な顔をしながら天井を見つめた。
「そうだよ。それがこの街のルールだ」
笠井町のとあるビルの一室。
「最近、妙な事が起きている」
その声は、ひどくしわがれている。
「はい、まさかあの加藤があんな死に方をするなんて、信じられません」
低く、腹に響く声。気弱なものなら萎縮してしまうだろう迫力がある。
「まぁ、あいつの事などどうでもいい。問題は――」
しわがれた声の主は大きな皮製の椅子に深く腰をかけ、ブランデーを飲んでいる。
「誰が殺ったかってことですか? サツの方では事件性はないってことらしいですが」
低く、腹に響く声の主は、神経を尖らせ、しわがれた声の主の所作をひとつも見逃すまいとしていた。二人の力関係は誰が見ても明らかだった。
「あー、こっちのルートからいろいろと探りは入れてみたがな。不審な形跡はないそうだ」
「しかし、偶然にしちゃー」
「あー、できすぎている。今のところこっちに実害はない。しかし、流石にこうも続くと放ってもおけまい」
しわがれた声の主の視線がブランデーグラスに冷たく注がれる。
「誰かの仕業に違いない……と言いがかりをつけるような輩が?」
「あー、そうだ。それに厄介なことに」
「他に心配事が?」
「後藤が動いている」
雑居ビルの一室で交わされているこの会話の主は、後藤が長年マークしているこの街の裏の事情に精通し、それはこの街にとどまらずもっと大きな範囲に影響を及ぼす闇の支配者。その力は政界、経済界、そして警察組織まで根を伸ばしている。
「じゃー、やはり、裏には何か事情が?」
「それはわからん。だが、あいつだけは油断できん」
「消してしまえば……よろしいのでは?」
「フン! 貴様らはすぐ血を流したがる。ワシはそういうのは趣味ではないでな」
しわがれた声の主は語気を強めた。
「失礼しました。では、このまま放っておくので?」
「いや、それはまずい。まぁ、江戸川南署には手を打ってあるが、それでやめるようなら、後藤はもっと出世しておるよ」
声の主はグラスにブランデーを注ぎ、窓の外を眺めた。
「ヤツを呼んである」
「ヤツといいますと?」
「あー、この手の厄介ごとには、あの男、拝み屋が適任よ」
「拝み屋……ですか……信用できるので?」
「できんな。一癖も二癖もある。裏で何を考えているのか、或いは企んでおるのか……」
「ではどうして、そのような輩を」
「7代目! お主も知るときがくる。この世にはな。あーいう者にしか解決できんような厄介ごとがあるということを」
「拝みや……がですか?私にはどうも、呪とか幽霊とかそういうのは」
「フン! 浅いわ! まぁいい。いいか7代目。ここはワシに任せるのじゃ。若いもんを抑えて置けよ。ワシの言いつけを守らんヤツがどういうことになるのか……7代目、先代がどうないうことになったのか、よーく思い出すんだな」
7代目と呼ばれた男は額から汗を流していた。この老人がいかに強大な力を持っているのか。そしてこの老人の下で仕事ができることはこの上ないことではあるが、一歩間違えば、先代と同じ運命をたどることを誰よりもよく知っていた。
「はい、間違いがないよう。私がじきじきに指揮いたしますので、ご安心を」
「ルールは――守らんとな」
声の主はそういうと7代目と呼ばれた男に手で合図をした。7代目は部屋を後にした。
「まったく、怖えー、怖えー」
部屋の外では二人の男が待っていた。
「7代目、どうでしたか?やはり中国の――」
「お前ら、いいか、よく聞け。これは絶対の命令だ。手を出すな。あの方からの命令だ」
二人はお互いに見合ったが、早足で歩き去る7代目の後をすぐに追った。
「どうやらこれは、俺たちの領分ではなさそうだ。世の中にはそういうこともあるのかもしれんな……」
「はぁぁ」
三人が建物を出たとき、耳慣れない音が聞こえてきた。
カラン、コロン、カラン、コロン
「フン、現れたか……いくぞ、ワシらのような家業でも、知らないほうがいいことがある」
そういうと7代目は止めてあった車に乗り込んだ。
「しばらく待て」
7代目は下駄の男が建物の中に入るのを確認すると車を出すように命令した。
「世の中にはいろんな化けモンがいるんだな」
車はゆっくりと発進し、夜の街の中へ消えていった。
7代目と入れ替わりに、下駄の男が現れた。
「はいるぞい」
「ほう、早かったな」
下駄の男は、しわがれた声の主の部屋に招きいれられた。
「なんじゃい、ワシは忙しい身でのぉ、ちぃとばかり、厄介ごとがあってのぉ」
「まぁ、そういうな。どうだ一杯やらんか」
「フン!ブランデーなどと、ワシは焼酎しか飲まん」
「そうじゃったな。今用意させよう」
そういうとしわがれた声の主は内線電話で用事を言いつけた。程なくすると一人の男が焼酎を持って現れた。
「待たせたな。やってくれ」
「しかし、相変わらずじゃな」
「なにが?」
「お前さんの趣味だよ。さっきの男、いつからかこっておる」
下駄の男はいやしい目つきでしわがれた声の主を睨んだ。
「わかるか。まだ2週間くらいかのぉ」
「まったく、ワシには理解できん。欲を極めるとそういうもんかのぉ」
「欲などというものは、戯れよ。和食を食べた次の日は洋食、その次は中華。それと同じことよ」
「フン。食べ物に例えるなどと! 虫唾が走るわい」
下駄の男は吐き捨てた。この男は7代目とはちがい、まったくしわがれた声の主を恐れる様子はなかった。
「で、今度はどんな厄介ごとじゃ。前回のはただ働きみたいなもんじゃったからな」
「報酬は十分にしたつもりじゃが、あれでは足りなかったか」
「フン。金額の問題じゃないわ。大体この手の仕事に対価などというものはない。こっちは毎回命懸じゃからのぉー」
「まぁ、そういうな。ワシも毎日命懸よ。今でもヒシヒシ感じるわ。ワシの命を狙う輩のおぞましい呪詛の気配が」
「どうじゃい。安い買い物じゃろう。この結界のおかげで、夜はぐっすり眠れるじゃろー」
「あー、おかげで楽しくやらせてもらっとる」
下駄の男は先ほど焼酎を持ってきた若い男が、声の主に抱かれている姿を想像して身震いをした。
「気持ちの悪いことを想像させるな」
「かっかっかっかっぁ」
しわがれた声の主の笑い声は屈託がなかったが、それが帰って下駄の男に不快な思いをさせた。
「用件はな。最近わしが面倒を見ている組の若いモンが立て続けに交通事故で死んでのう……」
不意にしわがれた声の主が本題を話し始めた。
「ワシが思うに、どこぞから抗争を仕掛けられたというよりは、お主の領分じゃないかと思っての」
下駄の男は始めて顔色を変えた。
「うん、どうした、何か心当たりでもあのか?」
下駄の男は一転、申し訳なさげな顔をしてつるつるの頭を撫ぜた。
「いやー、面目ない。そういうことなら、今回は報酬はもらえんな」
「ほー、どうやら訳がありそうじゃなぁ」
「あー、まー、いろいろと……この件、ワシに任せてくれれば、そう、3日もかからずに解決しよう。ただし――」
下駄の男は焼酎をグラスに注ぎ、一揆に煽った。
「手出し無用じゃ。一人の男を探し出し、ワシが止める。これはワシの抱えていた厄介ごと。ワシがまいた種じゃ」
しわがれた声の主はじっと下駄の男を見つめている。まるで死者が暗闇からこちらの世界を伺うような冷たい視線。普通の人間ならその無機質な迫力に言葉を失うであろう。だが下駄の男はまるで話をやめない。
「ちと、その男には借りがあってのぉ。礼にちょっとした施しをしてやったんじゃが、どうやらそれが効きすぎたらしい」
下駄の男は再び焼酎を煽る。そして声の主をじっと見つめた。
「お主でも、ぬかる事があるんじゃな」
声の主の表情がようやく動いた。
「まったく面目ない。じゃがな。これだけは言わせてもらうぞ」
下駄の男は、しわがれた声の主をものすごい気合を込めてにらみつけた。
「ワシはのぉ、まだ、もうろくはしとらんぞ!」
「かっかっかっかっぁ」
しわがれた声の主は先ほどの声よりも大きな声で笑った。
「いやいや、愉快愉快。一晩でにこんなに笑えるとはなぁ……わかった。好きなようにしろただし」
しわがれた声の主は再び無表情になった。
「後藤という刑事が動いておる。なかななに抜け目のない男じゃ。岡島の部下だった男といえば覚えがあるか?」
下駄の男は焼酎を飲む手を止めて天井を見つめた。
「後藤、後藤、さて……おー、あの青二才か」
「青二才、そう確かにあの頃は青二才だったがな、流石に岡島の下で鍛えられた事はある。やつがなにやら嗅ぎつけたようじゃ」
「フン。警察などと言っても所詮は地方公務員。お主が動けばどうということもないじゃろう」
「後藤という男は組織の人間ではない。組織を動かすのは簡単だが、一人の男を動かすのは――」
「骨が折れる――かぁ?」
「そうじゃ。その後藤の動きも止めること。これが条件じゃ」
「むむぅ」
下駄の男はしばらく声の主を見つめた。声の主はまるで絵画のように動かない。
「まぁいい。その後藤という男、面白そうじゃな」
「今回の件、できるだけ物騒なことはしたくない。血を流すのは簡単じゃが――」
「拭き取るのは面倒というわけじゃな」
「まぁそういうことだ。最近の若いモンはすぐ血を流そうとする。まったく、あさましいことじゃ」
「フン。お主が言うか……まぁ、お主だからいえるのか」
二人の会話はぱったりと途絶えた。それから5分もしないうちに下駄の男は建物の外に居た。静まりかえった闇の中、下駄の男はつぶやいた。
「まったく、何の因果か、何の応報かのぉ」
カラン、コロン、カラン、コロン
下駄の男は、どうにも不愉快でならなかった。しわがれた声の主とは、ただならぬ縁がある。ふと見上げると暗闇の空に、ひときわ目立つ大きな塔が見える。
「さて、団十郎にでも会いに行くかのぉ。そうじゃ、今日は団十郎とあの忌々しい闇の塔を眺めながら一杯やるか」
下駄の男の右手には、しわがれた声の主が土産にと渡した高価な焼酎が握られていた。
「どこかで、酒の肴でも買っていくかのぉ。団十郎の好物は、さて、なんじゃったかのぉ」
下駄の男は、再び闇の中へ消え行った。
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