第9話 明朝に吹く風
まだ日の出から間もない朝靄のかかったゲインの街の石畳を叩く影があった。
影は、よく買い物帰りの婦人が果物を転がして遊んでいるのを見かける、町で一番急な坂道をまったく軽い足取りで登り切り、共同住宅地の石門をくぐっていった。確かそこは王属万全図書館が目玉の飛び出しそうな高額で買い取った土地だった。
身体を温めつつ、有酸素運動で心肺機能をトレーニングし終えたフルーナは額に光る汗をぬぐいながら剣を抜く。
庭は派手に動き回っても差し支えない広さで、塀も高く外から覗かれ騒ぎになる心配もない。朝稽古するには申し分ない環境だった。
フルーナの身体を包む熱気が冷気に変わる。前に構えれば牽制にもなる細剣をあえて後ろ半身に構えるのは間合いを測らせないためだ。
筋骨隆々な男たちに混ざって騎士団騎士科でトップの座に上り詰めるには普通のことをしていてはいけなかった。
特異な、それでいてまるで定石であるかのごときキレを残した剣技と、それを可能とする桁違いの鍛錬が必要だった。
フルーナは精神を集中させ、息を止め、そして剣を振るった。まるで体の一部のように自在に動くそれは速く、鋭く、しなやかだった。時折、前後左右に跳躍し、身体を反転させる。
型に沿っていないため剣舞とは程遠いが、嫌が応にも伝わってくる気迫と真剣さが見る者に時を忘れさせる。
どれくらい時間が経っただろうか。やがて止めていた呼吸を再開させたフルーナは剣を鞘に納めた。
その時、突然後ろから声を掛けられた。
「見事なもんだ」
途端にフルーナはものすごい勢いで収めた剣を引き抜いて声の方へ向ける。
「さすがは騎士団騎士科の女帝様といったところか」
「……リクさん」
声の主が開けた窓から姿を覗かせたリクだとわかると、フルーナは剣をひっこめた。
「み、見ていたのですか。声をかけてくだされば良いのに」
その視線に全く気付かなかったことを少し悔しそうに笑うフルーナ。そんなことは全く気に留めた様子も無くリクは問い掛ける。
「いつもあんなことをしているのか」
「はい。騎士団に入団させていただいて以来、走り込みと剣の稽古は朝晩欠かさずに続けて参りました」
「それとは別に何かやっているのか?」
「日によって筋力強化や反射神経強化などメニューを変更し行っています。心肺機能と剣技だけは常にベストコンディションを保つために毎日行っているのです」
「随分と暇そうだな」
「恥ずかしながら、実動部隊に組み込まれる機会を得ることができず、もっぱら鍛錬の毎日でしたので」
呆れ半分と言った様子でリクがせせら笑うが、フルーナもつられたように自嘲気味に笑うだけで、昨日のように挑発に乗ってこない。
やはりな……。どうにか怒らせて敵対心を煽りたいリクは、フルーナのコンプレックスに見当を付けそこを突くことにした。
「ま、良かったじゃないか。貴族の令嬢さまもこうして任務に就く日が来たんだからな」
その言葉にフルーナの目つきが若干険しくなった。
「知って……いたのですか。流石は王立万全図書館の職員ですね」
「王立じゃなくて王属だ。……図書館なんぞ関係無しの一般教養だろう。エドア家といえば、戦争時代にもブレイグ王家に揺るぎない忠誠を見せ多大な支援を行った大貴族だ。……もっとも、エドア家が直々に戦場に赴くことはなかったらしいがな。俺としては何故そんな貴族さまの末裔が騎士団に所属しているのか気になるところだ」
「……申し訳ありませんが、個人的な事情によるところなので」
うかがうような視線にフルーナは目を伏しがちにはぐらかすが、リクは蛇のようにいやらしく絡みついて放さなかった。
「なら当ててやろうか。お前は楽しんでいるんだ。貴族のはずの自分が騎士団で最大規模である騎士科のトップになるという名誉を手にすることをな」
「……!」
フルーナは、今度は目を見開いた。
「まったく、貴族ってやつは欲望に薄汚いな。お前のせいでどれだけの騎士が苦渋にまみれていると思っているんだ。それも、実力では劣っているはずの相手に頂点を取られるんだ。苦痛を通り越して絶望しているかもな」
「そんな! 私は……っ」
「教えてくれ。トルに負ける程度の実力のお前が、どうやって登り詰めたんだ? 権力を振りかざして脅したのか? 金で上官や模擬戦の相手を買収? ……ああ、もっと簡単な方法があったか。いいよな、女は股を開くだけで簡単に男を利用できるんだから」
リクは自身の作戦がうまくいったことを悟る。フルーナはうつむき、拳を握りしめていた。
「ふ……ざっけるなッッ」
そのとき、初めてフルーナが言葉を荒げるのを聞いた。
カッと見開いて、まっすぐリクを睨みつける彼女の瞳は怒りに燃えていた。
「私は……ただ一度も……祖国に顔向けできないような真似をしたことなどありませんッッ」
なんとか理性を繋ぎ直しても、フルーナの顔には羞恥と憎悪と憤怒の色が浮かんでいた。
それでもリクは冷笑を浮かべながら落ち着いた語気を崩さない。
「そうは言っても、俺はトルに負けたお前しか知らないからな。騎士団の連中にお前の素行を訊きに行ったところで真実が返ってくるとも限らない。わかるな?」
「……はい」
「となれば、あとはお前自身が証明するしかない。今後の活動の中で証明するしか、な」
リクの言葉を噛みしめるようにフルーナは沈黙を保つ。そして飲み込むように目を瞑り、再びそれが開かれた時には先ほどまでの負の感情は嘘のように消えていて、代わりに決意の表情がそこにはあった。
「わかりました。このフルーナ=エドア、必ずや示して見せます。己が騎士の誇りにかけて」
「…………」
まっすぐで輝くような瞳に圧倒されて、リクは思わず押し黙った。もちろん、フルーナはそんなことには気付かない。もともと毒言以外は口数の少ない男と虚偽を見破れない女であるからして。
「……ああ。お前の力、この俺に見せてみろ」
そう辛うじて不敵に笑ってみせると、リクは部屋に引っ込んでいった。
取り残されたフルーナは瞳の色を変えぬまま空を見上げる。濁った鉛色の雲が遥か遠くの空に見えた。
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