第660話 農婦の訪問
翌日から朝食は白いパンと豆のスープになった。
白いパンだけあれば満足のサラと、豆が食べたい俺の妥協の結果だ。
本当はライ麦パンの方が良かったのだが、そういう自分は少数派だった。
「じゃあ、ケンジがライ麦を粉にするの?」
と言われれば引き下がらざるを得ない。
一方で、小麦粉についてはキリクが体を張って石臼を回す役を引き受ける。
いつの世も、直接に手を動かす人間の意見は通りやすい。
「もう少し植物油が安く取れるといいんだがな」
油さえ安くなれば、いろいろと料理の幅も広がる。
「あたしは卵!」
「そうだな。卵を焼いてパンに載せて食べたら美味いだろうな」
「自分は、やはり肉ですね。猪でも魚でも何でもいいですが、やはり肉ですよ」
「鶏が来れば、潰して肉を獲ることもできるさ。もう少しの辛抱だな」
聖職者のパペリーノを除くと、やはり領地での食事には言いたいこともあるらしい。
狩猟権も漁業権も代官にあるわけだから、猟師や漁師がいれば税として一部を受け取る権利もあるのだが、今のところは領民の感情を考えて実行にうつしていない。
「いずれにせよ、もう少し領民の生活を良くしてからだな。まずは与える。受け取るのはそれからだ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝食の後で計画を立てていると、来客がある、とサラが知らせに来た。
例の豆を植えていた農婦である。
心なしか顔色が悪いように見えるが、一方でとび色の目には強い光も感じられる。
若い頃は、気の強そうな美人であったに違いない。
「まずはお座り下さい」
執務室にはソファーもなく粗末な木の椅子のみが数脚あり、壁面には大きな黒板と、昨日の議論の内容が乱暴に書き殴られている。
「いくつか、伺いたいお話があります。ええと、資料によればあなたのお名前は、イーダさん、でよろしいですか」
質問に対して、年かさの農婦は黙って頷いた。
生誕名簿から書き写された領地の資料は怪しい点もあるが、前の代官が来る以前に生まれた住人については比較的、正確に記録されていたと言えそうだ。
「先日も申し上げたとおり、この屋敷は大変に手が足りない状況にありまして、よろしければ屋敷内の家事や掃除などを手伝っていただけないか、と思いまして。もちろん、賃金は払います。とはいえ、毎日では大変でしょうから、1日おきに、太陽が昇って昼になるまで、ということでは如何でしょう?」
農婦から答えはなかったが、とりあえず最後まで説明をしてしまう。
「あとは、いくつかこの村の事情について伺うことがあるかと思います。何をするにも、我々は新参者で、この村については知らないことが多く、間違ったことをするかもしれません。率直なところを教えていただければ、いろいろと助かります」
できるだけ簡単に説明したつもりだが、理解しにくかっただろうか。
「・・・それで、あの懲罰の税については待っていただけるのでしょうか」
今度は、俺が驚く番だった。
「懲罰?税?なんの話ですか?」
農婦は顔を上げ、開き直ったように口を開いた。
「ですから、魚を獲ったことと、豆を植えたことについてです!必ずお支払をします!ですから、どうか畑を取り上げるのだけはお待ち下さい!」
思わず困惑して周囲を見回すと、サラとパペリーノも同じ反応を見せている。
「いや、別に税を追加で獲ったりしませんよ。私はまだ、この領地の方針について説明をしてないわけですから、罪に問うわけにはいかないでしょう?」
そこまで説明すると、農婦はようやくこちらの言葉を信じる気になったようだった。
「じゃあ、お手伝いというのは本当なんでしょうか?」
「本当ですよ。なにしろ、領主として赴任したはいいものの、今はここにいる4人だけですからね。何しろ、手が足りないのです」
思わず苦笑した。そもそも、農婦の土地を取り上げてどうしようと言うのか。
自分はただの代官で領地の所有者ではないし、耕すだけの労働力もなければ時間もない。
豆については多少の興味はあるが、そんなものは銅貨で買えばいいだけだ。
代官屋敷の庭で植えてもいい。
そもそも、自分がこの村に何のために来たのか。
今のところ、村民たちからは前の代官の同種と見做されている、ということはハッキリした。
早急に豆を配る計画を進め、互いの認識の差を埋める必要がある。
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