第556話 印刷機の長期的影響

「・・・そうだな」


農民の識字率向上。それは、俺も目指すところだ。


短期的には靴工房や製粉工場で働く職人達の技能向上になるし、中期的には冒険者になるべく街にやってくる農民たち駆け出し連中の生存率向上につながる。

そこまではいい。良いことずくめだ。


問題は、長期的な影響を読めないことである。

怪物の脅威があるとはいえ、この世界は貴族や教会が知的階級として社会の上層を形成することで安定している。

そこへ農民の全てに教育の機会が開かれれば、どんなことが起こるか。


「まあ、そこは考えても仕方がないか」


元の世界と、この世界では前提条件が違う。

怪物の脅威は大きく、人類の社会はまだまだ小さい。


そもそも、俺はこの世界がどれだけの広がりを持っているのかわからないし、この街に来てから本格的な外洋を見たこともない。


要するに、人類の社会はまだまだ外へ向かって伸びて行くべき時期だ、と思うわけで。

農村から出てくる若い連中の命を粗末にしているだけの余裕はない。


彼らには、より効率的な方法で無駄なく一人前になってもらう必要がある。

冒険者として生きて、いずれどこかで命尽きるとしても、全力を尽くし悔いなく生きた後であって欲しいし、願わくば無事に引退した後も、そこそこの金銭を持って小さな商売をするか、故郷に戻って農地を買うだけの余裕を、街や農村に作り出す、その力になりたいのだ。


「他にも、何か言いたいことがあるんじゃないか?」


気を取り直して、他の意見をサラに尋ねると、先程の真剣さとは違った熱心さで、冊子のアピールをはじめた。


「そうね。あとは、やっぱりパンの作り方ね!白い小麦のパンが安くなるなら、木の実を混ぜたパンとか、バターを混ぜて捻ったパンとか、あとは薄く生地を重ねたパンとか、貴族様が食べるパンを食べてみたいの!そういうの、冊子にしたら、きっとみんな喜ぶわよ!それで、職人の奥さん達にも練習してもらったら、工房の食事でも出せるかもしれないし」


「そうだな。まあ、それはあるだろうな」


製粉所を軌道にのせるために、小麦粉の用途を増やすための料理レシピの印刷と拡販は、印刷業で手がけるべき主要な冊子連作(シリーズ)の一つだ。

生産を強化するのだから、バランスを取るために需要の方も強化する必要がある。


我ながら酷いマッチポンプだが、美味いレシピが広がるのは全員にとって良いことだ。

小麦粉が安価に用いることができるようになれば、パンだけでなく様々な料理が世の中に広がるだろう。


俺に出来るのは、上流階級からレシピを流してもらい、それを広める手助けをするぐらいだ。

現役の貴族に仕える料理人からレシピを貰うのは難しいだろうが、引退して金に困っている料理人ぐらいは、街のどこかにいるだろう。

そのあたりの人探しは、冒険者ギルドや剣牙の兵団の伝手をたどれば、なんということもない。


「そろそろ、パスタぐらいは食えるかもな」


印刷機を改良する過程でネジやハンドルの技術を獲得できている。

小麦粉を上から入れて押し出す手作業のパスタマシーンぐらい作れるかもしれない。


「なあに?パスタって?」


食事に関する話題では抜群の冴えをみせるサラが、俺の独り言に目ざとく絡んできた。


「ええと、小麦粉の麺料理だよ」


「麺?」


「そう、小麦粉を練って細いヒモのように切って、茹でてからソースに絡めて食べるんだ。新鮮なオイルとニンニクとハーブを絡めて、フォークで食べるとすごく美味い。細長くて表面積が多いから、ソースがよく馴染むんだな。鳥の産みたての卵を絡めて食べても、すごく味にコクが出る」


説明しながら、パスタの食感と味が懐かしくなってきた。

このあたりは小麦粉が庶民には高価なこともあって、麺料理を見かけたことがない。

教会の偉いさんのところの食事会も、ニョッキのようなものは食べたが麺はなかった。単に、このあたりで流行っていないか、俺が出た席のメニューにはなかっただけの可能性もある。


「食べたい!」


サラは目を輝かせて大きな声で叫んだ。


まあ、そう来るよな。

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