第530話 上司との議論
ふと、何かの煮込みの匂いが漂ってきて目が覚める。
ようやくベッドから這いずりだして事務所に顔を出すと、茶を淹れていたサラが声をかけてくる。
「ケンジ、なんか目が腫れぼったいわよ」
「ああ、まあな」
茶の入った杯を受け取り、湯気を目蓋にあてる。
油代を気にせずに済むぐらい稼げるようになったのはいいのだが、その分、夜を徹して仕事ができるようになったのは良し悪しというものだろうか。
目蓋を指で軽く揉んでいると、凝った血が巡っていくような気がする。
「眠れなかったの?」
「いや、ランプの灯りがチラついてな」
電気の灯りとランプの灯りは、やはり明るさに差がある。
この世界に来て夜目は利くようになったと思うが、蛍光灯の真っ白な明るさが懐かしい。
「そう、とりあえず朝ご飯を食べましょう?」
サラの言葉に目を開くと、工房で働く職人の奥さん達が朝の食卓を準備している光景が映った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝食後、しばらくすると新人官吏達がやって来た。
「よく眠れたか。だいぶ顔色は良くなったな」
「それは、まあ。代官様は、あまり顔色が良くないようですが」
「少しだけ今日の準備をしていたのでな。後で、適当なところで休むさ」
サラだけでなく、新人官吏達にまで言われるとは情けない。
夜中の作業は、これから控えた方が良さそうだ。
「今日の予定だが、午前中は昨日の改善アイディアの整理と評価に目処をつけたい。午後は、その結果を元に専門家のうち、街に残っている数人に声をかけて計画の修正を手伝ってもらうことになっている」
午後に専門家に相談しようと思えば内部での検討は午前中にするしかなく、内部で検討するための準備は夜の内に自分一人でするしかなかった、ということだ。
予定を決定したのは自分であるから自業自得というものだが、プロジェクトのスケジュールを管理する立場の人間というのは、そういうものだ。
「午前中の議論の内容だが、改善アイディアを評価するための基準を共有する会にしたいと思っている」
「基準を共有、ということは代官様には基準についての考え方がおありですか?」
「一応は、考えてある。ただ、共有のための議論をする中で新しい考え方や事実に即さない点があれば修正したい」
「わかりました」
時間も限られているので、こちらの考えをまずは聞いて欲しいと正直に答えると、新人官吏達は了承した。
上司から部下に議論を持ちかける、というのは難しいものだ。
上司と部下では基本的な立場や情報量に差があるわけで、議論といいながら気がつけば上司が部下を論破するだけになることも多い。
それが続けば、部下はだんだんと上司に意見をあげなくなる。
上司が従順な部下に満足する関係は、裸の王様へと続く道である。
その意味では、新人官吏達には、もう一段、生意気になってもらいたいところだ。
聖職者、傭兵、職人と、せっかく多様な人材を揃えたのだから。
「さて。時間も限られている。まずは全体の説明から始めようか」
二十枚の木札を前に説明を始めると、もやもやとした眠気が去っていくのを感じた。
仕事を始めると頭がハッキリしてくる自分の身体に、少しばかり内心で苦笑した。
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