第332話 望むのは普通の暮らし

来た時とは異なり、階段の下までエランと家族総出で頭を下げられて家を後にすることになった。

階段中のドアが開けられて、何事かと野次馬達が眺めている。


「それでは失礼します。じゃあな、エラン」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「惜しかったね、ケンジ」


「まあ、そうだな」


サラは慰めてくれたが、俺は別に落ち込んでいるわけではない。


エランの家族会議の結論は、まだまだ出そうになかったので途中ではあったが辞去することにしたのだが、話の流れ的には両親は別の家に下男に出す方向で検討しているようだった。

両親としてはエランに自分の商売を継いで欲しい。だが自分では教育が甘くなるので別の商家で修行させたい。

エラン本人は商人としての自分に適性を感じないし、それよりは絵を描いていたい。妹がしかるべき婿をとるべきだといい、妹は自分の相手は自分で探すからと反発し・・・。


要するに、家族内で議論がループして結論が出ない。

家族内の問題に俺が深入りするのは避けたい。


俺としては会社で専属でやってもらうのが最も都合の良い形ではあったが、エランの家庭環境を見た後では、どうするのが正解とも言えない。


それに、絵描きを確保する方法はエランに頼らずとも幾つもある。

剣牙の兵団のつながりでフランツに描いてもらうのもいいし、しばらくは男爵様も絵を描いてくれるだろう。

もう一度、冒険者に絵を募集しても良い。3人のうち、用心して来なかった1人も、今度は来てくれるかもしれない。

俺にとって絵を描ける人間を確保するのは、たかが仕事についてのことだが、エランにとっては一生を左右することだ。

納得行くまで家族と話し合い、結論を出すべきだろう。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


事務所に戻ってくると、エランの家族が住む快適な空間の家を見てきたせいか、慣れ親しんだ事務室が妙に薄汚れて見える。


「そろそろ、引っ越そうかな」


「奇遇ね、あたしも同じこと思ってた」


何気なく呟くと、サラも賛成してくれた。

エランの件では、ごく普通の上級市民の暮らしの一端を覗くことができた。

その印象がよほど強かったらしい。


俺やサラのような冒険者は、基本的に世間が狭い。

橋の下で暮らすような冒険者の暮らしも知っているし、貴族の屋敷での暮らしも見たことはあるが、そのどちらも基本的には普通の暮らしとは言えない。

他に知っていたのは農村の暮らしぐらいだ。今朝までは、そうだった。


エランの家庭のような、2等街区の上級市民の暮らしは、普通の暮らしの延長として魅力があった。

俺のような小市民からすると貴族のような大邸宅を買って使用人に傅かれて暮らすのは性に合わないしイメージできないが、ああいった暮らしをできるなら、結婚して、子供を育てるのも悪くない。

そして、金銭的には十分以上に手が届くわけで。


「ああいう家に住めたらいいわね。もちろん、麦も育てたいし家畜飼いたいけど」


と、サラも言う。


革通りの事務所暮らしもいいが、そろそろ、少し暮らしを見直す機会かもしれない。

そのためには、もう少しだけ周囲から物騒な事柄を減らさないといけないわけだが。

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