第256話 工房の朝

「ほら、早くしなさい、トマ。遅れるわよ!」


「はーいママ」


今年、8歳になるトマは、眠い目を擦って、家を出る母親に遅れないよう、懸命に石畳の道をついて行く。


工房で働く父親の手伝いで、これまでも時々母親が出かけていたのだが、最近は本当に人手が足りないようで、暗い内から毎日出かけていくのだ。

そうすると自分が朝ご飯を食べられないので、温かい料理が出る工房まで一緒に行っていたところ、工房の職人の1人がトマの利発さと器用さに目をかけて、何くれとなく小さな仕事をくれるようになったのだ。


それは、ちょっと朝飯を買ってきてくれ、だとか、職人の家まで、今日は遅くなる、と伝言に行くような小さなことづけ仕事ばかりだったが、それをすると職人が塩気の強いナッツをくれるのだ。たまには甘い干した果物のこともある。


トマは、この年頃の男の子が全員そうであるように、年中お腹が空いている子供だったから、喜んで仕事を手伝った。

工房の仕事は朝日が昇って、お昼になるずっと前に終ったし、それから近所の友達と遊ぶ時間も十分にあったからだ。


それに、小さな靴工房から、今の工房に父親が移って、毎日の食事はずっと良くなったけれど、工房へ出入りすることが少なくなって、トマは少し寂しい思いをしていたから、今の、父親と母親と一緒に働けて、仕事までちょっと褒められて、それを両親が笑顔で見てくれる、そんな環境は悪くないと思っていた。


だから、ちょっと眠くても大丈夫。もう子供じゃないからね。

そうしてトマは母親と並んで、少し大股で歩いていく。


父親の職場は、少しイヤな臭いが立ち込める革通りの奥にある。

なんで、こんなところにあるんだろう?パパは靴屋さんなのに。と、トマは最初は不思議に思っていたけれど、革通りに来ると朝ごはんはいつも温かいものが食べられるし、温かい飲み物ももらえることに気がつくと、革通りのちょっとイヤな臭いもイヤじゃなくなった。


「おう、トマ坊、朝からおねむか?」


工房に着くと、馴染みの職人がからかい気味に声をかけてくれる。


「だいじょうぶ、だってもう、見習いだからね」


トマは胸を張って答える。


工房で仕事を始めたから、もう立派な見習いね。って、ママがそう言ったんだから、間違いない。

妹のマリーも、弟のアランも、まだ寝てるのに自分は働いているのだから。


既に大勢の職人達が働き始めていた。父親も、既に工房の奥で作業台に向かって小さな槌と錐を手に、作業を始めている。


「トマ、じゃあママは仕事をしてくるから、あなたもちゃんと、みんなの役に立つのよ?」


「だいじょうぶ!ぼく、もうりっぱなみならいだからね!」


ママは、しんぱいしょうだって、パパが言ってた。

だから、家には叔母さんが来ていて、まだ小さいマリーとアランの面倒を見てもらっている。


「そうだな、トマ坊。じゃあ、ちょっと朝食を隣から貰ってきてくれねえか」


職人達は朝ごはんも抜きで暗いうちから仕事をしているので、トマが来る時間が食事の合図なのだ。


「わかった!行ってくる!」


そうしてトマは、朝日が昇るまで、近所の工房を忙しく走り回るのだ。


その日も、ちゃんと仕事ができたので、小さな胸を大きな満足ではちきれそうに膨らませて、トマが帰ろうとすると、工房の奥から出てきた綺麗な赤毛の女の人に呼び止められた。


トマが、ちょっとだけママより美人かな、と思っている、職人さんたちからは、奥さん、と呼ばれている人だ。


その奥さんは、しゃがんで自分と目の高さを合わせると


「立派な見習いなんだから、ちゃんとお給金を渡さないとね」


と、そっとお金を握らせてくれた。


これ、お祭りの日とかにママがくれるやつだ!


興奮しつつ、少し戸惑って奥さんの顔を見上げると、赤毛の奥さんは笑顔でトマの頭を撫でてくれた。


「いいのよ、毎日頑張ってるんだから。パパとママにも言ってあるわよ」


トマは満面の笑顔で


「ありがとう!奥さま!」


お礼を言って、工房から家に向かって、一目散に走りだした。

何か呼ばれる声を聞いた気もしたけれど、ママに見つかったら、きっと取り上げられてしまう予感がしたからだ。


マリーとアランにお菓子を買ってやってもいいかな。それとも欲しかった玩具を買おうかな、


トマは賤貨を小さな手に握りしめて、笑顔で息をきらせながら、一生懸命に家まで走った。


これから、何を買うのか悩む、はじめてのぜいたくな時間が待っているのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る