23・覚悟

細やかなレースに縁取られた白い枕にほどいた黄金色の髪を広げ、紅く頬を染め、荒い息を吐くユーリンダは、寝台に運ばれてもなかなか目を覚まさなかった。


「ああ、姫さま、先程まではとてもお元気そうだったのに!」


 乳母のマルタがおろおろと手を揉み絞っているが、額に乗せた冷やした布を取り替えるアトラウスには、邪魔な雑音にしか聞こえない。枕元に座り、彼は従妹の細面を凝視していた。


(なんていう事だ……このまま時が過ぎては、本当に伯父上が帰って来てしまう。きみの目が覚めたら、マルタは水汲みにでも行かせて、鍵をかけてしまうのに)


 意識のない彼女を自分のものにしても意味はない。伯父を怒り狂わせるだけだし、更にはユーリンダからの崇拝も薄らいでしまうかも知れない。

 ティラールと結婚させられるくらいなら、と思い詰めたユーリンダの方から求めてきたから一線を越えた、という形にしないと、この計画は意味を成さない。かえってティラールに有利に働くだけだろう。一度きりのことの為にそんな羽目に陥るのは真っ平だとアトラウスは思う。

 彼はティラールと異なり、ユーリンダの美しさに囚われている訳でもないし、その身体を切望してもいない。彼が欲しいのは彼女のこころ。彼女が魂の底から彼を求めたときこそ、自分もそれに応えたい。今の彼女は見かけとは違い、おさなすぎる。


 この計画を立てた時に、媚薬を飲んだ彼女がどんなように年齢に相応しい嬌態を見せるのか、気にならなかったと言えば嘘になるが、あくまでこれは、欲望を満たす為ではなく、彼女を他の男に渡さない為の手段なのだ。欲望を覚えるのは、今までそれを知らなかった、ユーリンダのほうであるべきだった。


(早く目を覚ますんだ。僕がきみを苦しめている飢えを満たすから)


 危ない橋とは解っている。生娘でなくとも構わない、彼女が誰を想っていてもどうでもいい、と言われればそれまでだ。だが、伯父は娘の意志と経験を踏みにじりはしないだろう、と感じている。ただのうぶな初恋ではなく、想いの為にその身を投げ打つ程と思えば、きっと。


 しかし、アトラウスの焦りはまるで通じないようで、ユーリンダはなかなか目を覚まさなかった。そして呼吸は徐々に安定し、少しずつ頬の赤みもひいてゆく。


(……薬の効き目が切れるまで、眠ったまま、ということなのか? これは、彼女へのルルアの守護……なのか?)


「ああ、だいぶお楽になられたようですよ、若様!」


 喜ぶ乳母の声を聞き流しながら、アトラウスは暗い思いに囚われてゆく。


(僕のした事は、ただ騒ぎを起こしただけだったのか……)


 屈辱を感じたその時。ユーリンダはぱちりと目を開けた。


「ユーリィ……!!」

「姫さま!!」


 ユーリンダは、視線を泳がせた。自分の置かれた状況がわかっていない。


「……なぜ私、寝ているの? ぜんぶ、夢だった……?」


 回らない舌でそう言いながら、ユーリンダはアトラウスを見る。


「ううん……あのアトラの演奏は、夢じゃないよね……」


 アトラウスは、ユーリンダの手をぎゅっと握った。


「夢じゃないよ。僕はきみを愛している」

「アトラ……」


 うっとりとした目でユーリンダはアトラウスを見つめる。ぎりぎりで間に合った、とアトラウスは思った。薬の効果は切れてしまったようだが、こう振る舞うのが必要な事だと教えれば、彼女はきっと言うなりになるだろう。


「まぁまぁ、本当によぅございました」


 裏事情をひとつも知らないマルタは、ユーリンダが無事に目覚め、アトラウスの愛の告白を耳にしたことで感激している。だがアトラウスはあっさりと、


「マルタ、済まないけど、気付けのワインを持って来てくれないかい?」

「アトラ、私大丈夫よ」


 だがマルタは、アトラウスが二人になりたがっている事を察して、笑いながら、


「ゆっくりお持ちしますね」


 と下がろうとした。

 しかしこの時、館の表あたりが音立ち始めた。馬のいななき、馬車を引く音。切れ切れと聞こえる、呼ばわり声は、エクリティスのものに思えた。


(くっ……思ったより早かったな。伯父上はローズナー公邸にお寄りだと聞いていたのに)


 エクリティスはアトラウスが頼んだ通りに、アルフォンスを連れて帰って来た様子だ。


「マルタ、早く、早く持って来てくれ」


 アトラウスはマルタを追い出そうとする。マルタは何も知らずに、


「わかっておりますよ、若様」


 と笑顔で出て行った。マルタの足音が遠ざかると同時に、アトラウスは扉に鍵をかける。


「どうして鍵をかけるの、アトラ……?」


 まだ身体は気だるそうな様子でユーリンダは問うた。


「お父さまもお帰りになったみたいだわ」


 その瞳はいつもの純真無垢、もう彼女に、不相応な飢えた光は見られなかった。だがアトラウスは何も言わずにつかつかとユーリンダの寝台の傍に戻ると、横たわった彼女に覆い被さるようにして顔を近づけた。


「ど、どうしたの、アトラ……」

「ユーリンダ……」


 彼女は常にないアトラウスの振る舞いに戸惑い、恥じらって、絹布団で顔を隠そうとする。アトラウスは溜息をついた。気ぜわしい足音が階下に響いている。やはり時間はもうない。計画を諦めて、アトラウスはただこう言った。


「何があっても……きみが誰のものになっても……きみの心を僕だけのものにしていたい」

「勿論、私の心は昔も今も、アトラだけのものよ」


 はにかみながらも、ユーリンダは小声で応える。何故彼はこんなに険しい顔をしているのだろうか、それに、話しながらお茶を飲んでいた筈なのに、いったいいつの間に自分は寝台に運ばれたのだろうか、と、いくつもの疑問を頭に浮かべながらも、彼女はアトラウスが言葉にしている以外の事を疑う気持ちは微塵も持たない。愛している、とマルタの前でもはっきりと言ってくれた。天にも昇る心地だが、ただ、『誰のものになっても』とは、どういう意味なのだろう? 他の誰かのものに自分がなってしまうと、まだアトラは恐れているのだろうか?


「昔も今も、これからも? 誓ってくれるかい?」

「昔も今もこれからもよ……誓うわ、もちろん。どうしたの、アトラ? 何故そんな怖い顔をしてるの……?」

「きみはやっぱり、ティラール殿の妃になるだろうと思うからだ。途中で倒れてしまった事だって、きっともう二人で過ごす時間を持つべきではないというルルアの戒めだろう。でも、思い出をありがとう……。夫以外の男に心を捧げるなんて駄目だな。ごめん、おかしな事を言った。今の誓いは忘れておくれ」

「?! 何故そんな事を言うの?! お父さまは解って下さったって言ったじゃない!」

「いくら伯父上がきみを大切にしていても、ルーン家の為を思えば仕方がないだろう。ティラール殿がはっきりと口にした以上、宰相閣下は息子の面目が潰れるような成り行きを快く思われる筈がない。伯父上は……」


 だがこの時、アトラウスの言葉を遮るように扉が叩かれた。


「どうした、何故鍵がかかっているんだ」


 アルフォンスの声がする。


「申し訳ありません、伯父上、うっかりかけてしまったのです、他意はありません」


 アトラウスはすっと立ち上がり、扉へ歩み寄る。


「待って、アトラ!」


 ユーリンダの悲痛な声にもアトラウスは振り向かない。扉が開くと、アルフォンスが心配げな表情で入って来た。エクリティスは扉の所に控えている。


「どうしたんだ、また倒れたんだって?」


 そう聞くより前に既にアルフォンスは、ローズナー家への来訪を延期して娘と話し合う為に帰宅するところだったので、エクリティスはすぐにアルフォンスと合流する事が出来たのだ。アルフォンスは先程までの紅潮から一転して青ざめて弱々しく寝台に横たわる娘に近付いた。


「大丈夫か? 身体の不調なのかね? 気分は?」

「……」


 ユーリンダは父親の顔を見上げたが、アトラウスの言葉に動揺して言葉が出ない。その大きな瞳から涙が零れるのを見て、アルフォンスは思わず幼子にするように黄金色の頭を撫でながら、背後に立ったアトラウスに、


「状況はどうだったのかね。昨日と同じような事なのか?」

「いえ……預言のようなものは何も。ごく普通に話をしていた時、彼女は急に立ち上がり、そのまま倒れてしまったのです。後は、さっきまでずっと眠ったままで、ここでマルタと一緒に傍についていました」

「急に立ち上がって? 何故なのか、ユーリィ、覚えているかい? 熱はないようだが、二日に二度も倒れるなどとは」


 アルフォンスにも勿論、これが昨日のように神がかりのものなのか、病なのか、すぐに判断がつく訳もない。ユーリンダが黙って首を横に振ったので、アルフォンスは、


「エク、誰か、ディアン先生を呼びにやってくれ」


 と言った。宮廷医を務め、王族や大貴族に信頼篤く、口の堅さも疑いない人物である。すぐにエクリティスは部下に命じて馬車を調えさせる為に去って行く。


「……おとうさま」


 その時、ユーリンダが小さな声で呼び、父の袖を引いた。


「なんだい、ユーリィ。少し気分は良くなったかい」


「今朝仰った事は嘘じゃないわよね?」


 父の問いかけを無視してユーリンダは囁くような声を出す。


「今朝?」


 娘の健康状態ばかりを気にしていたアルフォンスは、咄嗟に何の話なのか思い至らない。


「私を私の結婚したい人と結婚させたいと……それはアトラの事だと、お父さまは判っているって私は思ったわ。違うの? お父さま……」


 アルフォンスの脳裏に宰相の脅しが甦った。そして、ユーリンダの意志を尊重するが、ティラールとも引き合わせて、本当に彼では駄目なのかは確かめなければと思った事も。


「ユーリィ……その話は明日にしよう。今は具合が悪いんだろう?」

「嘘……嘘なの?! 本当は、ティラール様と結婚させたいの?!」


 父が即答しなかった事で、ユーリンダの心は極端に疑いの方へ傾いた。


「誰もそんな事は言ってないだろう。アトラ、きみは一体ユーリィに何を話したんだ?!」

「伯父上、僕は……」

「やめて、アトラを怒らないで!」


 アルフォンスは冷静に対応しようとしたが、アトラウスの言動が、ユーリンダを今朝よりももっと惑乱させていた。アトラと自分は愛し合っているのに、ルーン家の為に犠牲になるなんて、ティラールと結婚するなんて、死ぬようなものだ、と彼女は思った。彼女は寝台から起き上がり、裸足のまま立ち上がった。


「ユーリィ!!」


 アルフォンスとアトラウスは同時に叫んだが、ユーリンダはさっきまで気を失っていたとは思えない素早さで窓辺へ駆け寄った。


「何をする気なんだ! 安静にしていないと駄目だろう!」


 アルフォンスが宥めるように声をかけたが、耳も貸さずにユーリンダは窓を開け、窓枠に腰掛けた。


「アトラ以外の人と結婚させられるくらいなら、わたし、死ぬわ!」


 夜風にほどけた黄金色の髪が嬲られた。外は既に漆黒の夜の闇。か細い身体が闇に飲まれて地に落ちれば、死ぬか重傷を負うのは間違いないと見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る