18・宰相の申し入れ

 アルフォンスは宰相の執務室に入った。茶の木目が基調のずっしりとした柱、その間に置かれた書棚に、美しさを感じる程にきちんと整頓されて収納された大量の書物がまず、初めて部屋を訪れる者を圧倒する。勿論、王国の重鎮であるアルフォンスにとっては見慣れた場所なのだが、広さの割には絵画や装飾品の類いは殆どなく、実利性を重視し几帳面な宰相の性格がよく表れた執務室だった。だが、その場にもし他に人がいるとすれば、てっきり騎士団長あたりかと思っていたアルフォンスが軽く驚いた事に、そこに先に来ていたのは、彼の息子、シャサールとティラールだったのだ。

 シャサールならばエーリクとは少なくとも表面上は友人であった為、ここにいておかしくはない。だが、ティラールは何故? アルフォンスはすぐに大きな思い違いをしていた事に気付いた。宰相が自分を呼びつけた理由はエーリクの事ではなかったのだ。

「アルフォンス。私の末息子、ティラールだ。これまで宮廷に出入りさせていなかったので、見知らぬかも知れぬが」

 ティラールは恭しく礼をし、

「父上、昨夜に、ルーン公殿下とお話しさせて頂く機会を頂いています」

 と言った。だが勿論、宰相は既に把握している筈だ。


『わたしはきみの幸せを誰よりも願っているつもりだ。そのわたしが、きみの考えている事が解らないと思うかい?』


 ユーリンダに対して放った自分の言葉が頭の中で虚ろに響いた。あの時の娘の嬉しそうな顔が大きく浮かぶ。

 ティラールが今朝方既に娘と会っていたと聞いて、心の中に警告音は響いていた。だが、まさか昨夜出会って、今朝からいま? 善良に見えるが浅慮そうなティラール本人より、宰相の真意を測りかねる。自分の予想が的外れであれば良いのだが。

「ええ、ティラール殿とは昨夜王宮でお会い致しました。……娘が、失礼を働いたと後で聞きまして……申し訳ありません」

 取りあえずアルフォンスはそんな風に言った。宰相アロール・バロックは鷹揚な笑みを浮かべて首を振り、

「そんな事は構わない。これの方が、横入りをしようとしていたようだし」

 と言う。賓客をもてなす最後の大きな行事が無事に済んで、機嫌がいいように見えた。

「まあ、かけたまえ。これは、バロック家、ルーン家双方にとって、良い話だと思う」

 そう言われてアルフォンスは仕方なくシャサールの向かい側の椅子に座る。室内には四人だけだ。シャサールは意地の悪い目つきで、ティラールは嬉しくて舞い上がりそうな面持ちでアルフォンスを見ている。アルフォンスは溜息を我慢しなければならなかった。


 シャサールとティラールが並んでいると、年齢差もあり、兄弟というより親子のようである。長女リーリアが結婚したばかりのシャサールと、まだ未婚のティラール。しかし二人は、バロック家の治めるイルランド地方人の特徴である焦茶色の髪と緑の瞳……それ以外にあまり容貌に似通ったところはない。骨太な感じのシャサールは、その内面はともかく、顔立ちは父宰相によく似ているのだが、ティラールの方は洒落者で優しげな好青年といった風で、騎士としての男らしさはあまり感じられない。

「ティラールは亡き妻に似たのだ。優しく繊細な妻だった」

 まるで心を読んだかのように宰相が言った。

「私の息子の中で、これだけが母親に似ている。言い換えれば、野心はなく、武を嫌い、ただ音楽や美を愛でる方を好む……騎士の叙勲すら、とうとう受けなかった。もうそれならばいっそ神官の道へでも歩まそうか、とも思ったが、その為の資質もなく。これが嫡男だったらとうに廃嫡して追い出していたかも知れんが、幸い私にはまだ他に三人の嫡出の息子がいるのでね。もう、好きなようにさせる事にしたのだ……それが亡き妻の遺言でもあったし。まぁ、悪い部分ばかりを言ったが、これにも良い所があるのだよ。純粋で優しい気質だ」

 そう言って宰相はアルフォンスの黄金色の瞳を覗き込んだ。言われている当の本人ティラールは、居心地悪そうにうなだれたが、その表情は相変わらず明るかった。

 宰相アロール・バロックは、アルフォンスが野心家や、なまじ腕が立つばかりに尊大な自信を匂わせるような若者に好感を持たない事くらい充分に知っている。嫡子が無能では流石に困るが、かれには既に十代の頃のかれと同じくらい優秀な評価を得ている後継者ファルシスがいる。だからむしろ、一人娘の夫、次代のルーン公の義弟となる人物が、あまりに我が強い男であれば、将来不和、不都合の種となるかも知れず、そういった点でも、娘の夫には政治に控えめでファルシスとぶつからない相手が望ましいと考えているだろう……そう思い、宰相がわざと末息子の、普通ならば、男としてまるで役に立たない点ばかりを挙げているのだ、とアルフォンスにはすぐに伝わった。

「このように平和で明るい時代であれば、そのような御気性も立派な個性でありましょう」

 慎重にアルフォンスは答えた。

「こいつは騎士のなり損ないだが、いい点は、アルフォンス、おまえと同じように男前で女に優しいところさ。まあ、おまえと違って一人の女に縛られたりしないところは、おまえよりも賢いのかもな」

「兄上、それはもう過去の事です。私は今はもうユーリンダ姫ただお一人に……」

「やめぬかシャサール、下世話な物言いは。公的な席でなくとも、私の後継たる者は常に品位を保てと言っておるだろうが!」

 アルフォンスを見下した物言い――父宰相の前ならかれも言い返す事もないだろうと、相変わらず身内の権威を借りた思考を恥とも思わずに――で溜飲を下げようとするシャサールの横やりを、宰相はうんざりしたように咎めた。シャサールは申し訳ありませんと父親に謝ったが、本気で悪いと思っている様子は見られない。彼は父親を恐れてはいるが、同時に、娘を王妃と成し得た自分を廃嫡する事は最早あり得ず、いずれは父親の権力をそっくり手に入れる事になるのだから、表面上敬っておけばいい……そんな考えが透けて見える。

「ティラール、そなたも黙っておれ。今は私がアルフォンスと話をしているのだぞ」

「は、はい、申し訳ありません、父上」

 反対にティラールは、シャサールを叱責した時よりもかなり静かにたしなめただけの父親の声にも飛び上がらんばかりに恐縮している様子だ。


「遠回しに言っても無駄にときが過ぎるだけだ。もう解っただろうが、要するにアルフォンス、この愚息ティラールが、そなたの息女ユーリンダ姫の婿になりたいと言っているのだ。そして私はそれに賛成した」

 やはり……と、アルフォンスの鼓動は早くなる。ユーリンダの反応は判りきっている。

「無論、ユーリンダ姫の、次期聖炎の神子、という立場は私も充分に判っている。その為に王妃の座さえ辞退したのだろう? それなのに姫を我が家に迎えたい、などとは言わぬよ。この、私の息子ティラールを、姫の婿としてルーン家の養子として受け入れて欲しい。そなたの弟御と我が娘アサーナの間はあまりうまくは行かなかったようだが、今度は、若く、将来のある二人だ。この婚姻により、両家の繋がりは一層深まるだろう。私は現在、我が長女が嫡子に嫁いだヴェイヨン家を第一の縁戚として扱っているが、今後はルーン家との繋がりの方がより強くなるだろう」

 王国一の実力者が、息子を養子にくれると言っている。宰相の息子は、王妃の叔父でもある。そして、今後は第一にルーン家に便宜を図ってやろう……とまで暗に匂わせているのだ。いったい何故そこまでしてルーン家に息子を入り込ませたいのだろう? 愛娘への感情が呼び起こした最初の戸惑いが薄れてくると、アルフォンスの頭脳はそちらの方へ働き出した。宰相がまさか、息子への情で彼の申し出をあっさり許諾する訳はない。自分が決して駒として扱いやすい人間ではない事くらい、宰相は充分承知の筈だ。既に娘を公弟へ嫁がせ、事実上結婚生活はずっと以前から破綻しているというものの、ルーン家は元々バロック家と縁戚であり、そうでなくとも争う理由は何もない。この話がもっと以前、例えば、息子をやる代わりに王妃選定レースから降りてくれ、とでも言われたのなら、まだ理解が及ぶのだが、いまこの時に、バロック家にとって、いや、宰相にとって、ルーン家にどんな価値が見いだされているのだろう? ユーリンダの為ばかりでなく、これに迂闊な返事は出来ない。但し、宰相の要請は、事実上、王命にも等しいものである。ただ、忠誠心によって従う義務がないというだけで、表面上、ここまで下手に出られているものを断るのは容易ではない。正常な神経の持ち主で、これを断ろうかと検討してみる者はまず、ヴェルサリアには他に存在しないだろう。

「そういう事で話を進めようと思うが、良いだろう? 勿論、正式な形の申し込みは後日に改めて行う。姫がこれに打ち解けて、心を許すようになってからにしたい、とこれは申しているが、これの言う事はともかく、私は、近々に、と思っている。国王夫妻の慶事が新たな出会いを導き、次期聖炎の神子が夫を得た、となれば、これもまた、国民を喜ばせ、王家への敬愛を深めるひとつの大きな話題となるだろうからな」

「ちょ、ちょっとお待ち下さい」

 アルフォンスは乾いた唇を噛み、笑みを浮かべた宰相の顔を見上げた。こんなに機嫌がよさげであるのに、これまで幾度となく反対意見を述べてきた事もあるというのに、今ほど宰相の底が見えずに怖ろしいと感じた事はなかった。確信を装ってはいるものの、宰相は、アルフォンスが素直に喜ばないだろうという予測もしている……何故なら、アロール・バロックの目には昨夜国王夫妻を讃えた時のような真の笑みはなく、どこか蛇を思わせる冷たい光を放っていたからだ。蛇の獲物は、自分であり、ルーン家であるという考えは飛躍のし過ぎなのだろうか? しかし、宰相の心づもりがどうであろうと、自分は言うべき事を言わなければならない。

「大変有り難く、光栄なお話……宰相閣下の深いご配慮には感激の極みです。しかし、このお話を受けさせて頂く前に、一度娘と話をしませんと……」

「なぜ」

 アルフォンスの言葉を遮ってたった一言放たれた宰相の言葉は、一瞬で室の空気をぴぃんと張り詰めさせるに足る冷たさを帯びていた。シャサールとティラールさえ、空気が変わったのに気付き、息を呑んでいる。二人とも、まさかアルフォンスが二つ返事で喜んで受けない筈がない、と考えていたのだ。

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