16・希望と影

 同刻。館の自室でソファにかけて、先刻の父の言葉を頭の中で何度も反芻していたユーリンダは、思い切って立ち上がった。

「どうなさいました、姫さま?」

 部屋の隅で編み物をしていた乳母がやや驚いたように声をかける。泣き笑いのような表情を浮かべて部屋に戻ってきてずっと、ユーリンダは何を聞いても黙ったまま、じっと座っていたのだ。だが、ユーリンダはようやく本来の彼女らしい明るい声で、

「もう大丈夫。ちょっとアトラと話してくるわ」

 と答えて廊下へ出て行った。乳母は編み物の手を止め、やや不安げな面持ちで閉まった扉を暫く見つめていた。


『きみが王妃の座に興味がないと言ったので、それすら辞退したんだよ』

 確かにその通りだった。

(そうだわ、お父さまはいつだって私に何かを無理強いした事なんてなかったもの)

王妃の座、と言われた時、いくら地位などに無頓着な彼女といえども、乙女としてその言葉の持つ甘美な響きにまるで無関心な訳ではなかったのだが、あくまで自分の傍らに立っているのは、アトラウス以外の男性など考えられない。会った事もない王太子を自分の夫に、など、想像も出来ないことだった。

『でも、いいの、お父さま? 王太子殿下が私を王都へ伴うように仰ったんでしょう?』

 と、さすがにその時は彼女も父の立場を気遣わずにはいられなかった。王家の方の意向に背いたりしていいものなのだろうか? なんだったら、会ってみて、わざと王太子が自分を気に入らないように振る舞っても……とまで考えた。どうせアルマヴィラで生涯を過ごすのだから、多少恥をかいたって、去ってしまえば忘れられてしまうだけだろう、とも。だが、父は首を横に振り、優しく言ったのだ。

『無理をする必要はない。きみ自身にもしもその気があるのなら、と念の為に話しただけだから。私的な打診であって命令ではない。王太子殿下はこれを断ったからといってお怒りになるようなお方ではないし、きみには元々、次期聖炎の神子という立場があるんだから、どうしてもという事はないんだ。今まで通りでいいんだよ』

『でもお父さま……私が王妃になれば嬉しいでしょう……?』

『そりゃあ、きみが立派な王妃になって国王となられるエルディス殿下と支え合う関係になれたら、わたしはとても嬉しいさ。しかし、きみは次期聖炎の神子として、大貴族の娘としての教育は受けているが、王妃として、或いは宮廷人としての教育は特に受けていない。親に、娘を王妃に、という野心があれば、歳回りを考えて他に名前が挙がっている姫はそうされて育ったのかも知れないが、わたしはきみの気質や望みにそれは合わないだろうと思った。間違っていたかい?』

『……!! いいえ、お父さま、間違ってないわ。私、アルマヴィラが大好きだもの。宮廷に憧れてないと言ったら嘘になるかも知れないけれど、ずっとそこにいたいとは思わないわ。私は、アルマヴィラで一生を送りたいの』

 さすがに、誰と、とまでは言えなかった。しかし、恐らく父は察していただろう。


『わたしはきみの幸せを誰よりも願っているつもりだ。そのわたしが、きみの考えている事が解らないと思うかい?』


(……そうよ、お父さまは、私とアトラの結婚を許して下さる。ティラールさまが私に求婚したって関係ないわ、だって王太子殿下さえ断って下さったんだもの! アトラの考えすぎだったのよ。アトラは私を愛していてくれた! 私もアトラを愛してる。もう何も問題はないわ。早くそれをアトラに伝えなきゃ!)

 ティラールが既に今朝ユーリンダのもとを訪れた事を後から聞き、娘に不用意な発言をしてしまったとアルフォンスが感じた事など彼女は知らない。アトラウスがどうして、王妃候補の話がもたらされた時はそれ程焦ったようでもなかったのに、ティラールが相手では勝ち目がないと感じたのか、そんな事も彼女は深く考えなかった。王家はヴェルサリアで最も高貴な存在だが、バロック家はルーン家と同じ大貴族に過ぎないではないか。

(王太子殿下をお断りして、バロック家の子息と結婚するだなんて、そちらの方が筋が通らないんじゃないかしら? 頭のいいアトラが、そんな事も解らないなんて可笑しいわね?) 

 脳天気に笑みを浮かべて考えながら、彼女の足取りは軽かった。

 だが、アトラウスの部屋に行ってみると、小姓に、先程若様は外出されました、と言われてしまった。

「まぁ……一人で? どこに行ったのかしら?」

「さぁ……若様は王都にご滞在の時はよく、お一人でどこかへお出かけになります」

「まさか、女の人のところじゃないわよね?」

「わたくしには判りかねますが……」

 本当に小姓は何も知らないのだが、ユーリンダの表情がみるみる強ばっていったので慌てて、

「ですが、そのようなご様子は全く感じた事はございません。書物の束などをお持ち帰りになる事もよくございますし、例えば、王立図書館などは、アルマヴィラでは手に入らない書物がたくさん眠っている宝の山だ、などと話されておられました」

 と言って慰めた。

「図書館? そうね、そう言えば、アトラは王都から帰って来たら、よく、新しいお話をしてくれるわ。外国の素敵な物語なんかを」

 そう言われると素直に信じ、今朝方愛の告白を受けたばかりだというのにおかしな邪推をしてしまった、とすぐに恥ずかしくなってしまうユーリンダである。

(図書館……私も行ってみようかしら?)

 そうも考えたが、すぐに、自分は体調を崩した事にして夕方は館に残るのだと思い出し、外出は控えようと思い直した。彼女が実際に王立図書館を訪れる時は、ずっとずっと後の事になる。

「わかったわ。夕方には戻ってくるわよね?」

「そのように仰っていました」

 夕方……アトラウスは、愛の思い出にリュートを弾いてくれると言っていた。思い出はこれからたくさん作ればいいのだと言ったら、アトラはどんな顔をするだろう? そう思うと、ユーリンダの顔は自然にほころぶのだった。幼い頃から変わらず慕ってきたアトラウス。その想いはこれまで、二人の距離が子どもの頃からずっと仲の良いきょうだいのようであった為、ユーリンダ自身の中でも、いつかアトラの妃になりたいという気持ちはあっても、具体的に、結婚して二人で暮らすということ、また、恋人になった男女がどのように接するのかということが、よく掴めていなかった。だが、今朝、彼に想いを告げられた事で、彼女は変わろうとしていた。もう子どもじゃない。何となく待っている、という時期は遂に終わるのだ。

(アトラがもしも周囲に気を遣って身を引こうとでも思うのなら、私がみんなを説得するわ。アトラが私を愛してくれているなら、もうなんにも怖くないわ)



 一方、アトラウスは、父娘の会話もユーリンダの決意も何も知らず、フードで顔を隠し、ルーン公邸からかなり離れた区画へ来ていた。王宮を中心に美しく機能的に建築された、王侯貴族から神官、上級騎士、富商などが主に住まう上町と呼ばれる地区を離れ、上町を護るように囲んで建てられた高い内壁を出て、一般庶民の住まう下町へ来ていたのだ。下町と言っても、やはり王都内である事に変わりはなく、治安の乱れは殆ど見られない。道路は舗装され、町民の服装もよく、貧困に喘ぐ者もなく、人々は昨夜の続きでまだ祝賀気分を引きずり、そこかしこで陽気な歌や踊りが披露されていた。流れ者の吟遊詩人などには、これ程の儲け時は一生のうちでも中々ないものだ。

 だが、アトラウスは浮かれ騒ぎに目をやる事もなく、目立たぬように黙々と馬を進めていた。何度も来ているので道を違う事もない。彼がこんな場所に詳しいとは、アルフォンスもファルシスも知らない。アルマヴィラに比べると雑多な人種が暮らす王都にあっても、黄金色の髪と瞳はとても目立つ為、二人が下町にわざわざ足を運ぶ機会は滅多にない筈だ。


 アトラウスはするりと角に逸れて薄暗い小路へ入り込んだ。道は狭く、昼間だというのに人通りは殆どない。貴族の子弟がこんな場所にいるとは誰も思わないような怪しげな雰囲気を湛えた一画だ。そのまま馬を進めると、彼はある家の崩れかけた門の前で止まり、馬を下りた。慣れた様子で馬をひいて家の裏手に繋ぐと、そのまま裏口の塗装の剥げた扉を、決められた合図のリズムで三度叩く。暫しの間があってすうと扉が開き、中から、茶色の不揃いな前歯がやけに目立つ、皺だらけの老人が姿を現した。

「そろそろおいでかと思うておりました、若様」

 と、老人は言った。

 アトラウスはフードを下げたまま素早く中に入り、後ろ手に扉を閉める。家の中は薄暗く、空気は籠もって様々な汚臭が混ざり、初めての者なら思わず咽せてしまいそうな程だ。だが、アトラウスは当たり前のように、ポケットからハンカチを出して鼻と口を押さえただけだった。少し経つと異臭にも馴染んできたので、彼はハンカチを元に戻した。

「サイモン、いい加減、この臭いは何とかならないのか。しかし、今日はいつもと少し違うな?」

「へえ。何せ、祝いごとのおかげで外国からの船が多いですからね。当然それに紛れて密輸船も普段より儲けられるわけで。色々珍しい品が入っておりますよ。若様もきっとお気に召します」

「そうか、それについては目録をくれ。今日はあまり時間がない。今日欲しいのは、サテュリオンだ。あるだろう?」

 老人は意外そうに目を剥き、そして枯れた笑い声を上げた。

「これはこれは……。若様には不似合いな。そんなものがなくとも若様はどんな相手でも……」

「無駄口をきくな。さっさと出してくれ」

 老人は肩を竦めて奥へ引っ込むと、すぐに紙包みと、新しい品の目録を持って現れた。アトラウスは代金を支払い、

「アルマヴィラに帰る前にもう一度来る。今日のは、予定外だ」

 と言い置いて、来た時と同じように素早く姿を消した。

 馬上で、アトラウスは紙包みを力を込めて握りしめた。

(こんな手段を使おうという僕を、きみはそれでも好いてくれるだろうか? だが、やはり僕は、あの男にきみを奪われる事には耐えられそうにない……)

 看板もない、うらびれたサイモンの店は呪い屋。怪しげな呪具や媒体、薬草などで商いをしている。アトラウスが求めたサテュリオンは、強力な媚薬だった。ユーリンダに求婚する事においてティラールに遅れをとった彼は、先に彼女との『既成事実』を作る事を考えていた。男女のことなど子ども同然に知らないユーリンダを、無理矢理自分のものにしてしまう。だが如何に知識がなかろうと、この薬を飲まされて身体が彼を覚えてしまえば、最早今までとは比べものにならない程に彼女はアトラウスなしではいられなくなる筈。そんな姿を見れば、ティラールも流石に熱が冷めるだろう。


 アトラウスもユーリンダも、全く別の想いを抱いて、夕刻を待ちわびていた。

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