27・闇に潜むもの

 日常的に人が出入りすることがない非公開書庫は黴臭い空気が淀み、闇の中にどんよりと沈み込むようだった。万一ひとが通った時に気づかれぬように入ってきた扉を閉めると、頼りはアルフォンスの持つランタンの揺れる光だけであり、四人は身体が触れぬ程度に近く寄った。入ってすぐから書棚が並ぶこの建物には古書が傷まぬよう光の入る窓はなく、天井近くに換気の為の小さな孔が備えられているだけである。ランタンの灯りが及ばぬ先は全くの暗黒……このままこのか細い灯りごと、闇に呑み込まれてしまいそうな感覚を四人は暫し覚えた。だが進むことを躊躇っている暇はない。

「足下に気をつけて。扉は地下にあり、地下への階段は正面の突き当たりの筈だ」

 とアルフォンスは囁いた。この時、唐突に天井付近でかさかさっと何かが走り抜けるような音がした。

「きゃあっ!」

 スザナは思わず悲鳴を上げ、アルフォンスの腕にしがみついた。気丈な女公爵も、このような状況――何が待ち受けるか解らぬ漆黒の闇に包まれて、忠誠を誓う部下の助けもなく女性は自分だけで付いてきていること――に、自覚している以上に緊張していたようだった。アルフォンスはランタンを掲げて音がした付近を照らし、

「もう何もいないが、人間の気配じゃなかった。鼠だよ……やはりいくらきみでも、怖いんだな」

 と、場の空気を和らげるように柔らかく笑った。

「こ、怖くなんかないわ。ちょっとびっくりしただけよ」

 とスザナは強がりを言ったが、ランタンの淡い光に照らされ、アルフォンスの黄金色の髪と瞳もまた、温かな光を放つようにこの闇の中でさえ輝いているのを目にして思わず息を飲み込んだ。

「怖くないわ。ルルアの化身のようなルーン公爵がいるんですから」

「おいおい、それは買い被りだな。わたしは魔道に対する術は持たない。闇に抗うのはただ己の心の力だけが頼りだ。だが、命に代えてもきみの事は無事に帰れるように護るからそう怖がらなくていいよ」

「……解ったわ、ありがとう」

 囁くような声でアルフォンスの言葉に礼を言ったスザナの顔はよく見えなかった。

「しかし、本当に魔道の封印などがあれば、我々だけではどうしようもありませんね」

 と、これは冷静な様子でリッターが指摘した。アルフォンスは頷き、なるべく足音を立てぬように進みながら、

「ああ、そうだ。だから我々は、『もし魔道の封印がなされているのなら、そもそも鍵を後生大事に隠しておく必要はない筈だ』という希望に縋るしかない。だがそんなものが王立図書館の中に長い年月放置されていれば、王宮魔道士の網にかからない訳がない。昔は今よりもっと魔道士の数は少なかったと聞くし、それはない可能性が高い、とわたしは思っている」

 と応えた。

「そう願いたいものですね。ここまで来て無駄足はごめんです」

「きみたちが強引に付いて来たんだから、無駄足でも後で文句を言わないでくれたまえよ」

「それは勿論ですが……」

 リッターはいつ何があってもいいようにと、腰の剣に手をかけている。その背後にぴったりとついたエクリティスは、同じような構えで三人の大貴族を護るという気概を匂わせてはいるものの、内心ではリッターの事も警戒していた。気心もよく知れてしかも女性のスザナはともかく、他の者は全て疑いの目で見なければ、このような閉ざされた場所であるじの安全を絶対に確保する事は難しい。リッターにその剣をアルフォンスに向ける素振りがあれば、エクリティスは即座に彼を斬る覚悟を決めていた。

 一方アルフォンスの方は、自分がスザナとリッターをここへ連れて来たのだから、何があってもエクリティスと共に二人を護らなければならない、という責任を感じている。リッターがエーリクの死に関与している可能性は勿論全く考えていない訳ではないが、何か後ろ暗いところがあるならば自分の部下を伴ってくる筈であり、わざわざ危険を冒して単身で乗り込んでくる事もあるまい、と思う。仮にも七公爵の一人が暗殺者のような真似をする筈がない。疑い始めるときりがないのでアルフォンスはそう信じる事にしていた。

 本館と違い、ここはそれ程手入れが行き届いていない。床には埃が積もっている。足下を照らしたアルフォンスは、積もった埃の下にうっすらと靴跡があるのを見つけた。エーリクのものだろうか? 掃除人ならば靴跡は残さないだろうが……。

 黴臭いたくさんの書物を収納した書棚は、経年の劣化で傾いでいるものも多い。書棚と書棚の間の狭い通路を一列になって通りながら、この闇の中でうっかりぶつかって、もしも書棚が倒れでもしたら大変だなと思った。とにかくランタンの灯りだけが頼りである。これを取り落としたら、この闇の中でじっと朝を待つ以外どうしようもなくなるだろう。ランタンの持ち手をしっかりと握りしめ、アルフォンスは十列程並んだ書棚の間を通り抜けて、突き当たりの階段の所までたどり着いた。

「わたくし、ここの地下へ下りるのは初めてだわ。地下の書庫は殆ど未整理の状態だって聞いたから」

「私もです。ここまでは何度か入らせてもらった事はあるんですがね」

「実はわたしも、子どもの時のあの日以来、下りるのは初めてなんだ。記憶では、全く整理がされてなくて、古すぎてばらばらに分解しそうだったり、文字が消えかけているような書物が埃の中に無造作に積まれているような状態だったからね。子どもの時は、そういう書物の中にすごい掘り出しものがあるんじゃないかとわくわくして忍び込んだんだが、今思えば、あれはちょっと手の付けようがない感じだったな。あれを整理する事だけに専念する者が何年かかければ、きちんとまとめられて、何か貴重な書物も出てくるのかも知れないが」


 階段は急な狭い石段で、ランタンを下げて覗いて見ても、先はねっとりと湿り気を帯びたような漆黒の闇があるばかりである。勇敢なアルフォンスでさえ、ここへ降りていくのには些か抵抗を覚えた。怖いからではなく、この闇には何とも嫌な感じがつきまとっている気がしたのである。もしもここにかれの妻、魔道に長けた聖炎の神子カレリンダがいたならば、絶対に進んではいけないと最愛の夫を止め立てしたであろう。だがカレリンダはここにはおらず、いるのはアルフォンスと同じように武の腕はあっても魔道の才能は持たない者ばかりだった。アルフォンスは嫌な感じを、ただの気の迷いと振り切った。死んだ友の為にここまで来たのに、闇くらいで怖じ気づいて引き返すなど出来る筈もない。

「狭いから……足を滑らせないよう気をつけて」

 そう言って階段に踏み出したアルフォンスに、他の三人はただ黙って頷き、後へ続いた。


 アルフォンスの記憶では、ほんの二十段程度の階段だった筈だったが、それが数倍にも感じられ、一歩一歩踏み出す毎に、まるでダルムの氷獄――死後、ルルアの国に受け入れてもらえぬような罪深き者が永遠に苦しみ彷徨う牢獄と信じられている――へ進んでいるような気さえした。壁に触れると石壁はぞくりとする程冷たかったが、この暗闇の中で手すりもない階段を下りるには、左手でランタンを持ち、右手は壁につけていないと危ない。不意に足下にぽっかりと穴が開いて永劫の闇に墜ちてしまったら……そんな想像さえ頭をよぎった。

(昼間に来れば何という事もない場所なのに、何を怯えているのか)

 アルフォンスはそんな自分に苛立ちを感じる。自分を囲んでいる感覚が何であるのか、何に近づいて行こうとしているのか知らぬのだから、仕方のない事ではあった。恐れねばならぬのは、この闇に乗じて敵が襲って来て、スザナやリッターに害が及ぶ事だけである筈、とアルフォンスは己を叱咤し、更に歩を進めた。背後の三人の息遣いは聞こえるが、皆同じように異様な感覚に呑まれているらしく、誰も口を開こうとしない。そして少なくとも今は、四人以外の人間が近くにいる気配は全くなかった。ただ、微かにかさかさと音を立てて頭上を鼠か虫が這ってゆくのは分かり、今はその普段ならば不快な筈の生物の気配が有り難くさえあった。


 長く感じた階段がようやく終わり、踏み出した先が平らな床になった事に、アルフォンスはようやく少しばかり安堵して、後ろを振り返った。が、三つの影を認めると同時に、突然異様な気配を感じた。黴臭い湿った空気の中に混じって鼻腔をつくのは、甘やかな匂い……。

「気をつけろ、妙だ」

 囁きに言葉が返ってくるより先に、何か温かいものがアルフォンスにのしかかってきた。何が来ても大丈夫なように身構えていたつもりであったが、それがスザナである事に気づき、思わず彼女を安全に抱きとめる方へ意識が向いた。一歩下がった床は湿気で濡れており、アルフォンスはスザナの重みに足を滑らせそうになる。何とか踏みとどまったものの、スザナを落とさなかった代わりに大事なものを落としてしまった。この闇の中の命綱と言ってもよい程大事なランタンがアルフォンスの手を離れ、がちゃんと音を立てて壁にぶつかり割れた。

「アルフォンス様!!」

 エクリティスの声が闇のどこかで聞こえたが、何故かそれは弱々しいものだった。

「リッター! エク! 大丈夫か!」

 ランタンの灯りが断末魔のような瞬きを残して消え、今や鼻先すら見えぬ闇の中で、動かないスザナを抱えたままアルフォンスは声を上げたが、どうした事か、それに対する応えはなかった。

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