20・貴婦人の争い

 国王夫妻が退出した後も、宴はいつか終わるという気配すら微塵も感じさせず賑々しく、人々は一層陽気に歌い踊り酒を呑んだ。今宵の主役である自分たちの王が退席し、更には注目の美女であったユーリンダも体調不良を理由に帰宅してしまったという事で少々見物が少なくなったとしても、宮廷音楽隊の美しい調べは絶え間なく鳴り響き続けるし、上等の酒も食べ物も不足なく、美しく着飾った美女や貴公子が一堂に集い、慶事ということで多少の無礼講も許されるとあっては、この夜が永遠に終わらずに楽しみ続けられれば良いのに、と祝宴の客達が感じるのも無理のない事であった。ただアルフォンスにとっては、様々な心配事や悼みや課題が急に山積し、宴を楽しむどころか、早く退席したいとばかり思うのも仕方のない成り行きだった。だが少なくとも、王妃宮にて『真の』婚姻が成し遂げられて花火が上がるまでは、理由もなく退席できる立場ではなかった。ルーン一族を珍しがる外国の大使や、日頃からのかれの崇拝者達がどっと周囲に詰めかけてきて、暫くは話をしたり踊ったりと社交に忙しく、ものを考える暇もなくなった。

「この夢のような素晴らしい夕べには、どんな事が起こっても、一夜の夢とルルアもその神子もお見逃しになるのではありませんか、ルーン公殿下」

 アルフォンスの右腕に触れながら甘い声で囁いたのはリュスト侯爵夫人である。三十前の女盛り、奔放な男性関係で有名な美女で先王の姪であり、気弱な夫は何も言えずにそんな妻を眩しげに眺めるばかりの陰気な男である。この時代のヴェルサリアでは、身分の高い男性が愛妾を持つのは普通の事で、既婚の婦人が愛人を持つ事については、夫が訴え出れば相手を処罰したり妻を離婚したりする権利があったが、多くの場合そこまでには至らなかった。無論女性の浮気は貞淑で敬虔なルルア信者から良い目で見られる筈はなかったが、ヴェルサリア宮廷では性的な倫理観というものは神よりもむしろ王がその流れを定めるものであった為に、歴史の中には姦淫者に厳しい時代もあったものの、今では既婚女性が意中の男性を誘惑する事は特別恥ともされなかったのである。リュスト侯爵夫人の囁きは殆どの男を惹きつけずにはおかない官能的な響きを含んでいた。無論、共に一夜の夢を見よう、という誘いである。すると、左側からもう一人、緑色の瞳の美女が寄り添ってきた。王妃の親類のデュパン伯爵夫人だった。彼女は未亡人でリュスト侯爵夫人よりいくつか年上であるが、一時期は先王の寵愛を独占していた事もあり、寵がもっと年若い愛妾に移った後も、よく機転がきく所から先王の気軽な相談相手として重用されており、宮廷女性の派閥のひとつの頂点に立っている。噂好きで男好きな類いの宮廷の女性たちは、いくつかの派閥に分かれて皆、未婚者既婚者に関係なく、名のある貴公子を射止める事で自分の女性社会での権勢を伸ばそうとしていた。先王自身がかなりの女好きでその中の少なくとも十数人とは関係を持った事があるという噂であったから、誰も彼女たちを諫められない。先王は安定した良き治政を行ったが、自身の宮廷の風紀には緩く、乱れた時代であったとも言える。デュパン伯爵夫人は、

「ルーン公殿下は少々お疲れのようですわ。先ほどから病人の見舞いにあちらへこちらへと……お帰りになる前に、わたくしのところでお休みになっていかれたらよろしいですわ」

 と誘った。彼女は夫のない身なので、公衆の前でもより大胆になれる。とにかく二人とも、この記念すべき夜に、美々しいのにお堅いことで有名なルーン公爵を褥に引き入れる事に成功すれば、それは輝かしき戦績になると考えているようで、普段とは印象を変えつつも自らの魅力を最大限に引き出した艶やかなドレスや装飾で飾り立てている。

 勿論、愛妻家のアルフォンスは、こうした誘いを受けること自体に辟易し続けており、以前にはあまりの煩さに「自分は妻以外の素晴らしき女性達を賛美し敬意を表しはするが、それ以上の事は決してしない」と公言さえしたのに、何故この愚かな女性達には解って貰えないのか、と苛立つばかりであった。中には本気でかれを恋い慕う女性もいるし、想いを遂げられぬ事を嘆いて神殿に入ってしまった女性さえいたのだが、ただ身体の関係を持って自分の価値を高めようという女性の方が目につきやすいものだから、そうした真面目な女性に対してまでアルフォンスはそういう目で見てしまい、(妻ある自分に対して厭わしい……)としか思えなくなってきている。そんな訳だから無論かれは、

「ありがとうございます。しかし娘の体調が悪いので、宴がある程度流れたら自邸へ戻らねばなりませんから」

 と、幾分素っ気なく突っぱねて二人の貴婦人から離れようとした。だが既に幾度も袖にされている二人はこれくらいの事では諦めない。強引にかれの腕を引いて、

「ユーリンダ姫はただのお疲れなのでしょう? 休息が必要なのはむしろ殿下の方ですわ」

「今宵は特別な夜。全ての者が愉しまねばなりません」

 と、互いに火花を散らせつつ左右から言い立てた。アルフォンスはうんざりしたが、無理矢理振り払う訳にもゆかず、誰か救いの手でも差し伸べてくれはしないかと人々を見回したが、皆、この二大女傑の争いに興味を持ち、忍び笑いで成り行きを見守るのみだった。他にもあわよくばルーン公爵の愛人に、と狙っていた女性たちもあったが、この二人には敵わないと諦めて、どちらが勝者となるか見物する側に回った。政治的な論争などであれば、他人の手を借りようなどとは露も思わぬアルフォンスも、こうした女性のあしらいは最も苦手とする所で、常ならばこのように気のない素振りを見せれば大抵相手は引くものが、この大舞台でどちらが勝利するかと意気軒昂な女傑たちが意志を固めている為、相手にそれ程恥をかかせずに諦めてもらうにはどうすればよいのか、妙案が浮かばなかった。こんな事に煩わされている場合ではないのにと内心自身の不器用さに苛立ちもしたが、表面上は穏やかな物腰を崩さない。二人を手ひどく振って離れる事も可能ではあるが、嫌ってはいても相手の体面をつい気遣ってしまう。それに、これは自身では気にならない所ではあるが、公衆の面前で身分ある美女二人にこうまで言い寄られてもそれをものにしないというのは、いくら妻ある身といえど、男らしさに欠けると評価されても仕方のない世の風であった。二人もまた、そんなかれの心中と立場を知り尽くしていて、今夜こそはどちらかの獲物にするのだと意気込む点では気が合っている。王に対してさえ不興をかう事も承知で諫言してきたというのに、どうも女性に対しては態度が優柔不断にならざるを得ない、おのれの気性をアルフォンスは呪った。


 だが、この時、思いもしなかった援軍が現れた。

「まぁ、先約があるとはっきり言えばいいではないの、アルフォンス」

 裾の広い真紅のドレスが、豊かな赤毛を艶やかに映えさせて見せている。余裕の笑みを浮かべて近づいてきたのは、スザナ・ローズナー女公爵だった。彼女はリュスト侯爵夫人より十近くも年上ではあったが、とてもそうは見えず、熟した女の色香を纏わせて、小皺のひとつも見えない滑らかな肌、深緑の豪奢な宝石飾りが吸い付くような豊かな胸の谷間も露わにアルフォンスに寄り添ってきたのである。スザナは夫人ではなく自身が女公爵であったので、宮廷女性たちとはこれまで一線を画し、大抵は男装で凛として公務をこなす姿ばかりが人々の目に焼き付いていたので、今日の、女性として最高に着飾った姿は初めて目にする者もあり、なかなかの評判ではあったが、まさかここでこのように登場するとは誰もが予想だにしていなかった。

「もう三月ばかり王都へ詰めてカレリンダの顔も見ていない、この目出度き夜に独り寝など、陛下の慶事を同じ心で祝っていない不忠も同じだと言ってわたくしを口説いたじゃない」

 スザナの発言に周囲は大きくどよめき沸き立った。まさかお堅いルーン公が、今までどんな美女が口説いてもおちなかったものが、年上の幼なじみをそんな言葉で口説くとは! しかし一番驚いたのは当のアルフォンスである。

「なんだって! わたしが?!」

 と思わず叫びかけたところを、スザナからドレスの裾の下で思い切り足を踏まれた。

「ばかね、助けてあげようというのに、話を合わせなさいよ」

「しかし、それではきみの評判が……」

「わたくしは気軽な独り身よ。どうだっていいわ。わたくしが相手となれば、皆当分はおとなしくなるでしょう。それに、万一カレリンダの耳に入ったって、わたくしが相手と知れば茶番だと理解できるわ」

 スザナは既に夫を亡くしている。再婚を考えてもいない。アルフォンスとしてはそれでも大いに不本意であったが、確かにこの場を乗り切るには他によい策もないようだった。祝宴なのに場を盛り下げるような振る舞いも確かに無粋ではある。

「本当なのですか、ルーン公殿下?!」

 侯爵夫人と伯爵夫人は眉をつり上げて甲高い声を揃えて詰問してきた。

(うっ……)

 あんな品のない台詞でスザナを誘惑したなどと認めるのは、さすがのアルフォンスも矜持に引っかかり、即答出来なかった。だが違うと言えば今度はスザナに恥をかかせる事になる。

(仕方ない、座興だ、スザナの洒落だったのだと後日に解って貰えれば……)

 そう心を決めて、しかしかれらしくもない歯切れの悪い調子で、

「そ、そういえばそんな事があったかも、いや、そうです、ローズナー公と、その、宴の後で飲み語りでもと……」

「まぁっ!! あんなに、妃殿下以外に女性は持たないと仰ってましたのに!」

 アルフォンスの台詞の後半は、周囲の女性達の悲鳴のような声にかき消されてしまった。

「アルフォンスは元々、わたくしに求婚した事があるくらいですもの。兄たちが流行り病で亡くなりわたくしが家を継がなければならなくなったから、それを受ける事が出来なかっただけよ」

「スザナ! それはほんの小さな子どもの時の話だろう!」

 得意げに言い放つスザナに対するアルフォンスのこの抗議の声も、騒然となった周りに飲み込まれてしまう。

「素晴らしい夜よ……もうすぐ大きな花火があがるわ。一緒に庭園に出ましょうよ」

 そう言うとスザナはアルフォンスの腕に手を回し、これ以上何も言う隙を与えずに庭園に続く大理石の階段へ引っ張っていった。途中でリッター・ブルーブランの前を通ったが、彼はこれが茶番であると察しているらしく、口の端に同情を含んだ微笑を浮かべてみせた。


 庭園への出口に近づいた時、二人を呼び止めた者があった。

「これはこれは、お二人がそんな仲とは、長年の付き合いの私も全く気づきませんでしたな」

 杯を上げながら陽気な様子であったが、その口調に含まれるのは明らかな嘲笑だった。彼の背後には、彼に諂う者たちが付き従い、皆一様に調子を合わせてくすくすと笑っていた。

「座興です、シャサール……お判りでしょう」

 アルフォンスは相手の挑発的な物言いに冷静さを取り戻し、静かに応えた。シャサール・バロック……宰相の長男、王妃の父、そしてアルフォンスやエーリク、スザナにとっては同様に幼少の頃からよく知った間柄の男。だが親しい仲とは言えなかった。

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