18・不吉な預言ー2

 ややあって、父と兄、従兄が見守る中、ユーリンダはゆっくりと目を開けた。

「おとう……さま?」

「気がついたか、ユーリィ。気分はどうだね?」

 ほっとしてアルフォンスは娘に優しく声をかけた。この数刻だけで随分色々な事があったが、最も安堵できた瞬間だった。ユーリンダはぼんやりと焦点の合わない瞳で父の顔を見上げていたが、つと、その黄金色のひとみから涙がこぼれ落ちた。

「ああ……夢だったのね。よかった……」

 血の気の失せた整った貌に、徐々に赤みが戻って来た。

「どんな夢を見ていたんだね?」

「こわい……とても怖い夢だったわ。お父さまの胸に剣が……」

 そう言いかけてユーリンダはぶるっと身震いした。

「嫌だわ、言いたくない、思い出したくない……不吉な夢だもの」

「ユーリィ、不吉を身のうちに溜めてはいけないよ。わたしなら大丈夫だから。この通り、どこも刺されてなんかないだろう?」

『不吉な預言を受けた巫女がそれを秘していると、それが他人の災いであっても自身に降りかかる』

 カレリンダが以前何度か口にしていた言葉が胸中に蘇った。

「でも……」

 言い淀むユーリンダに対してアトラウスが口を挟んだ。

「もしも詳しく思い出せるなら、それが実際に助けになるかも知れない。何て言ったって、きみは次期聖炎の神子なんだから、その夢には意味があるかも知れない。伯父上を刺したのはだれだった?」

「……わからない、顔は見えなかったわ……後ろから……ああ、いや、怖い! 本当にこれ以上思い出せないわ。私、どうしちゃったの? どうして眠ってしまったのかしら? 舞踏会は?」

 これがルルアの預言であるとは彼女は自分では気づいていないようだった。

(前から襲ってくる敵には、わたしは決して負けはしない。だが、背後から潜んでくる者とは……)

 一瞬そんな事を思いかけ、アルフォンスはすぐに、死んでなどなるものかと思い直した。

「わかった、覚えていないならもういいんだ。ただ、一つだけ。鍵について、何か思い出せないか?」

「鍵? なんの鍵?」

 これ以上娘から有益な情報は得られそうになかった。

「まあ無事でよかった。今の夢の事は、アルマヴィラに帰るまで誰にも言ってはいけないよ。舞踏会はまだ続いている。きみは興奮し過ぎて疲れて倒れたんだよ。何しろこんな盛大な会は初めてだからね。気分が落ち着いたら、館に帰りなさい。エクリティスに送らせよう」

「まぁ……私、倒れてしまったの? そんな事初めてだわ。そういえば、お父様と王妃様のダンスを見ていた後の事を覚えてないわ」

 そう言って、ユーリンダは少しまだ具合が悪そうに口元を押さえた。黄金色の髪は半分解けて、新調の青いドレスの胸元に広がっている。折角のドレスもあちこち皺が寄って乱れている。

「そうなの……舞踏会はまだ終わってないのね。でも、こんな恰好じゃ帰るしかないわね」

 まだ帰りたくない、と駄々をこねるのでは、と想像していた男性三人は顔を見合わせた。やはりそれだけ疲れもあるのだろう。元々あまり体力のない娘である。しかしさすがに表情は残念そうで、もう一曲アトラと踊りたかったのに、と呟いた。これを聞いてアトラウスは、

「伯父上、僕が彼女を館へ送っていきます」

 と申し出た。アルフォンスは軽く驚いて、

「しかし、きみくらいの若者たちはまだ殆ど残っている。きみもまだ色々と挨拶せねばならない相手があるだろう」

「もうほぼ済ませました。僕はあまり踊っていませんから」

 実際、アトラウスはユーリンダとの一曲しか踊っていなかった。故郷アルマヴィラでは、その貴い血筋ゆえ当然持つべき筈の黄金色を持たぬ事から、未だ彼を正式なルーン一族ではないと陰口を叩き、『ブラック・ルーン』と仇名する輩もいるが、この宮廷では黄金色を見る方が珍しい為、彼の風貌は何の非の打ち所もなく、優しげで理知的な雰囲気の黒髪の美青年として、ファルシスほどではないにせよ、うら若い宮中の婦女子に人気がある。だが、彼はユーリンダと踊った後は、彼女が順番に他の貴族と踊るのを、他の貴族と礼儀正しく会話をしながら眺めているばかりで、誰にもダンスを申し込もうとはしなかった。その間にファルシスの方は、宮廷でも特に美女の座を争うシェリー・ベクレル伯爵令嬢とニコレット・フレイ侯爵令嬢との、どちらが先にファルシスと踊るかという争いを丸く収め、更に他の数人の美女とも踊っていたのだが。

「お父様、アトラさえ良ければ、私、アトラと一緒なら怖い夢の事も忘れられそうな気がするわ」

 ユーリンダもこう言い出したので、

「わかった、じゃあユーリンダを館に送り届けたらアトラウスはまた戻って来て宴を楽しむといい。他に騎士を二人ほどつけるようエクリティスに言っておくから、すまないね、アトラ」

 結果的に二人の言うとおりに計らったのは、別段我が儘を許した訳ではない。ふと、エクリティスには別の用を頼まねばならない事を思い出したのだ。だが、ファルシスはやや不思議そうにちらと父の表情を窺った。アルフォンスは平静な様子で、戸口に待つエクリティスに、馬車を引かせて騎士を二人つけるように命じ、アトラウスとユーリンダには、気分が良くなったら発つようにと言い置いた。同時に、別の控え室についてきていたユーリンダの乳母のマルタも呼び寄せたので、アトラウスとユーリンダは二人きりで過ごす訳ではない。

 アルフォンスは真剣な面持ちでエクリティスに何か小声で指示を加えている。その様子から、ユーリンダの事とは別件であるとファルシスには見て取れた。エクリティスも常の通りに表情を崩すこともなく頷き、立ち去って行った。エクリティスはファルシスにとっては剣の師であり、尊敬する騎士であるが、父に対する態度は忠犬を思わせる。もっと生意気盛りだった頃、ファルシスは実際にそういう意味の事を口に出して揶揄した事がある。するとエクリティスは怒る事もなく、『それだけ父君に心服しているからです。わたしにとっては、アルフォンス様の盾である事が生きる意味なのですから』と応えたものだった。それ程に、ルーン公と聖炎騎士団団長は深い絆で結ばれている。

「では我々は宴に戻るとしよう。国王陛下ご夫妻が退出なさる時に席を外している訳にはいかん」

 アルフォンスは息子に言った。そろそろ、その頃合いの筈である。新婚の国王夫妻はこれから初夜を迎えるのだ。これは私的な事ではなく、ヴェルサリアの次の世代へ繋ぐ子を作るのが使命である国王夫妻にとって、重要な行いである。うら若い王妃にとっては、いかに気丈とて気恥ずかしい事であろうが、ことが成れば、次の間に控えている女官長の合図で、夜中に一段と盛大な花火が上がる予定となっている。国王の結婚とは、余人のものとは異なり、古来から公のものであるのがしきたりなのだ。


 ホールへの回廊を姿勢の良い父の背中を見て歩きながら、ファルシスの頭の中には、後に残してきた妹と従兄の事、そして妹の預言の内容が、整理できないままにぐるぐる回っていた。

『不吉な預言とは、それを回避できるよう努力する機会をルルアが下されたものなのです』

 という、何度も聞いた母の言葉が幼い頃から胸に染みこんでいるので、ファルシスは本当に父が死の危機にあるとはあまり考えていなかった。不吉な預言は的中する確率の方が高い事も知っていたが、父には当てはまらない気がした。病死や事故死ならともかく、大貴族である父が何者かに剣で刺されるなど、この平和で安泰な世の流れではどうにも想像しにくい。試合用ではない剣を使った決闘、という可能性はなくもないが、それならば背後から刺されて、というのはおかしい。ならば父に恨みを持つ者の仕業? 暗殺? しかし父はルーン家始まって以来最も優れた盟主であると誰からも認められている人物である。卑怯な輩に背後から刺されるような事がある筈がない、とファルシスは思う。

 実際には、どれほど優れた人物であろうとも、いや、傑出していればしている程、人心を集めると同時にまた恨みや妬みもかうものである。万人にとって有り難い人物など存在しないのだ。たとえどれだけ公平な裁きを行っても、罪を償うべきとされた者の全てが自らの非を認める訳ではないのだから。アルフォンスは、時間の許す限り、アルマヴィラ都で執行される処刑に領主として立ち会ってきた。無論、好きこのんでではない。他の公爵はそんな事はしていないと言う息子に対してかれは、罪人といえど自らの民のひとりであるのだから、その命を権力によって絶つ時には見届けるのが上に立つ者の義務である、と話した。そんな父をファルシスは尊敬した。が、処刑台に向かわされる罪人がどんな目で父を見ているかまでは気づかない。非道な罪を犯したのだから、それを悔いながら、罪人が永劫に繋がれるというダルムの氷獄に向かうだけだとしか思わない。ルルアの秩序に守られたこの世は、間違った事が時にあるにせよ、結局はあるべき姿に落ち着くのだ、という幼い頃からの母の教えが心の基盤となっている。典型的な温室育ちの貴公子の考え方と言わざるを得なかった。

 そもそも、大陸のどこもかしこもが平和という訳ではない。下層民の住む治安の悪い区域では争いごとも日常茶飯事であるし、辺境地帯では土地が悪く年によっては食料に事欠いて小規模な反乱が起きる。そういう場所に身を置く人間ならば危険と隣り合わせの生活かも知れない。しかし、聖地アルマヴィラ都を中心とする、豊かで恵まれた土地柄の父の領地と、このヴェルサリア王権の盤石な大都市、王都エルスタック以外、殆ど訪れた事もなく、血で血を洗うような争いをただ知識としてしか知らないファルシスには、それは遠い世界だった。

 父は預言をどう受け取っているのだろう? 父の気性では、自分の事よりも、国王に対して不吉な言葉があった事を気にかけているに決まっている。

新王エルディス三世……勿論ファルシスも父同様に唯一無二の主君として忠誠を捧げる相手であるが、父のように、身命投げ打ってでも仕えたいという意識は正直なところ希薄である。少年の頃から宮廷に出入りしている彼は、二つ年上の当時の王太子とは幾度も剣の稽古の相手を務めたり共に学んだりした間柄であるが、どうにも線が細く気弱な印象を受ける。ファルシスは前王、エルディスの父親から気に入られており、ファルシスもまた、威風堂々としていかにも王者然とした風格を備えた前王を敬愛していた事、前王が自分の跡継ぎの武の才にやや不満を抱いていた事、そしてエルディスの方でも自分の肉親よりも、立太子前の幼い頃からずっと欲得抜きで誠実に接してくれていたアルフォンスを兄のように慕っていた事……様々な思惑が絡み合い、エルディスとファルシスは、固い絆で結ばれた主従とは今のところは言えなかった。勿論、ファルシスもいずれは父の跡を継いでルーン公となり、国を支える7本の柱のひとりとなるのだから、その時までには新王ももっとずっと王者らしく、忠誠を尽くすに足る人物になっている筈だと内心考えてはいた。

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