16・王妃との舞踏

 王妃が椅子から立ち上がり、優美な仕草でルーン公にそのしなやかな手を預けると、ルーン公は国王に一礼し、王妃を差し添えしながら中央の区画へ静かな足取りで進んだ。最早宴もたけなわ、人々は陽気に呑んだくれて踊り、礼節を乱すような振る舞いをするような客はこの場にはいないものの、最初の頃に比べればだいぶくだけて、年配の者は同輩との会話に花を咲かせ、若い者は賑やかに色々な相手と楽しんだり、ただ己の意中のひとの心を捉える事に夢中になったりしていたが、一度座についた王妃が再び踊ろうとしているのを知って、この高貴で美しいペアを見ようと興味深げな様子になった。比較的地味な存在であったエーリクや、まだ七公としては新参者の印象が拭えないリッター・ブルーブランとは異なり、アルフォンスは十代の頃から今に至るまでずっと、宮廷の殿方の華と言われ、視線を集める事には否応なしに慣らされている。そしてうら若き王妃はといえば、この連日の行事の日程の過密さ、また、常に多くの人目に晒され続けている事から、並みの娘ならばとっくに気力も体力も限界に来ている筈のところであるが、まるで、こんな事はもうずっと前から当たり前にこなしてきたとでもいうような凛として揺らぎのない表情と態度を片時も崩しはしなかった。むしろ王妃は、時が――宰相の孫娘と言えど伯爵令嬢でしかなかった者が王妃として即位してからの時が、過ぎるにつれてこそ活き活きとその緑色の瞳の輝きを深く強くしてゆくかのようであった。エーリクの事で衝撃を受けている様子など、最早どこにも窺えない。アルフォンスは内心、この娘の強靱さに舌を巻いた。そもそもユーリンダが王妃候補として立っても到底敵わなかったであろうと思える器は、父親を飛び越えて完全に祖父譲りである。

(それでもやはり、エーリクがあのまま息を引き取ったとお知りになれば動揺なさるだろう)

 今宵の国王夫妻は、王国の繁栄を象徴する、幸福に満ちた、とび抜けて美しい一対の飾り物であり続ける事が一番望まれるのだ。今宵ばかりは仄暗い陰謀の気配などで若い花婿と花嫁の貌を曇らせる事があってはならない。それを内密に処理し、夫妻を危険から護る事が、宰相を筆頭とする公爵や騎士団長の役目である。そのように己に言い聞かせながらアルフォンスは王妃と共に国王に敬意を表してから、奏でられた曲に合わせて踊り始めた。曲は、今日三度目の『陽光のメヌエット』。アルフォンスにも王妃リーリアにも、宮廷人皆にとっても馴染みの深い曲である。

 アルフォンスの輝く黄金色の髪と王妃の金糸の縫い込まれたローブが緩やかに舞う毎に、居並ぶ人々は現実以上にそれを眩く感じ、そしてこの光こそ王国に下されたルルアの恵みの豊かさの表れと思い、幸福感に酔い痴れた。

「……ルーン公」

 舞踏も中盤に差しかかった頃、王妃リーリアは突然囁きかけた。

「はい、どうなされました?」

 流れる動作には微塵のぶれもなく、アルフォンスは歳若い王妃に応える。王妃は顔色も変えずに言った。

「グリンサム公は亡くなったのでしょう?」

 この言葉には、何と答えるか、さしものアルフォンスも数瞬惑いを覚えた。祖父が伝えなかった事を、この若い娘は自力で見通している。新郎の方はすっかり宰相の言葉を信じ切っているようであるのに、新婦は祖父の嘘を見抜き、その上で王に同調した振りを崩さず、あの宰相バロック公をも見事に欺いているのだ。新王妃の賢しさにアルフォンスは驚くばかりであったが、表情には出さなかった。

「……なにゆえにそう思われるのです? 彼が王妃陛下の傍に倒れ伏し、女官たちが陛下を他所へお連れした時、彼は確かに生きておりました」

 慎重にアルフォンスは事実のみを言った。王妃は優雅にステップを踏みながら軽く微笑む。

「グリンサム公は、わたくしの手を取った時、既に気力だけで立っているようでした。そしてあんなに血を吐いて……少しの手当てで回復したとは思えないわ。それに、倒れる時、彼は呟いたのです。『ルルアよ、私を殺す者にお許しを』と」

「…………」

「今宵の祝典に不吉な影など認められよう筈もありません。だからわたくしは祖父の正しい判断に添って振る舞っています。でも、あなたは真実を知ってらっしゃる。わたくしも、真実を知りたいのです。不吉など恐れません。わたくしは、ヴェルサリアの歴史に残る偉大な王妃となるのですから」

「……それは、間違いのない事だと存じます。恐れ入りました」

「この国はこれから大きな変革の時を迎える、そんな予感がします。グリンサム公の死は、その予兆に過ぎないのではないか……けれど、祖父はわたくしに何も教えてくれません。わたくしは、常に真実を知っていたいのです。だから、ルーン公、あなたに、わたくし個人の配下になって頂きたいの。あなたには何の野心もない事は知っています。でも、次の宰相にとわたくしから陛下に口添えを、という約束には心が動きませんか?」

(恐るべき乙女だ)

 とても、ユーリンダとそう歳の変わらぬ小娘とは思えなかった。リーリアには、祖父のバロック公と同じ野心があり、賢智があった。但し、人を従わせるという面においては、やはり若さ故、些か性急すぎるようであった。

「次の宰相は王妃陛下の父君でしょう? 誰もがそう思っています」

「勿論、娘として父の事は愛しています。けれど、父が祖父の意に反してわたくしの思うように動いてくれるとは思えませんもの」

(つまり、わたしならば御しやすいからということか。これはまた随分見くびられたものだ)

 急に、馬鹿馬鹿しい話に思えてきて、アルフォンスの口の端に一瞬笑みが走った。このような大衆の前で、祖父の力によって王妃になったばかりの小娘が、もう国の半ばを握った気になって先走った事を考えている。勿論、二人の会話は誰にも聞こえようはなく、機会を逃さぬその大胆さには驚くばかりだが、このような気性ではやがて国王すら軽んじるようになるのではないか、とアルフォンスは秘かに懸念も覚えた。

 一方、リーリアは、今の言い方はさすがにあからさまであったかと思い直したようで、

「それに、宮廷の臣のなかで祖父の次に人心を集めているのはルーン公だと誰もが認めるところ、陛下も篤く信を置いておられます。何も不自然はありません」

 と言い添えた。

「そのような事、宰相閣下がお認めになるとは思えませんが。次期宰相を任命するのは国王陛下ですが、その指名には現宰相の意向を重んじるのが慣例です」

「勿論、これはずっと先の話です。わたくしが陛下の和子を生み、わたくしの地位が確立するまでは、祖父は宰相の座を譲らないでしょう。わたくしが次の国王陛下を生めば、父を自分の後釜に据え、わたくしと和子を意のままに操る……そういう算段でしょう。だけど、わたくしはいつまでも小娘ではありません。わたくしは国母になるのですから、その時までに、わたくしはわたくしだけの臣を集め、祖父に対抗できる力を持つのが筋だと思います」

「……王妃陛下。僭越ながら、わたくしの意見をお耳に入れさせて頂きたく思います」

「どうぞ」

「王妃陛下は、即位されたばかりでお疲れになっておられるのでしょう。それにやはり、グリンサム公の事で動揺されているのかも知れません。と申しますのは、王妃陛下程のご聡明な女性がわたしなどにそのような事を本意から話されるとは思えないからでございます。王妃の務めは、宰相と権力争いをする事ではありません。お世継ぎをお生みになる事も含め、国王陛下にとって、そしてヴェルサリアにとって最も必要な女性でおられる事、そして王国一の貴婦人として全ての女性の上に立ち、模範となるような公務を行われる事でございます――このような事はわたくしなどが申し上げるまでもなく踏まえておいでの事とは存じております。どうか無礼をお許し下さいますよう」

 アルフォンスは、ごく当然の事を言った。王妃を教え諭す目的ではない。王妃の真の意図を探る為だ。あまりに喋りすぎる……味方になるかどうか判らぬ相手にこんな重要な事を簡単に口にするような浅はかな女性ではない筈だ。もしも心から思っての言葉ならば憤慨するかも知れないが……。

 果たしてリーリアは、薄く冷たい笑みを浮かべた。

「わたくしの申し出を断るというのですね」

「わたしは元々、国王陛下、王妃陛下の忠実なるしもべでございます。褒賞など仰らずとも、いつなりとこの身は両陛下への忠誠に捧げるもの。王妃陛下のご命を断るなど、あろう筈もありません」

「さすがはルーン公、と言っておきましょう。ヴェイヨン公に同じ話をしたら、随分揺れ動いていたようですもの。尤も、彼に祖父に逆らう胆力などある筈がないけれども」

「他の公爵にも同じ話をなさったのですか」

 これにはアルフォンスも少なからず驚いた。

「他に、と言っても、ラングレイ老公は別ですし、ローズナー女公はこのように話す機会がまだありませんから、あと祖父を除けばあなたを含めて三人だけです。グリンサム公は、話をする間もなく亡くなってしまいましたから」

「何故そんな事を?」

「あなたは、わたくしの言葉を本意ではないと言われましたが、最初に言った、『真実を知りたい』という言葉は本意だからです。王妃となったわたくしは、ヴェルサリアの七本の柱について全てを知らなくてはなりません」

「知る事は出来ましたか?」

「ええ、ある程度は。そしてルーン公、あなたはやはりわたくしが思っていた通り。才智と人徳と魅力と身分、全てを持っているのに、力を欲しない。臣下として最高の地位にもまったく興味がない」

「もしも国王陛下から拝命があれば、何をおいても務めを全う致しますが、自分から地位を望む心はありません」

「大抵の者は、無欲を美徳と捉えます。けれどわたくしはそうは思わない。己の可能性を捨てる者は愚か者だと思います。あなたの事です、ルーン公。先程の甘言に乗らなかったからではありません。あなたの言葉を聞いて、以前から抱いていた印象は正しかったと確信しました」

 娘とあまり変わらぬ年齢の王妃からの侮辱に等しい言葉に、不思議とアルフォンスは腹も立たなかった。

「わたしはどうお答えすればお気に召したのでしょうか?」

 寧ろ興を感じながらアルフォンスは若き王妃の答えを待った。王妃は表情を変える事なく、

「先程のわたくしの言葉の、どこまでが真意でどこが偽りであったか、考えてみるといいですわ。もしも……」


 だが、ここで会話は終了した。曲が終わったのだ。この剣呑な会話を、王妃とルーン公爵は終始、完璧な礼儀作法に則った距離と笑顔を保ったまま行っていたので、大衆は注目を浴びせながらも殆ど誰もが、二人が話をしていた事にさえ気づかなかった。アルフォンスは王妃に跪いて敬意と謝意を表し、離れた。二人の洗練され尽くした動きに見とれていた者たちは、我に返り、また宴の楽しみに戻ろうとしていた。

 しかしこの時、ホールにまたひとつの事件が起こった。中央から少し離れたバルコニー寄りの一角で、突如若い女性の悲鳴があがったのだ。アルフォンスははっと身を固くした。

(まさか……)

「父上! 父上!」

 急ぎ人混みをかき分けてゆくと、眼前の光景は怖ろしい予感と重なった。青ざめ、ぐったりとしたユーリンダをファルシスが抱きかかえ、その力なく垂れた手をアトラウスが握り締めていた。先程のエーリクの冷たく動かなくなった姿と愛娘の姿が思わず重なり、アルフォンスは血相を変えて駆け寄った。

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