18・神子の惑い

 薄暗い地下から表に出ると、陽の光が眩くてアルフォンスは思わず両目を覆った。あんな薄暗い部屋に幼い子がいつまでと当てもなくたったひとりで閉じ込められていたことの哀れさを改めて感じ、自分は何があろうと、あの子に憎まれようともずっとあの子を護ってやろうと胸に誓う。シルヴィアは自分を信じて我が子を託して逝ったのだ。カレリンダがどう思おうと、アトラウスが幸せに育つような環境を作ってやるのは、シルヴィアの元許婚として、アトラウスの伯父として、ルーン公爵として自分にも大きな責任がある。庭園を歩いて行くうち、かつて、在りし日のシルヴィアが嬉しそうにここを案内してくれた姿がまざまざと脳裏に甦ってきた。白く美しいアデリアの花は、少女時代からシルヴィアがこよなく愛していた花。女主人を失ったいまも、盛りに咲きこぼれる花々を眺めながら、この美しさをアトラウスに教えるにはどうしたらよいのかと思い悩んだ。

 そうして次にアルフォンスが思いついた手立ては、子どもたちに話をさせる事だった。昨夜はとても打ち解け合い、本当のきょうだいのようだった。おとな相手よりは、子ども同士の方が心を開いて話せるかも知れない。もしかしたら大して変わらない反応しか得られないかも知れないが、それはただの子どもの喧嘩だ。試してみる価値はある。

 カレリンダの同意を得ようと、かれは妻を探した。だが、驚いたことに、カレリンダは夫を置いて馬車で先に帰宅してしまっていた。こんな事はかつてなかった事だ。いったい彼女はどうしてしまったのだろう?

 仕方なく、カルシス家の馬を借りて帰ろうと思い、その前にもう一度弟の様子を見に行った。先刻と同じ姿勢で座ったまま、何かぶつぶつ呟いている。

「なんでおればっかりこんな目に遭うんだ。あいつがちゃんと黄金色の髪の子どもを産んでくれていれば……おれのせいじゃない。ああ、シルヴィア、おれを恨むんじゃない……おれは、おれはどうすればいいんだ……」

 傍の卓にはシルヴィアの遺書と共に酒瓶が置かれている。アルフォンスは嘆息して軽く首を振った。確かに、弟には息子にまともな教育を施せるとは思えない。


 カルシス家の執事に馬を頼んでいるところへ、若い騎士が駆け寄ってきた。

「殿、それには及びませぬ。ヴィーシェを牽いてきましたから」

「エクリティス!」

 アルフォンスは軽く驚いて騎士を振り返った。エクリティス・ウィルムは聖炎騎士団の一員で、子どもの頃から共に遊び学んだ、腹心の部下である。騎士団長ハーヴィス・ウィルムの長子でアルフォンスの一歳年下、黒髪を肩の辺りで雑に結わえた長身のこの男は、性格も明るくなかなかの男前で巷の婦女子の人気も高かったが、忠義一筋で、女性に対しては堅物として知られている。

「なぜここに?」

「団長と御邸に伺う途中で妃殿下の馬車と行き合わせたのです。事情をお聞きして、殿がお困りと思い、取り急ぎ」

 ヴィーシェというのはアルフォンスの愛馬で、騎士団の厩舎に入れていたのを牽いてきたようだ。気難しい白毛の馬で、扱えるのは熟練の馬丁を除いてはアルフォンスとエクリティスしかいない。

「カレリンダはどんな様子だった?」

「それは……落ち込んでおられるご様子でした。伯爵妃さまがお亡くなりになったとか? ご気分が優れずに早く帰りたくて殿を置いてきてしまったと……余程お加減がお悪いのでしょうか? 団長がそのまま馬車に付き添いましたが、あのようなお顔をなさるのは初めて見ました」

「そうか……」

 エクリティスは詳しい事情はまだ知らないようだ。馬繋ぎに向かいながらアルフォンスは片腕と頼る部下にシルヴィアの死の真相とカレリンダの反応について説明した。

「どう思う? アトラウスについて、何か名案はないか。それに、カレリンダはなぜあんなに取り乱してしまったのだろう?」

「……」

 そう言われても、エクリティスは妻子どころか恋人のひとりもいない。勇猛で誠実な男だが、繊細な女性の心理や幼児の扱い方がアルフォンス以上に解る訳もない。アルフォンスとて、解決策を期待して話した訳でもなく、自分の気持ちを整理する為に、包み隠さず話せる数少ない相手に思うままに言ってみたに過ぎない。黙り込んでしまったエクリティスに苦笑し、

「すまん、気にしないでくれ。これはわたしの私的な問題なんだから」

 と言葉を添えた。だが、エクリティスは真剣に考え込む面持ちを崩さない。

「エク、いいんだ、もし後で何か思いついたなら……」

「アルフォンスさま」

 エクリティスは、つと顔を上げた。

「なんだ?」

「私は、女性や子どもの心理には疎くてお役に立てるような解答は思いつきそうにありません」

「あ、ああ、解っている。すまん」

「しかし、たったひとつ私が申し上げられる事がございます。カレリンダさまは、決して、苦しんでいる罪なき幼子をお見捨てになるような方ではないという事です」

「……そうだな」

 改めてそう言われると、頭の靄が少し晴れる思いがした。そうだ、彼女があんな態度をとったのは、何らかの訳がある筈だ。それがなんなのかをきちんと彼女の口から聞かなくては。

「ありがとう、いや、充分参考になった。なんだおまえ、ちゃんと女性の心理が解っているじゃないか。これなら心配してやらなくてもよさそうだ」

 僅かに気持ちがほぐれて、アルフォンスは軽口を叩いた。エクリティスが自分と一歳しか違わないのに未だ浮いた話のひとつもない事は、騎士団でもよくからかいの種にされている。なんの心配ですか! と顔を赤くする部下に軽く笑ってみせたが、すぐにまた心はアトラウスの上に戻ってゆく。馬上の人となり、ずっと考え込んでいる面持ちのアルフォンスにエクリティスは黙って付き従った。


 帰宅した頃には夕方になっていた。長い一日だった。昨夜は系図を調べたりしていて全く睡眠をとっていない。さすがに身も心も疲労を感じていた。

「お父さま~!」

 ファルシスとユーリンダが玄関ホールに飛び出してきてまとわりつく。

「お母さまはどうした?」

「あたまが痛いって、お休みされているよ」

「そうか……」

「アトラウスはどうしたの? なんでもう帰っちゃったの?」

 可愛らしい声であどけなく尋ねてくる愛し子たちに、アルフォンスの疲れは少し癒やされる。

「アトラウスのお父さまが迎えにいらしたのだよ」

「ええ? 叔父さまが?」

 昨日のカルシスの態度が頭に残っているふたごは、不安げな顔になる。

「アトラウス、また叔父さまに叩かれてしまうんじゃないの? しばらくアトラウスはお家に帰さない、って言ってたじゃない。アトラウス、だいじょうぶなの?」

「シルヴィア叔母さまは? アトラウスは、叔母さまが今日来るんだって、楽しみにしていたよ?」

 この問いにアルフォンスの顔は曇る。カレリンダに相談せずに話してしまってよいものか。だが、先に帰った上にもう寝ているという事なら、わざわざ起こして問題を持ち込むのも憚られる。彼女の体調が本当に心配になってきた。かと言って、ここで言葉を濁してはぐらかすのも良くないし、アトラウスの事は先延ばしにしていい事ではない。明日にはカレリンダの気も鎮まっているだろうから、それから落ち着いて話をする方がよいように思えてきた。

「うん……実は、悲しいことが起きてしまったんだよ。部屋で話そう」

 そう言ってアルフォンスは子どもたちの肩を抱いた。

「わたしの愛し子たち……いとこを、アトラウスを、助けてやっておくれ」


 そして、部屋に入って、アルフォンスはなるべく子どもたちに理解できるよう、しかし残酷な運命は感じさせないよう、優しく話した。どのように話すかは、帰路でずっと考えていた。アトラウスのお母さまがルルアの国へ行ってしまったこと。それをアトラウスが知ってしまって、ひどく傷ついてあの地下の部屋に閉じこもってしまったこと。

「アトラウスは、お母さまが亡くなったことを、自分のせいか、ルルアのせいだと思っているんだよ。そんな事はなくて、これはアトラウスのお母さまの望んだことであって、アトラウスは外へ出てきて元気に暮らすべきなんだ。それが、シルヴィア叔母さまの一番の望みなんだ。すぐに元気を出すのは、もちろん難しいだろうけど、ちゃんと食事をして、だんだんと元気にならないといけない。その事を、アトラウスにお話してくれるかい?」

「どうしてシルヴィア叔母さまはアトラウスを置いて行ってしまったの?」

 泣きながらユーリンダが聞いた。

「アトラウスが、あの地下の部屋にまた閉じ込められない為に、シルヴィア叔母さまはアトラウスを守ったんだ。でも、それはアトラウスのせいじゃないんだよ。アトラウスは、悲しすぎて、自分を悪い子と思い込んでいるんだ」

「アトラウスはいい子だよ! ぼく、親友になったんだ!」

 ファルシスが言う。アルフォンスは息子の頭を撫でた。


 その時、室の扉が開いた。

「あなた! 子どもたちに何を話されてますの?!」

 カレリンダだった。アルフォンスは仰天した。伏せっていたのを、様子を聞いてそのまま駆け出してきたらしく、彼女は寝着で裸足のままだったからだ。

「何って、アトラウスのことを……」

「子どもたちに重荷を負わせるおつもりですの! わたくしたちの話にも耳を貸さないような子が、すんなり心を開く筈もありません。傷つくのは、ファルとユーリィですわ!」

「お母さま! どうしたの?」

 ふたごは常にない母親の取り乱しようにびっくりして目を丸くしていた。母が、父にこんなに責めるようにものを言うのも、聞いたことがない。

「そんなこと、やってみなければわからない。いったい本当にどうしてしまったんだ、きみは?」

「やらなくてもわかりきっていることですわ。ファルとユーリィを、あの子に近づけないで! あんな冒涜を吐くなんて、あの子、呪われているんだわ。だから、あの姿……」

「いい加減にしないか!」

 遂にアルフォンスもかっとなって妻の手をぐいと掴んだ。

「きみがそんな事を言うなんて、いったいどうした事なんだ! おい、誰かイルーラを呼べ! 奥方を寝所へ連れて行って安眠茶を飲ませろ!」

 カレリンダの姿に驚いた使用人たちは皆、見てはいけないと姿を隠している。苛立ってアルフォンスは侍女長を呼んだ。

「お母さま、どうしたの、お母さま?!」

 ファルシスとユーリンダはカレリンダに縋り付いてわあわあ泣いている。両親が言い争う姿を生まれて初めて目にしたのだ。カレリンダは何かに取り憑かれたように、

「わたくしの子どもたちを連れて行かないで!」

 と叫び続けている。

「大丈夫だ、今日はもうどこへも行かないから!」

 正気に戻そうと妻の肩を抱きながらアルフォンスは、カレリンダはシルヴィアの死に様の衝撃で、母性本能が暴走しているのかと思い始めた。

「子どもたちは大丈夫だよ。ルルアに守られているんだから。聖炎の神子の子どもなんだから。心配しなくていいんだ。ちょっと明日、ふさぎ込んでいるいとこに会いに行くだけだから」

 ゆっくりと優しく言い聞かせられたその言葉に、カレリンダの瞳に少し光が戻った。

「ほんとうに……?」

「ほんとうだとも。わたしが、ファルとユーリィを悪い目に遭わせるとでも思うのか? そんなにわたしを信用していないのか? わたしにとって何よりも大事なのは、きみと子どもたちだという事くらい、言わなくても解っているかと思っていたが」

「ああ……そうね、そうね。ごめんなさい、アルフ……わたくし……ただ心配だったの。そうね、あの子は子どもたちのたった一人のいとこですものね。助けてあげなくてはいけないわね……」

 そう言うと、カレリンダはふっと意識を失い、夫の腕の中に崩れ落ちた。

「お母さま! お母さま!」

 泣き喚く子どもたちを、アルフォンスはしぃっと制した。

「大丈夫だよ。お母さまは疲れて眠ってしまっただけだよ」

 そう言うと、アルフォンスは妻の身体を抱え上げた。

「明日になれば、いつものお母さまに戻るよ。そして、みんなでアトラウスのところへ行こうね」

 侍女長がようやくやって来たが、もういいと言ってアルフォンスは自ら妻を寝所へ運んで寝台に休ませた。身体も神経もくたくただった。子どもたちは一応安心したらしく、普通に戻っている。自分の言葉通りになればいいがと願いながら、アルフォンスは休息の為に自室へ向かった。

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