第2話
その日の夜。
馴染みの酒場『銀の角兜亭』にひとり繰り出し、酒食を楽しむマーシャは、酒場の扉を開いて入ってきた人物を認めると手を振って呼びかけた。
「おおいシャノン、こっちだ」
「……あら、先生。お久しぶり」
呼びかけに答え、カウンターにマーシャと並んで腰かけたのは、二十代前半の女性である。
アイほどではないにせよ、身長はかなり低め。赤みがかった茶色の髪を無造作に一つに束ねており、もう夜も更けてきたころだというのにところどころ寝癖が飛び跳ねている。目鼻立ちははっきりしているのだが、その眼はいかにも眠たげに細められている。
その女性――シャノン・エンフィールドは、席に着くなり店主にいくつかの料理を注文する。
「今日は酒はやらぬのか?」
「まだ仕事中だから。眠くなるといけない」
「今度はどんな仕事なんだ?」
「カルハディアの国の小説」
「カルハディア――確か、大陸の南のほうにある国だったか」
「そう」
どこかつっけんどんにも感じられる口調だが、彼女に悪気がないのをマーシャは知っている。シャノンという女性は、人付き合いが少々苦手なだけなのだ。
彼女の仕事というのは、翻訳である。異国語で書かれた書物を、シーラントの言葉に訳すというものだ。
シャノンの父親は、港町セルスを中心に交易を行う、シーラントでもそれと知られる貿易商であった。父親率いる船団に幼いころから乗り組み、多くの大陸の国々を渡り歩いたというシャノンは、現地の言葉の習得に類稀なる才能を示した。滞在した国の言葉を次々と習得していき、現地人と変わらぬ水準で読み書きのできる言語は七か国語に及ぶという。
たとえば、アイの故国ゲトナーの言葉は、系統的にシーラント語と祖先を同じくする近しい言語だ。文法や単語の綴り、発音など共通する要素が多いため、シーラント人がゲトナー語を習得するのは比較的容易とされ、逆にゲトナー人がシーラント語を学ぶ場合も同様である。また、両国は政治的にも経済的にも親密なため、ゲトナー語をシーラント語に翻訳できる人間は少なくない。
しかし、ゲトナー語のほかカルハディア語、さらには東の大国ラダの言葉に至るまで自由に操れる人間というのは、シーラントにおいても希少である。
四年ほど前に、シャノンの父親の船団が大嵐ですべて沈没するという悲惨な事故が起きた。彼女自身はそのときの航海に参加しておらず難を逃れたが、両親はそのとき死亡、エンフィールド商会は倒産の憂き目に遭った。シャノンにはろくな財産も残されず、どこかに嫁に行くくらいしか生きる道はないように思われたが――彼女は、自身の特技を生かし、自活することを選択したのである。
その自活のための仕事が、翻訳業というわけだ。
翻訳するのは、学術的な書物から、娯楽目的の小説、詩歌にいたるまで多種多様である。
また、貴族や富豪が海外から客を招いたときなどに、通訳を依頼されることもあるとか。その能力を買われ、専属の通訳として働かないかと誘われることもあるらしいのだが、シャノン自身は
「私は、本を読んでいるほうが好きだから」
と、応じようとしない。
先代国王フェリックスの時代から、シーラントと諸外国との交流はとみに活発になった。異国の文化も多く流入しているため、現在この国では翻訳者・通訳の手はいくらあっても足りないという状態だ。シャノンのもとにもひっきりなしに仕事が舞い込むため、自分一人が食べていくぶんには全く困らないのだとか。
「ところで、今日の昼間、シャノンの部屋に子供たちの遊びに使う球が飛び込んでしまったのだが」
「……? 寝てたから気が付かなかったけど……」
球打ち遊びでマーシャが球を打ち込んでしまった部屋――そこに暮らすのが、シャノンだったのである。女性一人でも安心して暮らせるところ、という条件で部屋を探していた彼女が、桜蓮荘に入居したのが二年前のこと。
彼女に桜蓮荘を紹介したのは、マーシャの師マイカ・ローウェルだ。マイカはシャノンの父と親交があり、王都を拠点に本格的に翻訳業を始めようとしていたシャノンの世話をしていたのである。
ロータス街に暮らすなら、桜蓮荘ほど安全な場所はあるまい。マーシャの名は街の悪党たちにも広く知られている。桜蓮荘に押し込もうとする人間や、マーシャの店子と知ってちょっかいをかけようとする人間は、少なくともこの界隈には存在しないからだ。
シャノンの一日の過ごし方は、かなり変わっている。夜の間に翻訳の仕事を行い、午前中から夕方にかけて睡眠を取るという、まるで昼夜が逆転しているかのような生活をしているのだ。ミネルヴァなどに「だらしない」と評されるマーシャですら、ここまでではない。
マーシャはシャノンの暮らしぶりと、彼女が一度寝入ってしまうと多少のことでは眼を覚まさないのを知っている。そのため、子供たちに球を諦めるよう言ったのであった。
「球ってどんなの?」
「ほれ、このくらいの布を丸めたのだ」
マーシャは手で球の大きさを示してやる。
「わかった。部屋に帰ったら探しておく」
「よろしく頼む。見つかったら、ドアの外にでも放り出しておいてくれればいい」
やがて、食事を終えたシャノンは、早々と席を立った。
「もう帰るのか」
「今、仕事が山場だから。締め切りが三日後だから、しばらくはまともに寝られないかも」
「それは大変なことだ。頑張ってくれ」
「ありがとう。それじゃ」
のそのそとした足取りで、シャノンは去っていった。
「シャノンも忙しそうだな。まあ、忙しいというのはそれだけ仕事が順調ということか」
マーシャが思わずひとりごちるのだった。
三日後のことだ。夕刻になり、レンでは弱い雨が降り始めた。
中庭に、桜蓮荘の店子の誰かのものらしき洗濯物が干されているのを見たマーシャは、取り込んでおいてやろうと部屋を出た。
二階に降りたところで、シャノンの部屋の前に一人の男が佇んでいるのに気付く。年のころは四十前後、身なりはちゃんとしており、決して不審な男というわけではない。部屋の扉を前にして、いかにもな困り顔の男に、
「もし、そこの部屋の住人になにか御用ですか?」
そうマーシャは声をかけた。
「いえ、その……」
突然声をかけられ、口ごもる男であったが、
「私はこの建物の大家です。お困りでしたらお話を伺いますよ」
と言われ、安心した様子を見せた。
「わたくし、ガードナー商会に勤めるライトと申します」
「ガードナー商会?」
マーシャが聞いたことのない屋号である。
「はい。パラス街のほうで、出版業をやっております」
好景気が続くシーラントにおいて、近年特に目覚ましい成長を遂げている産業の一つが、出版業である。
三十年ほど前、大陸で革新的な印刷技術が発明されたこと、そして紙の製造技術が進歩したことも相まって、本というものの製造にかかる費用は、以前に比べ格段に低くなった。
結果、一部の知識人や聖職者以外は手にすることのできなかった本というものが、一気に一般庶民でも手の届く存在となった。先王フェリックスが広く行った識字教育が実を結び始めた時期でもあり、本に対する需要は爆発的に増加した。
出版業という新しい産業は、今後も伸び続ける業界であると、投資家たちにも注目されているのだとか。
「出版業――となると、シャロンに仕事を?」
「ええ。エンフィールドさんに、カルハディア国の小説の翻訳を依頼していたのですが……」
「ああ、そういえば――」
酒場での会話を思い出す。カルハディアの国の小説を、三日後までに訳さなくてはならない。確かに、シャノンはそう言っていた。
「本日がその締め切りでして、こうして取りに伺ったのですが――何度ノックしても、一向にお出でにならないのですよ」
いくらシャノンでも、寝ている時間ではない。マーシャはドアに耳を当ててみる。しかし、鋭敏なマーシャの感覚をもってしても、部屋の中から人の気配は感じられなかった。
念のため、強くドアを叩いてみるが、反応はない。
「どうやら、不在のようですね」
「ふぅむ……彼女にはこれまで何度も依頼をしているのですが、こんなことは初めてですよ」
「初めて、とは」
「締め切りはきっちり守るかたですし、訪問のお約束をしていた時に不在ということもいままでありませんでしたので」
「なるほど……」
「仕方ありません、今日のところは引き上げることにします」
「うちの店子が、ご迷惑をおかけしたようです。申し訳ない」
「いえ、お気になさらず。やむを得ぬ急用ができたのかもしれませんし」
「シャノンに会ったら、あなたがいらしたことを伝えておきますよ」
「はい、お願いいたします。では、私はこれで」
男は、折り目正しく礼をして去っていった。
このとき、もう少しことを深刻に考えるべきだった。マーシャは、後になってそう後悔する。というのも、シャノンは翌日になっても部屋に戻らなかったからだ。
シャロンが、なにか事件にでも巻き込まれたのではないか――マーシャがそう考えたのも、自然なことである。
マーシャはすぐさまアイ、ミネルヴァ、そしてパメラを呼ぶと、事情を説明した。
「たしかに、それはおかしな話にござるな」
アイは、話を聞くなり頷いた。
「私はまだ数度顔を合わせたきりで、シャロンさんのことをよく存じ上げないのですけれど――一晩部屋を開けるのがそれほどおかしなことですの?」
疑問を差し挟んだのはミネルヴァである。若い娘が夜遊びをして翌日朝帰り、ということは世間ではそう珍しくない。大貴族の家で生まれ育ったミネルヴァとて、そのことを知らぬほど世間知らずではない。
「シャロンは夜遊びをするような娘ではないのですよ、ミネルヴァ様」
「うむ。なにせ彼女は、先生以上の出不精ゆえ」
桜蓮荘に越してきたばかりのミネルヴァは、まだシャロンの人となりを知らぬ。シャロンは、外で遊び歩くよりも、家の中で仕事をしたり本を読んだりすることのほうを好む質なのだ。
「仕事はきちんとこなすとの評判も聞いている。連絡もなしに、依頼を遅らせるようなことはしないはずだ」
「なるほど――それは不審ですわね。パメラはどう思います?」
意見を求められ、それまでミネルヴァの後ろに控えていたパメラが口を開く。
「はい。エンフィールド様が、不測の事態に遭遇した可能性は高いかと存じます。早急に手を打つべきかと」
怪盗事件に際し、優れた判断力と情報収集能力を示したパメラの言葉であるから、一同は一も二もなく納得する。
「承知。警備部に通報するなら、
「……いや、それには及ばぬ」
早くも走り出そうとするアイを、マーシャが押し留めた。前述のとおり、若い娘が一晩家を留守にするのはよくあることだ。事件として取り扱ってもらえる可能性は低い。
マーシャはロータス街を管轄とする警備部第五分隊に顔がきくため、頼み込めば捜査をしてもらうことは不可能ではない。しかし、現在警備部は怪盗騒ぎの残務処理もあり、いまだ多忙だとマーシャも聞き及んでいる。無理を通すのは気が引ける。
「とりあえずは、われわれだけで探してみよう」
「では、私が人相書きを作成いたします」
パメラは自室に戻ると、ほどなくして見事なシャロンの似顔絵を人数分携え戻ってきた。彼女にしてもシャロンには数度しか会ったことがないはずなのだが、その記憶力と描写力にはマーシャも称賛せずにはいられない。
「この程度、密偵としての嗜みにございます」
と、パメラは謙遜するのみだ。
四人は人相書きを手に、ロータス街の人々に聞き込みをして回った。結果、シャロンの足取りらしきものが判明した。
シャロンが最後に目撃されたのは、二日前。『銀の角兜亭』にて食事をとっていたのを多くの常連、そして店主が目撃している。店を出た直後の彼女の姿を見た者も数人いた。しかし、その後彼女を見た者はいない。夜のことゆえ、桜蓮荘までの道のりでシャロンが目撃されなかったとしてもおかしくはない。しかし、
「桜蓮荘に着くまでの間、なにかあったのではないか……」
とマーシャたちが推測するのも、あながち的外れとは言えないだろう。
とはいえこれだけの情報では、いかにパメラであっても、シャロンの所在を掴むことは難しい。捜査は、暗礁に乗り上げたかに見えた。
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